マーラー『大地の歌』(中国語歌唱盤)を聴く

文:松本武巳さん

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CDジャケット

マーラー
『大地の歌』(中国語〈広東語〉歌唱)

  • ニン・リャン(Ms)
  • ウォーレン・モク(T)

ラン・シュイ指揮
シンガポール交響楽団
録音:2005年7-8月、シンガポール、エスプラナーデ・コンサートホール
BIS(輸入盤 BIS SA1547) SACD

 

■ ありそうでいて、これまで無かった企画盤

 

 マーラーの大地の歌、これを一度中国語で聴いてみたいと考えたことのある方は結構多いと思われるし、特に漢詩について若干の知識を持っている日本人ならば、なおさらそのように考えて何の不思議もない話なのだが、たぶんこれが少なくともワールドワイドな企画としては初めてのディスクなのではなかろうか。

 本ディスクの中国語(広東語)の歌詞は、香港在住のダニエル・ング(Daniel Ng)氏による作詞(もともと大地の歌は漢詩を自由に引用した創作詞)であり、マーラーが用いたドイツ語からの逆翻訳ではなく、中国人により原曲になるべく合った形で漢詩をもとに新たに作詞し直したものであるようだ。

 

■ 演奏家たちの簡単な紹介

 

 指揮者ラン・シュイは1957年中華人民共和国の杭州で生れた。文化大革命のために音楽の勉強の中断を余儀なくされたものの、後にアメリカに渡って才能が開花し、現在はアメリカ国籍の指揮者である。長らくシンガポール交響楽団の音楽監督であったが、2019年初頭に退任した。チェレプニンの交響曲と小川典子をソリストとして迎えてのピアノ協奏曲の各全集が、現在までの彼の代表作と言って良いであろう。彼の楽曲解釈は非常に穏当かつ真っ当なもので、奇を衒うようなことはほとんどしていない正統派の指揮者なのだが、アジアの音楽家の情報がきわめて少ない日本では、残念ながらさして知られた指揮者の部類には入らないであろう。今回は楽曲だけでなく、この指揮者の紹介もしてみたいと考えたのが執筆動機なのである。

 メゾソプラノのニン・リャンは、コリン・デイヴィスとバイエルン放送交響楽団によるマーラーの交響曲第8番でも歌っており、また、ジェイムズ・コンロン指揮のプッチーニ『マダム・バタフライ』でもスズキ役で歌っている。このスズキ役は非常に優れた役回りを演じているように思えるので、機会があればぜひ聴いてみて欲しいと思う。また、テノールのウォーレン・モクは、香港オペラ界のプリンスと称されている歌手で、ポピュラー音楽を含めた幅広い活動を継続しているようだが、ディスクはあまり多くないようだ。

 

■ あまりにも真っ当な『大地の歌』

 

 まったく違和感のない、我々が良く知っている(と思われる)マーラーの世界が、冒頭から存分に繰り広げられる。ボーっと聴いていると原曲以上に原曲らしく聴こえてきて、こうなってくると凡そ違和感どころか、これこそが本家本元の正当な演奏であるようにすら聴こえてくるのだ。もちろん、指揮者もソリストも変な小細工を一切仕掛けてこないことも、違和感を聴き手に与えない一因ではあろうが、この企画盤がすぐれた一つの芸術作品であることを物語っていると言っても良いであろう。実はこのディスクの余白には、終曲の一部がドイツ語ヴァージョンで収録されているので、聴き比べてみるのも一興だろうと思われる。

 

■ アジアで繰り広げられる新しい取り組み

 

 アジアでは、シンガポールに限らず各地で新しい西洋音楽への斬新な取り組みが多く行われているのだが、あまり日本では知られておらず、非常に残念な一面がある。もちろん、取り組み内容は実に玉石混交であり、「トンデモ」企画も多々存在しているのだが、このような取り組みを経て成長していく過程を見守ることは楽しいことであるし、各々の取り組みへの評価が真二つに割れることも当然多くあるであろう。例えば、この『大地の歌』のディスクを残念な演奏であると評され、逆に私が嫌っている同じBIS制作のSACDである、マレーシア・フィルによるスメタナ『わが祖国』を絶賛される方も確かにいらっしゃるのだが、いずれも凡そ話題沸騰とはならずに、知る人ぞ知る話題に留まってしまっていること自体が寂しいと感じるのである。

 このようなアジアの取り組みについて、関心を持っている日本人の少なさは、正直なところとても残念でならない。日本がかつてお雇い外国人から学び、西洋文化を旺盛に吸収しようとした、自らの過去を見つめ直す意味でも、現在のアジア各地の取り組みは私にとってはとても興味のある部分が多いのだ。ここであえて紹介に努めたのは、ほとんど報道されないために興味を持ち得なかった方々の中には、きっかけさえあれば興味を抱かれる方も多いであろうと信じるからであり、日本を含めた地球規模での危機的状況下だからこそ、興味を抱くきっかけを掴むチャンスではないだろうかと考え、心身ともに疲弊気味で優れない中、あえて執筆に挑んだ次第である。ぜひこの機会にアジアの音楽界にも興味の目を向けて欲しいと念願し、文を閉じたい。

 

(2020年4月7日、緊急事態宣言発令寸前に記す)

 

2020年4月7日掲載、An die MusikクラシックCD試聴記