ソコロフの1968年来日時の記憶とチャイコフスキー・コンクール

文:松本武巳さん

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LPジャケット
LPレーベル面

チャイコフスキー
ピアノ協奏曲第1番 作品23
グリゴリー・ソコロフ(ピアノ)
ネーメ・ヤルヴィ指揮ソヴィエト国立交響楽団
録音:1966年モスクワ、第3回チャイコフスキー国際コンクール本選ライヴ
ソ連Melodiya (C 01331-2)LP 

 

■ 生ける伝説と化しつつあるグリゴリー・ソコロフ

 

 パリでの映像や、ザルツブルクでのライヴ録音の発売で、存命かつ現役のピアニストであるにも関わらず、すでに伝説化しかかっている巨匠ソコロフだが、実は非常に若いころに来日しているのである。今回は、その当時の記憶を中心に書いてみたい。 

 

■ 1968年ソヴィエト国立交響楽団来日公演

 

 姉が音楽教育を本格的に開始したおかげで、期せずして早熟(その後凡人)人生の典型となった私は、すでに書いたことがある通り、1965年4月に5歳8か月でコンサート初体験をしていた。その後は、少しずつ聴く機会を増やしており、1967年春と1969年秋のサンソン・フランソワの来日公演も聴く機会に恵まれていた。当時は、ショパン・コンクールとチャイコフスキー・コンクールという、国家の威信をかけて開催する2大コンクールの報道が、その開催時だけ東側の報道管制が緩められて日本にも届いていた。もちろん、当時の私は政治的なことなど、1968年8月のプラハの春事件発生までは、およそ知る由が無く、ワルシャワやソ連に対する理由なき憧れを抱いていたのである。

 さらに、ピアノが私の受けた音楽教育の根幹であったこともあって、1965年のショパン・コンクール開催の翌年にワルシャワ国立フィルが来日し、ロヴィツキ指揮中村紘子ピアノのショパンのピアノ協奏曲第1番を神戸で聴いたこと、加えて1966年のチャイコフスキー・コンクール開催の2年後に、同様にソヴィエト国立交響楽団が来日し、今度は京都で聴いたこと(確か神戸でも行われたが、プログラムにピアノ協奏曲が入っていなかったので、京都まで出かけた)をはっきりと記憶している。

 典型的な子どもであった私は、2大コンクールに親近感を抱き、音楽教育も結構本格的になっていたので、1966年の中村紘子のショパン演奏に比べると、1968年のソコロフのチャイコフスキー演奏は、一定程度鮮明な記憶がある。しかし、その後1975年春に音大生であった姉を頼って東京に出て、中学生でありながら音大生専用アパートに住んでいたのだが、持ち出したものは大半の楽譜(作曲も習っていたのでスコアも含む)と自身の練習を記録した録音の一部、それに後生大事にしていたフランソワなどの一部のレコードとパンフレットなどであった。ピアノは姉とは別にもう一台祖父のおかげで買ってもらうことができた(家にピアノが3台あることを特殊だと認識していない、そんな大きく世間ずれした子どもだった)。ところが、1976年9月10日、実家(兵庫県)が九州上陸直前に2日間停滞した台風17号の未曽有の集中豪雨により2日連続で床上浸水の被害に遭い、幼少時からのほぼ全ての写真、レッスン記録、レコード、コンサートのパンフレットを失ったのである。実家のピアノはYAMAHAの尽力で無事に蘇生したのは、奇跡に近かったと言えるだろう。 

 

■ 覚えていること−その1

 

 水害で喪失したパンフレットには、ソコロフは確か『若干19歳の新鋭』と紹介されていたと記憶している。コンクール優勝も17歳の時と書かれていたと思う(実際は、来日時18歳、コンクール優勝時16歳)。ところが、2つの理由から、ソコロフは大して話題にならなかった。1つは、この年はブルーノ・レオナルド・ゲルバー来日の話題で日本のピアノ界はもちきりであったこと。2つは、ソコロフが演奏した当日の指揮者は、コンドラシンやスヴェトラーノフではなく、マキシム・ショスタコーヴィチであり、かつプログラムの後半にショスタコーヴィチの交響曲第5番(確かプログラムでは「革命交響曲」と称していた)が含まれていたことである。下手をすると話題の中心から完全に外れていたのかも知れない。 

 

■ 覚えていること−その2

 

 チャイコフスキーのピアノ協奏曲と言えば、当時の理解ではまさに豪放磊落の典型で、超絶技巧かつ体力を要する特別な難曲であり、ソ連人のコンクール優勝の若干19歳が弾くならば、もしかしたら日本に置いてあるピアノを壊すかもしれない、などと言うまことしやかな不安と期待が入り混じった妙な開演前の雰囲気をなんとなく覚えている。ところが、紅顔の美少年であったソコロフは、見た目も演奏内容も痩身の体躯から、細やかな神経が行き届いた繊細なチャイコフスキーを奏でたのである。少なくとも当時の日本で想定されていたチャイコフスキーの協奏曲演奏からはほど遠い演奏だったのである。

 ここで紹介しているコンクールライヴ録音は、かなり後年になって入手に成功したものであるが、もしもこの演奏を事前に聴いていれば、上記のような記憶が生じることもなかったであろうと思われるので、残念としか言いようがない。それにしても、伴奏指揮がネーメ・ヤルヴィだったとは、この点でも感慨と驚きが絶えないレコードである。その後CD化されたものの、このLPへの思い入れが大きいことと、どうもCDの音がこのLPと違うように思えてならないことが相まって、このライヴ録音を聴く場合は今も必ずこのLPを引っ張り出して聴いている。 

 

■ 覚えていること−その3

 

 にもかかわらず、当日の記憶はあまり良いものではなかった。それは、マキシム・ショスタコーヴィチの指揮がかなり平板であったことと、正確な場所は覚えていないが、オケとソリストがバラバラになりかかった危うい場面が複数回あったこと、その際にソコロフの方が指揮に合わせたため、大きな事故にはならなかったが、ソコロフの本音の解釈部分が分からなかったこと、である。マキシム・ショスタコーヴィチは、父親の楽曲でもあまり冴えた演奏を見せなかったように記憶しているが、これは私の興味の方向性の問題に過ぎないかも知れないので、一言添えるにとどめたい。 

 

■ ソコロフの現在と、当時の記憶の接点について

 

 実は、最近のソコロフの演奏を聴いても、私には特別大きな驚きはないのである。誰にでも起こることではあるが、見た目の大きな変化に驚いたのが、せいぜいである。たとえば、初来日時にはリサイタルも開かれているが、そこでのスクリャービンの繊細な演奏(なぜかこれ以外の作曲家の演奏が、まるで記憶に残っていない)などは、現在の演奏と何一つ変わるもののない、まさにソコロフの演奏であったように思うのだ。本来であれば、私がソ連崩壊後のソコロフの発売された音源に対し、何らの違和感も抱かない当たり前のものとして初めから受け入れられるのは、不思議なことと言わねばならない。しかし、そのくらい初来日のときのソコロフの記憶と現在の演奏は、私にとって違和感のない同種のものだったのであろう。人間の深層に残る記憶のなせる業なのかも知れない。今一度、生演奏に接する機会が訪れることを念願している。 

 

(2021年9月19日記す) 

 

2021年9月24日掲載、An die MusikクラシックCD試聴記