2枚のステンハンマル「交響曲第2番&セレナード」のディスクを聴く

文:松本武巳さん

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新名盤(ブロムシュテット)

CDジャケット
ステンハンマル
交響曲第2番作品34
セレナード作品31
ヘルベルト・ブロムシュテット指揮エーテボリ交響楽団
録音:2013年12月、2014年6月、エーテボリ・コンサートホール、ライヴ
BIS (BIS SA2424) SACD

 

旧名盤(マン、クーベリック)

CDジャケット

ステンハンマル
交響曲第2番作品34
トール・マン指揮ストックホルム・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1959年8月15-16日、ストックホルム・コンサートホール
セレナード作品31
ラファエル・クーベリック指揮ストックホルム・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1964年9月22-24日、ストックホルム・コンサートホール
Swedish Society Discofil(輸入盤SCD1114)

LPジャケット

DG (輸入盤108 579)LP
(クーベリック指揮のセレナード初出DG盤LP)

 

■ ステンハンマルについて

   ヴィルヘルム・ステンハンマルは、1871年に生まれ1927年に亡くなったスウェーデンの作曲家であり、ストックホルムで生まれ、ピアニスト、指揮者としても活躍した。オペラ、交響曲、ピアノ協奏曲、弦楽四重奏曲、さらに多くのピアノ曲や声楽曲を作曲し、ストックホルム王室歌劇場の楽長やエーテボリ交響楽団の首席指揮者を務めた。スウェーデンの最も重要な作曲家のひとりで、当初はベートーヴェン、ワーグナー、ブルックナー、ブラームスといった作曲家に影響された力強く激しい情感を伝える作品を書いていたが、ニールセンやシベリウスによってそのような美学に疑問を感じるようになり、やがて新しい理想を成熟させ「北欧風」の抑揚を目標に掲げ、「透明で飾り気ない」音楽を作曲しようとした。高貴さと温かみをあわせもつ音楽が広く愛されてきた。ステンハンマルはシベリウスと親しく、ステンハンマルは弦楽四重奏曲第4番をシベリウスに、シベリウスは交響曲第6番を彼に献呈している。

 ステンハンマルは生涯に交響曲を2曲書いた。指揮者としても活動していたステンハンマルは、ニールセンの交響曲第1番を初演した経験をきっかけに構想を開始し、新しい交響曲の作曲をはじめた。そうして1915年に完成したのが交響曲第2番である。交響曲第2番は、後期ロマンティシズムに古風な様式を融合させて書かれ「ドリア旋法の交響曲」とも呼ばれる。「アンダンテ・エネルジーコ」の第1楽章。「アンダンテ」の第2楽章。第3楽章「スケルツォ」。第4楽章「終曲」は、序奏、対位法と声楽ポリフォニーに基づく3つの部分、コーダから構成されている。1915年4月22日、エーテボリのオーケストラの創立10周年コンサートで初演。「我が親愛なる友人達、エーテボリ交響楽団の団員達へ」のコメントとともに、エーテボリ交響楽団に献呈されている。
 

■ ブロムシュテットによる新盤

 

 2曲ともに、作品を広めようという使命感が犇々と伝わってくる。この曲を演奏する機会はめったになさそうなものだが、ブロムシュテットはまるで何度も演奏したことのある既成の名曲であるかのように、終始余裕をもって演奏している。ステンハンマルが亡くなった1927年に、アメリカ合衆国マサチューセッツ州で生まれたスウェーデン系アメリカ人指揮者ヘルベルト・ブロムシュテットは、ニールセンをはじめとする北欧の作品も数多く手がけてきた。ステンハンマルの作品では、かつてカンタータ「歌曲」を、スウェーデン放送交響楽団を指揮して1982年に全曲録音しているが、今回はたぶんそれ以来の録音であろうと思われる。なお、ブロムシュテットは2018年10月のNHK交響楽団第1896回定期公演で、ステンハンマルの交響曲第2番を指揮した。

 ブロムシュテットによるステンハンマルの交響曲第2番は、第1楽章は舞曲風の主題や古典的な旋律を少し強調することで、非常に聴きやすい音楽として演奏している。そして、作曲者の意図した通り素朴で威厳が感じ取れる。第2楽章は悲しい北欧風の曲想から開始し、次第に豊かな広がりを見せていく。ブロムシュテットの気品が感じ取れ、格調高い音楽に変容させている。第3楽章もやはり北欧風のスケルツォであり、ドイツ風のスケルツォとはまったく異なっていて、スケルツォが昔日本では「諧謔曲」と訳されていたことを、まさに実感させるような音楽となっている。第4楽章はふたつの主題のフーガが緻密に構成されていて、ブラームスを思い出させるような書法であると言えるだろう。この部分はステンハンマルが当時深く研究を重ねていた対位法に拠っている。フーガという非常に古い音楽形式を、現代北欧風に置き換えたステンハンマルの傑作楽章であると言えるが、曲の最後の部分が実は非常に独特なのである。はじめて聴くとかなり戸惑うかも知れないが、慣れてくると嵌ってくるような音楽であると言えるのではないだろうか。全体を貫くのは北欧の香りであることは論をまたない。

 セレナードは、交響曲第2番とともに、少なくともスウェーデンのオーケストラではレパートリーとして定着した作品であると言えるだろう。その意味では、比較視聴するクーベリックとは異なり、ブロムシュテットにとっては親しみをもって接することが初めから可能であったと言えるだろう。ブロムシュテット自身、『この二つの大きな交響作品には、どちらも泣きたくなるほど心を動かされる部分があります。それが何かを正確に言いあらわすことはぜんぜんできません。ひどく郷愁を感じさせるなにかちょっとした表現があるのです。』(※1)と自伝で述べているほどである。1907年、イタリアに休暇で滞在していた時に、突如楽想が浮かんできて、交響曲第2番とほとんど同じ1911年ごろから作曲に着手した。1914年1月30日、王立スウェーデン管弦楽団をステンハンマル自身が指揮して初演したものの、その際は成功を収めたとは言い難く、1919年になって再度改訂されて、1920年3月3日、今度はエーテボリで初演(再演)された。「序曲」、「カンツォネッタ」、「スケルツォ」、「ノットルノ」が切れ目なく演奏され、最後が「終曲」である。なお、改訂の際に割愛された「メヌエットのテンポで」の当初の第2楽章は、『レヴェレンツァ』という曲名の独立した作品として残された。この『レヴェレンツァ』は、パーヴォ・ヤルヴィによる録音が残されている。

 

■ 古いマンとクーベリックのディスク

 

 交響曲第2番は、全体を通じてやや晦渋な交響曲かもしれないが、シベリウスの後期交響曲やブルックナーの音楽に普段から馴染んでいる人であれば、このトール・マンによる古い演奏の良さを理解できるのではないだろうか。第1楽章冒頭、非常に素朴な主題が弦のユニゾンで出て開始されるし、終楽章では大規模なフーガを導入して、スケール大きく壮大な終結部を構築している点などは、確かにシベリウスやブルックナーの音楽と少し似通っているようだ。甘美な抒情性などは明らかに意図的に後退しているが、ブラームスやブルックナーに近い厳格な交響曲が、ここにはあると言えるだろう。まさに、ステンハンマル自身が描いた「華美とは無縁の、謹厳実直な音楽」を具現化している、素朴ではあるが繊細な録音であると言えるだろう。トール・マンの面目躍如たる録音であると言えるだろう。録音は1959年と古いが、決して聴きにくい音質ではない。

 セレナード作品31は、1907年イタリア滞在中のステンハンマルが「美しく、こわれやすい南国についての詩を、北国にしかできないようなやり方で書きたい」と着手した曲である。透明な南国の明るさとほの暗い北国の抒情が交錯するような曲であるが、実は久しぶりにステンハンマルのセレナーデを聴いた気がする。以前はクーベリック盤以外では比較的サロネン盤を聴いていた。第1楽章「序曲」は速いテンポで軽やかに開始されるが、すぐにまるでシベリウスのような楽曲に変わっていく。確かに音の動き自体は爽やかに盛り上り、始終楽曲は展開を見せているのだが、北国の暗い影が何度も差しこんで来るのだ。第2楽章「カンツォネッタ」は、軽やかに進行する音楽のおかげであまり暗くはなっていないが、楽曲自体は憂愁を帯びた側面が感じ取れる。シベリウスはフィンランド人だが、スウェーデン語が母語であったためか、確かに似ていると言えば言えるだろう。ヴァイオリンの美しい独奏と対旋律のチェロ独奏が素晴らしい。弦の対比はクーベリックの得意とするところである。第3楽章はスケルツォで、大変賑やかに盛り上がる曲だが、なんとなく背後に怖さが感じられてならない。終結部はホルンによる新しい主題が高らかに歌われ、非常に聴き映えがする。中間部は北欧を想起させるどんよりした雰囲気だが、すぐに快活な楽曲に戻る。2度目に出てくるホルンによる主題は、不安感を煽るような落ち着きのない主題だが、不安定なまま楽曲はそれなりに徐々に落ち着いてきて、アタッカで第4楽章に続く。

 第4楽章「ノットゥルノ」は非常に美しくはかない音楽である。フルート独奏、ホルンの響き、弦の非常に繊細な音楽が続く。弦楽による美しくはかない感覚で始まり、引き続きフルートやオーボエが朗々と歌う途中で、遠くからホルンが密かに聴こえてきたりする。はかなくもの悲しい音楽で徐々に夜も更けていくような感覚になってくる。第5楽章は染み入るような牧歌的ホルンで開始され、やがて速いテンポになるが、一気に楽曲全体が盛り上がるのではなく、思索的な側面が何度も現れたりしつつ徐々に盛り上がっていく感覚は、シベリウスの音楽と共通性があると言わざるを得ないだろう。この押したり引いたりする楽曲の進行こそが、クーベリックの指揮の真骨頂の一つでもあり、実に聴き応えがする第5楽章である。実はかなり久しぶりにこのセレナードを聴いたのだが、クーベリックの演奏は、いつもながら引き締まった緩みの感じられない演奏で、相変わらず感心した。録音はこちらも古く、1964年の録音である。ちなみに指揮者自体は好きなのだが、ステンハンマルの録音は今一歩な気がしていた、ネーメ・ヤルヴィ盤のBISとDGの録音も、久しぶりに取り出して聴いてみる気になってきたのである。

 

■ 両盤の間に登場した主なディスク

 

 この2曲には、実際には意外なほど多くの録音が存在している。たとえば、交響曲第2番だとヴェステルベリ、ネーメ・ヤルヴィ(BIS、DGの2種類)、パーヴォ・ヤルヴィあたりは存在感ある録音であり、記憶にも残っている。またセレナードの方も、ドラティ、サロネン、ネーメ・ヤルヴィ(BIS、DGの2種類)等々、著名な指揮者による録音が結構多いのである。しかし、これらの後発ディスクはそれぞれに一定の魅力は感じられるものの、古いマンとクーベリックの録音を凌駕したとはどうしても思えなかったのである。根本原因としては、テンポの設定自体への違和感がこれらの後発ディスク全体にどうしても残ってしまうのである。どう違和感を持ったのかは、ここではこれらの録音を比較対象に挙げていないので差し控えるが、早い話がいずれのディスクも、私にとって聴後感がしっくりと来なかったのである。

 ブロムシュテットによる新しいディスクの登場で、ようやくマンとクーベリックによる古いディスクの呪縛から解き放たれた感が強い。ブロムシュテットは、すでに90歳代の高齢ではあるが、まだまだ今後の活躍を期待したいと念願している。10代のころからステンハンマルの音楽に密かに興味を抱き続けていた私は、ようやく現れたブロムシュテットによる優れたディスクの登場を、素直に喜びたいと思う。

※1「ヘルベルト・ブロムシュテット自伝−音楽こそわが天命」(ヘルベルト・ブロムシュテット著、力武京子訳)アルテスパブリッシング社(2018年初版)より引用

 

(2020年11月8日記す)

 

2020年11月8日掲載、An die MusikクラシックCD試聴記