カラヤンの《ハルサイ》をまとめて聴く

文:松本武巳さん

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CDジャケット

1.ストラヴィンスキー作曲
バレエ音楽「春の祭典」
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1963年10月、1964年2月
DG(国内盤 POCG-5056)

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2.ストラヴィンスキー作曲
バレエ音楽「春の祭典」
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1972年ロンドン(ライヴ)
Testament(輸入盤 SBT-1453)

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3.ストラヴィンスキー作曲
バレエ音楽「春の祭典」
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1975、1976、1977年
DG(輸入盤 415 979-2)

 

4.ストラヴィンスキー作曲
バレエ音楽「春の祭典」
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1978年8月27日、ザルツブルク(ライヴ)
(FM放送のエアチェック音源)

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5.ストラヴィンスキー作曲
バレエ音楽「春の祭典」
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1978年8月31日、ルツェルン(ライヴ)
Palexa(CD-0530)

 

■ 春の祭典‐作曲者について‐ 

 

 ストラヴィンスキーの見た幻影から生まれた作品とされています。ストラヴィンスキー自身はこう書いています。「(1910年の)ある日、「火の鳥」の最後の頁を書き上げていたとき、私は束の間の幻影をみた。私は空想のうちに、おごそかな異教の祭典をみた。輪になって座った長老たちが、死ぬまで踊る若い娘を見守っていた。彼らは春の神の心を和らげるために彼女を犠牲に供したのである」(「ストラヴィンスキー自伝」より引用)

 次に神に処女を捧げるという筋書きは、古代において実際に行われていた儀式のような気がするでしょうが、「ディアギレフのバレエ・リュス」の著者によれば、そのような風習が実際にヨーロッパにおいてあったわけではなく、20世紀の現代芸術家の幻想から生まれた創作であるようです。その他の研究によっても、キリスト教に基礎を置くことは困難で、ロシアの原始宗教あるいはアニミズム(自然界の精霊信仰)が根底にあるようです。

 

■ 春の祭典‐バレエについて‐  

 

 バレエと美術を広い意味で担当したのはニコライ・リョーリフで、彼にこの作品は献呈されています。初演の際の事件や、ディアギレフとニジンスキーに関しては、ここでは特に強調せずに進めたいと思います。ただし、シャンゼリゼ劇場で初演された翌日の新聞の見出しである、「春の虐殺Le massacre du Printemps」とは、「祭典sacre」と「虐殺massacre」を掛けた駄洒落に過ぎず、特に珍しい表現では無かったようです。騒動の原因は2つあり、ストラヴィンスキーの音楽が、それまでの音楽を基準にすると、ほとんど「騒音」であり、ニジンスキーの振り付けも、これまでのクラシックバレエの振り付けとは、あまりにも隔たっていたことが原因であると考えられます。ただし、直後にニジンスキーがバレエ・リュスを解雇されてしまったために、わずか8回しか公演されておりません。

 

■ 春の祭典‐モーリス・ベジャールについて‐ 

 

 モーリス・ベジャールの振り付けによる「春の祭典」の版は1959年にブリュッセルで初演され、ベジャールを国際的に知らしめた振り付けです。ベジャールは原台本を捨てて、音楽を古代ロシアとは切り離した上で、原始人の春の儀式を「性の儀式」に変えたのです。装置のない舞台の上で、レオタードの男女が性交を繰り広げる性的な描写がメインとなっています。群衆はのたうちまわり、はいずりまわり、渦を巻きながら、終結部にむけて次第に緊張を高めていきます。20世紀のバレエを代表する振り付けの傑作であると思います。この振り付けで、現在も東京バレエ団は公演を続けておりますので、ベジャール版は、私たちが目にすることが実際に最も多く、かつ接しやすい振り付けであると言えるでしょう。

 

■ カラヤンとゲンダイオンガク 

 

 カラヤンは、ゲンダイオンガクを多くは振っておりません。そのために、苦手であったとの説や、嫌いであったとの説などが、広く流布していると言えるでしょう。しかし、本当にそうであったのでしょうか?カラヤン自身が語った言葉をきっかけに、実際に残された音源を根拠として、非常に自由な形でまとめて整理してみますと、以下のことがほぼ言えると思います。

 「不協和音を美しく協和させることは不可能だが、不協和音を美しく響かせ、聴かせることは可能である。不協和とは、汚いことを決して意味していない。不協和の根本は、粗野なイメージを出したい場合などに使う、作曲表現技法のひとつである。」

 さて、カラヤンのゲンダイオンガクについての根本が、上記で正しいと仮に考えますと、つぎに問題となるのは、新ウィーン楽派の4枚組作品集が、美しすぎる云々と批判されながらも、カラヤンの代表作として生き残り、結果的に世評も非常に高いと理解しているのですが、それにひきかえ、ストラヴィンスキーのハルサイは、作曲者自身から批判されたこともあって、非常に評判が悪いと言えるでしょう。そこで、視点を少々変えてみたいと思います。

 

■ カラヤンとバレエ 

 

 カラヤンの指揮者としてのこだわりは、バレエ・ダンサーのこだわりに似ているように思えてなりません。カラヤンは視覚的要素を重視した指揮振りであり、映像の角度まで指定したり、写真を取られる方向まで指示したようです。その結果として写真家等と揉めたことも結構あったように思います。

 しかし、この事実を、もしも彼が、バレエ・ダンサーであったと仮定したらどうでしょうか?指揮棒の構え方から止め方まで、彼はどうでも良いことにこだわって格好をつけただけだと果たして言えるでしょうか?この視点からスタートして、彼の指揮のテクニックを再度考えてみたいと思います。指揮棒の振り方は、とても軽い振りであると言えるでしょう。その際に手首のスナップを十分に効かし、指揮棒の先端の動きで、オーケストラを統率していることに気付きます。しかし、この指揮の方法は、オーケストラへの指示としてわかり易いだけに留まらず、視覚的に捉えた際に、非常に高度な技巧として美しく見ることが可能です。一方、このような制御方法は、指揮者本人の能力として、非常に高いことを意味するのも事実です。ほとんどの指揮者は、指揮棒を持つ手の動きで最後の指示を出しているのです。

 このような彼の指揮振りは、音楽の本質とは無関係かも知れませんが、クラシック・バレエであれば非常に重要な部分であると言い切れると思うのです。そして、コンサートを生で聴く場合、このような視覚的要素は重要ですし、残された映像で見た場合にも、非常に効果が高いと思うのです。ここまでこだわっていたとすれば、カラヤンがカメラの位置や、写真の角度にこだわり続けた真意が、見えてくるように思うのです。良く言われるような、傲慢な性格から起因する悪趣味であるというよりも、カラヤンの指揮棒のテクニックから考えて、私には、むしろバレエ・ダンサー的こだわりに近い感覚を受けるのです。

 もちろん、それでもなお、音楽自体とこのことは無関係であることは否めませんので、この辺りは、個人の嗜好や趣味に過ぎないのかも知れません。

 

■ カラヤンとバレエ音楽 

 

 チャイコフスキーの3大バレエ音楽の美しさも際立っておりますが、昔、ウィーン・フィルと録音した「ジゼル」の、短縮版ではあるもののバレエ全曲録音が、私には忘れることが出来ない録音となっております。

 さらに、カラヤン自身が、バレエ・リュスへの関心にとどまらず、「春の祭典」を劇場で指揮をしたい希望を持っていたことが明らかにされています。加えて、別の機会に、カラヤンは「春の祭典」のベジャールによる振り付けに対して、否定的な発言もしているようです。この辺りから考えると、カラヤンは「バレエ」または「バレエ音楽」としてのハルサイに、結構大きな関心を抱いていたことは、明らかであろうと思います。

 

■ 再び、カラヤンとゲンダイオンガク 

 

 現代音楽は、不協和音を多用して、非常に不安定なギクシャクした雰囲気を表現したい、そんな作曲家も多いと思います。このようなときに、カラヤン独特の美学で、美しく響かせ聴かせられると、作曲者自身は、あまり良い気持ちがしないであろうことは、何となく理解できるつもりでおります。

 しかし、ハルサイの録音に関しては、ストラヴィンスキーがカラヤンを批判した発言を残したことが、あまりにも一人歩きしているように思います。実際にいろいろと調べてみますと、ストラヴィンスキーが明確に批判したのは、最後から2節目の表現に関しての部分に留まっていたようなのですが、作曲者が嘲笑したとか、諸説が乱れ飛んでおり、残念ながら詳細な事実関係が見えてきません。

 そこで、今度はこの曲のスコアについて若干考えてみたいと思います。1913年初演版。1921年初版。1929年第2刷改訂。1947年版。1967年版。以上の5種類も存在しています。しかし、これは批判のつもりで書くわけではありませんが、ストラヴィンスキーの自演盤は、どの版とも異なる演奏であり、かつ終曲の変拍子は、正確に振れておりません。つまり、作曲家ストラヴィンスキーが意図したことに、指揮者ストラヴィンスキーは応えられていないわけなのです。

 そうしますと、ストラヴィンスキーにとってみれば、そもそも原始的な部分に基礎をおいて作曲したにもかかわらず、カラヤンが1964年録音で、美しく整然と響くハルサイを録音したことは、許しがたい(作曲の意図と、指揮者としての技術の両方で)事件であったのかも知れません。

 

■ カラヤンのハルサイ演奏の変遷 

 

 1964年録音のドイツ・グラモフォン盤は、前述のように、不協和を可能な限り美しい響きで表現した、カラヤンがゲンダイオンガクに対する通常の心理で立ち向かったと思います。まだ、当時は録音も少なく、本来ならば結構評判を呼んでも決しておかしくない、客観的に捉えても優れた出来栄えとなっています。

 次に、ごく最近発売された1972年盤は、これこそが劇場で実際に振ったらこんな感じであったであろうと思わせる録音となっています。スタジオ録音に表情とかは似通っていながら、ある種の高揚感が付与されており、世評自体は大して高くありませんが、私個人は大切なディスクが発売されたと感じております。

 1977年録音のグラモフォン盤は、作曲者の批判を受けて、カラヤンの意地がぶつかった、ある種の「トンデモ盤」であると思います。カラヤンは、ストラヴィンスキーが批判した部分をさらに強調し、ほとんど古典音楽のように響かせるところまで押し進めた録音であると思います。ドイツの伝統的古典交響曲のように、ガッシリと構成を固めたこの77年録音は、ハルサイの模範とは言いがたいものの、こだわりの極致であると考えられるため、私はとても貴重な録音であると思って大事にしています。しかし、カラヤンが自ら発言していた、劇場で指揮したい希望があるとの内容から想起されるような、バレエ音楽としての側面からは、カラヤンをして自ら遠のいてしまったように思います。個人のバレエへの嗜好をかなぐり捨ててまで取り組んだ、指揮者の執念を感じさせる録音です。

 さて、1978年ザルツブルク音楽祭での演奏は、ディスク化されておりませんが、日本でもかつて放送されたこともあり、またこの小文を閉じるためにどうしても必要であるため、取り上げさせていただくことにします。実は、この演奏は、崩壊しています。打楽器奏者の打ち間違いのような目立つミスだけでなく、カラヤン自身の振り間違いと続き、そして挙句の果てに終曲ではオーケストラが崩壊寸前に至り、良くまぁ、止まらずに最後までたどり着いたものだと感心します。これほどまでに乱れたカラヤンを聴いたことは、後にも先にもありません。

 そして、その4日後のルツェルン・ライヴは、世評の非常に高い録音で、2004年に発売された正規盤です。私には反対に、カラヤン美学のこの曲における終焉であったのは当然のように思える演奏です。実際、カラヤンはこの日を最後に、ハルサイを二度と振っておりません。こちらは、最後まで崩壊することはありませんし、非常な熱演です。ライヴ録音ですから多少の瑕疵はありますが、とても立派な演奏です。

 しかし、最後の2つのライヴ録音から感じることは、オーケストラのメンバーがこの曲を熟知してしまったことが、カラヤンのハルサイへのこだわりを、結果として大きく阻害してしまったように思うのです。そしてこのことは聴衆に対しても同様だろうと思うのです。オーケストラだけの問題であれば、カラヤンはもっとオーケストラを縛ったであろうと思うのです。ある部分の細かい表情付けなどは、マゼールとウィーン・フィルに似ている部分まであり、まさに1978年にはこの曲は、すでに有名曲になってしまっていたのだと思います。

 

■ 終わりに 

 

 カラヤンは、この曲に対する演奏の必然性を失い、この日を最後に、ハルサイの演奏史を自ら閉じました。やむを得ない「ときの流れ」であったと思いますが、この直後、カラヤンはリハーサル中に椅子から転落し、大怪我を負うことになります。カラヤン時代の終焉も同時に予告させる最後の2点のライヴ録音は、今後も正式発売は決してあり得ないだろうとは思いつつ、ザルツブルク音楽祭ライヴと、奇跡的に正規盤でもある4日後のルツェルン・ライヴは、カラヤンを偲ぶ上での、私にとって表裏一体の大事な記念録音であるのです。

(参考文献:ダンスマガジン1997年10月号掲載「春の祭典がたどった運命」)

 

(2009年10月27日記す)

 

2009年11月2日掲載、An die MusikクラシックCD試聴記