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チャイコフスキー ピアノ協奏曲第1番作品23 ラフマニノフ
ピアノ協奏曲第2番作品18 アレクセイ・スルタノフ(ピアノ) マキシム・ショスタコーヴィチ指揮ロンドン交響楽団
録音:1989年11月 TELDEC(国内盤 WPCC-3181)
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■ スルタノフのあまりに短い生涯について
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Wikipediaや、後述の日本アレクセイ・スルタノフ支援会のホームページ等によると、アレクセイ・スルタノフは、1969年8月7日に旧ソ連邦ウズベキスタンの首都タシケントにて生まれ、6歳よりタマーラ・ポポヴィチに師事。1986年モスクワに移住。モスクワ中央音楽学校、モスクワ音楽院でレフ・ナウモフに師事。1986年第8回チャイコフスキー・コンクールに参加するが、第二次予選後に右手小指を怪我したために、第三次予選を辞退。1989年第8回ヴァン・クライバーン・コンクールに最年少で優勝。1991年にクライバーン・コンクール開催地、テキサス州ファートワースに移住。1995年第13回ショパン・コンクールに出場し、最高位(同列2位)を受賞。1998年チャイコフスキー・コンクールに再度出場し、特別賞を受賞。1991年2月、1996年3月、1997年3月、1999年3月の4回来日公演を実施。2001年、硬膜下血腫を発症し左半身麻痺の悲劇に見舞われる。2005年6月30日、フォートワースの自宅にて35歳の若さで逝去した。
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■ 1986年、1998年、チャイコフスキー・コンクール
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上記のプロフィールでは、第二次予選後の怪我で、第三次予選を辞退したとの公式記録に基づいて紹介しているが、現実には怪我はコンクール開始前のことであり、少なくとも第二次予選のころには、回復していたようだ。しかし、政治的な圧力がスルタノフにかかり、母国ソ連の審査員から辞退を強く求められたと後年スルタノフ自身が語っているが、真相は闇の中である。因みに、第二次予選で取り上げたプロコフィエフ(第3番)とスクリャービン(第5番)のソナタは、まさに圧倒的な演奏であった。
また、1998年のコンクールにも参加しており、第二次予選で敗退している。すでに海外に移住していたスルタノフに対し、かなり悪意に満ちた採点を行う審査員が複数いたようで、予選で落選したものの特別賞を与えられた。第二次予選でのプロコフィエフ(第7番)のソナタ演奏は、まさに圧巻であると言えるだろう。なお、チャイコフスキー・コンクールの音源は、入手の難易度には差があるものの、全て公式に残されているので、実際に確認することは今でも可能である。
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■ 1989年、ヴァン・クライバーン・コンクール
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1989年5月27日から6月11日までテキサス・フォートワースで行われ、19歳のスルタノフが優勝した。多くの国際コンクールでは政治的な駆け引きがあるのに比べ、ヴァン・クライバーン・コンクールは政治に無関係なことから、スルタノフは参加を決意したとされている。本選では、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番と、ショパンのピアノ協奏曲第2番の2曲を演奏した。なお、今回の試聴記で取り上げた協奏曲録音は、このコンクール優勝記念の一環として録音されたディスクである。
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■ 1995年、ショパン・コンクール
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1995年のショパン・コンクールで2位に終わったことは、その順位を巡る審査員の処理方法を合わせて考えたとき、1980年のポゴレリチ騒動以上のハプニングである上に、個人的にも大きな衝撃を受けたことを昨日のように記憶している。この点は、別の機会を設けて考えてみたいが、自身は7年前刊行した自著(ショパン・コンクールを聴く)で、すでに本件を取り扱っており(39-41,80-81,179-180ページ)、執筆当時の考えを現在でも特に改めたわけではない。
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■ 取り上げた2曲の協奏曲について
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ともに、1989年11月に、ロンドンで、マキシム・ショスタコーヴィチの指揮により、録音がなされている。スルタノフ初めてのセッションによる録音でもあった。スルタノフが批判派から指摘されてきた内容を要約すると、「演奏がぶっきらぼうである」、「演奏が粗雑である」、「そもそも演奏が繊細でない」、このような批判に始終晒されてきたのである。名前を出すのは控えるが、日本でも知られたアメリカのある高名な音楽評論家は、スルタノフを「機械工」「野生児」と罵っているほどである。
まず、チャイコフスキーの協奏曲第1番であるが、確かにスルタノフの演奏から、革新的な演奏を目指そうとした形跡を感じ取ることはできるだろう。つまり、超絶技巧の原点としてのピアノ協奏曲とでも言える演奏の方向性である。しかし、この視点から言うならば、すでにホロヴィッツによりチャイコフスキーの協奏曲の超絶技巧性を誇示する方向性を完成させている上に、この当時までの録音でも、同一の方向性を見せる録音はすでに複数存在しているのである。一方で、彼のこの協奏曲の演奏からは、旋律線をとことん重視し徹底して浮き上がらせて聴き手に提示し、その圧倒的な息の長さから、この曲が基本的に持つとされるロシアの大地を聴き手に感じさせるような手法を、スルタノフなりの独自の手法であるが、はっきりと感じ取れるのである。これは好悪が分かれることは否定しないが、少なくとも粗雑とか繊細でないとかの批判は、スルタノフの録音を聴く限り、当たっていないのではないだろうか。
次に、ラフマニノフの協奏曲第2番であるが、得てしてまるで映画音楽であるかのようだとの批判に晒されるような、冒頭からどっぷりと感傷性に浸りきった演奏とは、明らかに一線を画する目的で演奏していることが感じ取れるのである。こちらも穿った見方をするなら、スルタノフが楽曲の感傷性を排除する目的で用いた意思ある大音量の打鍵が、人によってはモソロフの鉄工場のような無機的な大音量に聴こえてしまう、そんな誤解を招く部分がないとは言えないだろう。しかし、そのような場面でも実は左手の副次的な旋律進行を意識して歌うとか、決して無機的に陥らない努力をスルタノフは常にしているのだが、そもそも楽譜をきちんと見なければなかなか気づいてもらえない細かな工夫でもあるためか、評論家からきちんと評価してもらえない、そんな苦労も残念ながら感じ取れるのである。
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■ 日本アレクセイ・スルタノフ支援会について
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スルタノフについては、「日本アレクセイ・スルタノフ支援会」が現在でも地道に活動を継続しておられるが、筆者は当支援会の活動とは無縁であることをお断りしておきたい。ただし、当支援会は非常に優れた活動を長年しておられるので、筆者は支援会のホームページが更新されたり、新たな活動が報告されるたびに、陰ながら応援していることをここで明記してお知らせしたい。また、本稿を書くにあたって、特に支援会のサイトを参照したわけではないが、長年にわたってサイト全体を愛読させて頂いている上に、私にとってスルタノフに関する情報源であることを予めご報告し、以下に支援会のURLを示しておきたいと思う。
https://www.alexeisultanov.jp/
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(2023年10月6日記す)
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