ハイドン「交響曲第94番」とチャイコフスキー「ピアノ協奏曲第1番」

文:松本武巳さん

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CDジャケット ハイドン
交響曲第94番「驚愕」
アルトゥーロ・トスカニーニ指揮NBC交響楽団
録音:1953年1月26日(ニューヨーク、カーネギーホールライヴ)

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チャイコフスキー
ピアノ協奏曲第1番
ウラディミール・ホロヴィッツ(ピアノ)
ジョージ・セル指揮ニューヨーク・フィルハーモニック
録音:1953年1月12日(ニューヨーク、カーネギーホールライヴ)
 

■ 2枚のトンデモ盤

 

 前者はトスカニーニの珍盤としてぜひ紹介したい。この盤でのトスカニーニは疾走していると言うよりも、セカセカと突っ走っているのに近く、特に第3楽章メヌエットは、たったの2分40秒で駆け抜け、ほとんど暴走しているのだ。
 後者は、ホロヴィッツ最後のチャイコフスキーの協奏曲演奏で、過去にトスカニーニとの2種類、ワルターとの珍盤などが残されているが、当該セルとの共演は、ほとんど指揮者とピアニストが喧嘩状態に至った結果、最後の最後に演奏が崩壊しているにもかかわらず、実は世評は意外なほど高いのであるが、私は残念ながら好意的に捉えることが出来ない、そんな録音である。 

 

■ 両者のその後

 

 トスカニーニは、このコンサートのわずか1年後の4月に引退することになる、そんな最晩年のコンサートライヴ録音で、このハイドンの交響曲第94番の、たぶんトスカニーニ唯一の録音でもある。
 ホロヴィッツは、同年2月25日のリサイタルとともに、アメリカデビュー25周年の記念演奏会であったが、この日を最後にチャイコフスキーのピアノ協奏曲を二度と手掛けることは無く、コンサート自体も翌月のリサイタルを最後に12年間もの長い空白となり、ピアノ協奏曲の演奏に至っては、再度取り上げたのは何と25年後のことであった。つまり、この演奏を最後に長い長い隠遁生活を送ることになったのである。 

 

■ トスカニーニのハイドン

 

 第2楽章の途中で、変奏部分に至る直前に、全楽器で主和音を強奏する箇所でたいへん有名な交響曲だが、実際の夥しい名指揮者たちの録音では、ここに力点を置くような演奏を特段行っておらず、単に強奏に留めている場合が多い。つまり、「驚愕」させようなどという子供騙しの手は、近年ではさして用いていないわけである。それでも、この交響曲は実に夥しい録音が存在し、古今の名指揮者たちもこぞって録音を残しているので、ハイドンの100曲を超える交響曲の中でも、名曲の一つであること自体は変わらないであろう。
 さて、トスカニーニの演奏で本当に驚かされるのは、第3楽章メヌエットの異様な早さである。実に2分40秒で一気に駆け抜けている。ハイドンの交響曲全集の偉業を最初に成し遂げたドラティは、一般に素っ気なく楽曲をどんどん進行させる指揮者としても知られていたが、彼ですら4分7秒かけて演奏している楽章である。
 因みにドラティは、第1楽章8分29秒、第2楽章5分53秒、第3楽章4分7秒、第4楽章3分54秒であり、トスカニーニは、第1楽章7分17秒、第2楽章5分45秒、第3楽章2分40秒、第4楽章3分35秒となっている。いかにトスカニーニが尋常でないスピードで演奏しているかがお分かりであろう。
 ところで、トスカニーニはオペラを得意にしていたことや、戦前のヨーロッパで広く活躍していたこともあって、ヨーロッパの伝統的なスタイルを踏襲していた指揮者であった。快速の演奏であったとしても、そこには十分にカンタービレが感じ取れる、非常に音楽性豊かな指揮者でもあった。ところが、この交響曲第94番の第3楽章を、オケの一員にでもなったつもりで歌ってみて欲しいと思うのだ。たぶん多くの方にとって、この演奏では非常に歌いづらいであろう。つまり単に速いだけではなく、やはりこのメヌエット楽章は様式がどうのこうのと言う以前に、構成自体が崩壊している演奏だと言わざるを得ない。そのため、そもそも異様に速い上に、歌うことや口ずさむことが不可能または困難なのである。長年連れ添ったNBC交響楽団だからこそ、演奏は決して崩壊していないが、現実には異常な指揮振りであり、楽曲は構成自体が崩壊していると言わざるを得ないのである。 

 

■ ホロヴィッツのチャイコフスキー

 

 この1953年1月の記念演奏会以前に、歴史的ライヴ録音として、10年前の1943年に義父トスカニーニとのライヴ録音が、5年前の1948年にはワルターとのライヴ録音が残されていることは、割合知られた事実であろうと思う。
 いずれの演奏も、一部に崩壊しかかったり、ピアノとオケがまるでかみ合わない部分が何か所かあるのだが、それでもトスカニーニ盤は、最後まで統率がきちんととれていると言えるだろう。一方のワルター盤は、最終楽章で派手に崩壊しているが、非常に悪い音質ではあるのだが、冷静に耳を澄まして聴いてみると、最後に指揮棒のコントロールを失ってしまったワルターの方に、どちらかと言えば非があると言えるだろう。あるいは、ホロヴィッツが思い切り煽った結果、ワルターの指揮がそれに付いていけなかったとも言えるだろう。
 しかし、ここでのセルとの共演は、そもそも指揮者が当初の予定と違い代役であったとの説や、リハーサルの時点から相当険悪であったとの説や、セルを田舎者の二流指揮者だと甘く見たのは、そもそもオーケストラであっただとか、本当に事実なのかそうでないのか、今となってはまず分からないような諸説に溢れた伝説的演奏となっているようだ。しかし、確かなことは25周年記念コンサートとして、RCAは正規録音を行っていたことと、その録音をホロヴィッツ自身が発売を差し止めたこと、さらに翌月のリサイタルを最後にホロヴィッツは12年もの沈黙期間に入ること、更にこの協奏曲を二度と取り上げなかったこと、これらの事実は決して動かないのである。
 そこで、実際の演奏を振り返ってみたい。多くの聴き手の個々の評価は、もちろん十人十色であるが、大勢はホロヴィッツとセルによる一期一会の壮絶な協奏曲であるとの評価が、最大公約数的な評価であると思われる。その一方で43年盤や48年盤のいずれかを推し、このセルとのライヴ録音は崩壊した演奏として評価しない聴き手も一定数存在しているようだ。そして、私もこの評価に与したいと考えるのである。
 まず、両者が火花を散らして「競奏」しているのは確かである。しかし、この盤ではセルの喧嘩相手がホロヴィッツだけではなく、セルはオーケストラ相手にも喧嘩をしかけている。それは、トスカニーニとワルターの両盤においては、たとえ煽るだけ煽ったとしても、オーケストラは指揮棒に何とか付いていっているのだが、セル盤ではいわゆる音価が非常に短く、ぶつ切りのバラバラな音の塊のまま未処理に近い部分が多く、音楽としての全体の流れを中心に捉えると、スムーズな進行とは残念ながら言い難いことでも分かるだろう。また、ホロヴィッツもオーケストラの音の中に一方的に割り込んでおり、これでは私にはヤクザの喧嘩に近く感じてしまうのである。両者のつぶやきを、あえて下品な日本語に変換してみると、演奏のあちこちから「なめんなよ、てめぇ・・・」みたいな辛辣さが聴こえてくるのである。
 そして、問題の終楽章最後の最後の部分での、派手な演奏の崩壊であるが、ここでもホロヴィッツが最後の上昇音型で突然アドリブを加えてセルを振り切ったために、オケが最後の最後で尻すぼみになったとの説やら、ホロヴィッツが最後の最後で遂に派手なミスをしてしまい、オーケストラも崩壊寸前となったが、セルが何とか最後を締めて一応無事に演奏を終えた、との説まで、まさに百花繚乱なのである。
 ただ、私はこのように考える。第一に、ホロヴィッツは当曲の他の録音や、普段から楽譜に変更を加える場合でも即興的な変更はほとんど加えない方向性を一般に有していたこと、第二に、セルはワルターよりもいわゆるバトンテクニック自体は数段優れていたこと、さらにセルもワルターもピアニストとしての腕前はともにプロ級であったこと、これらから判断すると、最後に自爆したのは残念ながらホロヴィッツであり、それをセルが何とか崩壊寸前でとどめて、とりあえず無事に演奏を終えたのであろう、私にはこのように聴こえるのである。 

 

■ トスカニーニ、ワルターとの共演と比較すると

 

 ホロヴィッツは、チャイコフスキーの協奏曲を、この時点までは多くの演奏を繰り返し、他の指揮者とも共演した記録があるが、ここで比較したいトスカニーニとは1941年にスタジオ録音をした後、1943年に歴史的ライヴ録音を残している。この録音でも第2楽章でピアノとオケがかみ合わない部分が生じているものの、全体をトスカニーニが完全に掌握し、ホロヴィッツもその中での演奏を行っているため、ライヴとしての瑕疵はあるものの、全体的な完成度は高いと言えるだろう。
 ワルターとの場合は、ホロヴィッツの仕掛けた罠にはまったワルターが、思わず棒捌きを誤り、結果的に終楽章の一部に悲惨な崩壊が生じている。しかし、そもそもワルターとオーケストラの間に信頼関係が存在したこと、さらにホロヴィッツとワルターの間も決して険悪な喧嘩状態ではなく、ホロヴィッツの煽りにワルターが付いていききれなかったという、一般に協奏曲では良く生じる事故が発生したに過ぎないのである。そのため、ホロヴィッツのピアノだけを捉えれば、ワルター盤の完成度は非常に高く、一方でトスカニーニとのライヴ録音は、楽曲全体の完成度が非常に高いのである。この協奏曲は有名な難曲でもあるため、小さからぬ事故や瑕疵があるのはやむを得ないが、録音の存在意義は十分にあるのである。
 しかし、セルとのライヴ録音は、オーケストラも含めた三者間に事前に共有できた音楽性が存在していない上に、三者三様に演奏自体が悲惨な経験であったと思わざるを得ないのである。特に協奏曲であることを勘案すると、そのショックの度合いはソリストであるホロヴィッツが飛び抜けて大きかったと思われるのである。ホロヴィッツの最後の最後での上昇音型での破綻は、いわゆるミスタッチではないように私には聴き取れる。彼は興奮し、自身の冷静さを失い、最後の最後で得意とする楽曲そのものを見失ったのだと思われる。
 私はこの最後の部分を100回程度続けて聴き直してみたが、指揮者を振り切る目的で突如アドリブを入れたとは看做せなかった。実はピアノの即興演奏にも伝統的な一定のルールがあるのだが、ここでのホロヴィッツはそこからは完全に逸脱していた上に、ミスタッチと楽曲が一瞬脳裏から消えてしまった場合のミスの態様も、これまた一定の間違い方のルールに近いものが存在するのである。後者には理屈では測れない経験則も含まれるのだが、たぶんホロヴィッツは生まれて初めて、興奮した結果ステージ上で自分を見失ったのだろうと思われる。そして、これが事実だとすると、彼がその後長い間隠遁し、かつこの曲を弾くことを永久に止め、協奏曲演奏は更に長期間取り組むことを控えたのも、何となく理解できる気がしてくるのである。 

 

■ トスカニーニとホロヴィッツ

 

 トスカニーニが、引退するのが間近であることを聴衆に実感させたコンサートと、ホロヴィッツが長い隠遁生活を送るきっかけとなったコンサートは、同じ場所(カーネギーホール)で、たった2週間しか間を置かない短期間に立て続けに起きたのである。翌月2月25日にホロヴィッツは、同じカーネギーホールで、シルバージュビリーコンサートを無事に開催するものの、結局記念のレコードはお蔵入りとなり、長い間陽の目を見ることはなかった。しかし、セルとの協奏曲録音もリサイタルも、その全曲がようやく陽の目を見るに至り、ホロヴィッツの直後の12年間もの隠遁生活が予想される事態の一つとして、私にはホロヴィッツのセルとの共演は、少なくとも一定の大きな要因であったと思われるのである。
 一方のトスカニーニも、有名な翌年4月のコンサートでの振り間違いが、伝説かつ神格化されているものの、前年のこのハイドンの交響曲に刻まれた演奏内容から判断しても、そろそろ引退の時期が迫ってきたことを、十分に感じ取らせる内容となっているのだ。
そのくらい、トスカニーニの「驚愕」のライヴ録音は、他の名指揮者のどの演奏や録音と比べても、非常に大きな距離を感じさせる、そんなトンデモ盤であるのだ。義理の親子でもあった、トスカニーニとホロヴィッツが、同じホールでほぼ同じ時期に、人生を左右するような事象が生じたことに、今回は意外な2つのライヴ録音をもとに、目を向けてみた次第である。 

 

(2016年11月20日記す)

 

2016年11月21日掲載、An die MusikクラシックCD試聴記