ティーレマンについてどう思われているだろうか。どちらかというと、やや否定的な見方をされる方が多いように見受ける。その一方で、何らかの確かな実力がなければ、あそこまでの地位や権力を手に入れることもできないだろう。ベルリンやミュンヘンでの運営側とのゴタゴタなどから、ティーレマンの人格を含む能力全般に対し、否定的な見解も確かに多く見られる。そんなティーレマンの、私がとても大切にしているディスクを紹介したいと思う。なお、このディスクはティーレマンのドイツ・グラモフォンへのデビューディスクでもある。
以下に、ティーレマンの経歴のうち、私がこだわる部分について、紹介したい。
ベルリン・ドイツ・オペラの練習指揮者であったヒルスドルフからピアノスコアの弾き方を学んだ後、当時、同歌劇場の事実上の常任指揮者であったホルライザーに認められ、1978年、19歳でベルリン・ドイツ・オペラのコレペティートアに採用された。ホルライザーのアシスタントとなり、本格的に指揮者としての道を歩み始めたティーレマンであったが、そもそもティーレマンが指揮者となることを決意したのは、前述のような音楽学生時代を過ごす中で、ベルリン・ドイツ・オペラにて上演されたホルライザー指揮、ヴィーラント・ワーグナー演出による、リヒャルト・ワーグナーの《トリスタンとイゾルデ》を見たことであったという。
コレペティートアとして働くようになってからは、カラヤンとの交流も深まり、ベルリン・フィルの本拠地であるベルリン・フィルハーモニーとベルリン・ドイツ・オペラを行き来したり、ザルツブルク復活祭音楽祭への参加をはじめとして、彼らの演奏旅行に同行したりしながら、オペラとオーケストラ両面の研鑽を積むこととなる。1980年には、カラヤンが弾き振りするブランデンブルク協奏曲のチェンバリストとしてベルリン・フィルデビューも飾っている。
また、当時ベルリン・ドイツ・オペラに客演していたバレンボイムのアシスタントも務め、その縁でパリをはじめとする各地での演奏会やバイロイト音楽祭においても筆頭助手として活躍した。バイロイト音楽祭への参加をきっかけとして、シュタインからアドバイスを受ける機会も得ているが、後にティーレマンは、ホルライザーとともに自分を一番可愛がってくれたのはシュタインであると語り、シュタインをカラヤンと同列の指揮者として挙げている。
その後、1982年よりゲルゼンキルヒェン音楽歌劇場の指揮者兼コレペティートア、カールスルーエ・バーデン州立劇場、ハノーファーのニーダーザクセン州立劇場にて経験を積んだ。そして、1985年にデュッセルドルフのデュッセルドルフ・ライン歌劇場の首席指揮者としてキャリアをスタート、1988年にはニュルンベルク州立劇場の音楽総監督に就任した。これは当時ドイツ国内では最年少の音楽総監督であった。
この間、1983年にはイタリアの名門フェニーチェ劇場において、ワーグナー没後100年を記念した《パルジファル》を指揮し、好評を得た。1987年には、ウィーン国立歌劇場へモーツァルトの《コジ・ファン・トゥッテ》を指揮してデビューし、続けてモーツァルトの《フィガロの結婚》やヴェルディの《椿姫》などを10回指揮したものの、この時は人気を得るには至らず、以降しばらく遠ざかることになるという苦い経験も有している。
(以上、ウィキペディア日本語版より抜粋引用)
私がティーレマンの活動に注目する理由は、オペラの舞台の下積みの一員から徐々に経験を増やしていき、小都市のオペラハウスでの指揮経験を経て、さらに大きなオペラハウスに招かれ、そこでの活動が広く認められ、最終的にコンサート指揮者としても著名になるという、欧州での伝統的な経歴を有している最後の世代であることである。オペラハウスの経験を全く持たない著名コンクール上がりの指揮者が、多くを占める近年の指揮者界隈において、このような昔ながらの経歴を有している指揮者は、すでにとても少数派となってしまったと思うのである。
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