ウテ・レンパーによる「ベルリン・キャバレー・ソング集」を聴く

文:松本武巳さん

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CDジャケット

『ベルリン・キャバレー・ソング集』

  • ダマしの世界
  • セックス・アピール
  • ペーター、ペーター、戻ってきて!
  • ハイ・ソサエティーの歌
  • 女の親友同志
  • 私は娼婦
  • 青色の時
  • 脱ぎな、ペトロネラ!
  • 男どもを追い出せ!
  • 過去の男
  • …と仮定して
  • 私は誰のものなの
  • むらさきの歌
  • 男性的−女性的
  • 今日は暴虐のタメランになりたい気分
  • 小さなあこがれ
  • みんな子供にかえろう!
  • ほら男爵

ウテ・レンパー(ヴォーカル)
ジェフ・コーエン(ピアノ)
ロベルト・ツィーグラー指揮マトリックス・アンサンブル
録音:1996年1月、ロンドン
DECCA(国内盤POCL-1702)

 

■ このような音楽が生まれた時代背景について

 

  第一次世界大戦後のドイツで、1919年に成立し1933年のナチス台頭により崩壊した「ワイマール共和国」。1920年代ドイツで首都ベルリンを中心に芸術文化が栄えたことから、この時代は「黄金の20年代」とも呼ばれる。民主主義や自由な思想を謳歌したワイマール共和国から、なぜナチス政権が誕生したのか。当時の文化人たちはその後、どのような運命をたどったのか。ちょうど100年が経過した今、ワイマール共和国に少々思いを馳せてみたい。1918年、第一次世界大戦に破れたドイツでは帝政が崩壊し、翌年にワイマール憲法が制定され、ワイマール共和国が成立した。この憲法は議会制民主主義、基本的人権の尊重、男女による普通選挙権などが盛り込まれた、現代民主的なもので、現在のドイツ連邦共和国基本法もこれに倣っている。しかしワイマール憲法第48条には、国家緊急事態に大統領が発令できる「大統領の非常権力に関する規定」があり、後に大きな悲劇を齎すことになってしまう。

 民主的な国家が成立した一方、敗戦国としてヴェルサイユ条約を受け入れたドイツは、領土縮小や膨大な賠償金を課された。ドイツは工業化や技術革新を進め、ベルリンに地方から労働者が集まってきた。また、大量の紙幣発行が原因で、通貨が暴落してハイパーインフレーションが起きた。さらに1923年、賠償金の支払い遅滞を理由にフランスとベルギーがルール地方を占領。国内では社会不安が次第に増大していった。国民は貧困とハイパーインフレに喘ぎ、ベルリンは売春や違法ドラッグが横行した。この退廃的な風潮が、一方ではキャバレー文化が栄える契機ともなった。短いワイマール文化は、多くの魅力と退廃が錯綜した時代の産物だったと言えるだろう。

 ワイマール憲法の理念は長くは続かなかった。1929年、ニューヨーク株式が大暴落して世界恐慌が起こると失業者数は膨れ上がり、ハイパーインフレが深刻化した。国民の不満が頂点に達していた頃、賠償金支払い停止をスローガンとするヒトラー率いる極右政党ナチスが支持を急拡大していき、1933年1月30日、ワイマール共和国の大統領ヒンデンブルクによって、ナチス党党首ヒトラーが首相に任命された。同年2月27日に国会議事堂炎上事件が起きると、共産主義者による陰謀であると決めつけ、前述のワイマール憲法第48条に基づく「大統領緊急令」を発布。国民の基本権が停止され、ワイマール憲法は一気に形骸化した。さらに同年3月23日に、政府が全ての法律を一方的に制定できる全権委任法が成立し、ヒトラー政権発足からわずか54日でワイマール共和国は崩壊した。

 

■ 退廃音楽について

 

 古代ギリシャや中世ヨーロッパの美術を好んでいたアドルフ・ヒトラーは、ほぼ全ての近代芸術作品を「退廃芸術」であるとして没収した。「退廃芸術家」の烙印を押された芸術家たちは、ドイツ国外亡命に何とか成功した者もいたものの、国内にとどまった芸術家たちは絵画制作を厳しく制限され、ユダヤ人芸術家の中には強制収容所で悲惨な最期を迎えた者も多くいた。この退廃指定は、単に美術作品に限らず、音楽や文学など広範囲の芸術分野に及んでいたのである。

 「頽廃音楽シリーズ」はDECCAによる斬新な企画で、オペラや管弦楽、室内楽、器楽、声楽など音楽全般にわたり、最終的に20枚以上のディスクが発売された。ここでの頽廃音楽とは、ナチスによって退廃芸術家の烙印を押され、公職から追放され、葬り去られた作曲家の作品全体を指している。実際に、収容所で亡くなった作曲家、他国へ亡命した作曲家などの作品ばかりである。ほとんどが20世紀前半に作曲された作品であり、いわゆるゲンダイオンガクに該当し、作品の難解さに加えて、作曲家の生い立ちや、ナチス支配による当時の時代背景など、かなり複雑なヨーロッパ近代史の理解を必要とする作品群でもあるため、理解は容易ではない作品も多い。

 

■ 当時のドイツにおけるカバレット(キャバレー)文化について

 

 有名な映画「キャバレー」の舞台となっているのは1930年代初頭、ナチズムが台頭しつつあったベルリンのキャバレー「キット・カット・クラブ」であった。ベルリンのキャバレー(ドイツ語ではカバレット)も日本のキャバレーと同様に、ステージ・ショーを見ながらホステスとお酒を楽しむナイト・スポットではあるものの、当時のベルリンのカバレットは、第一線で活躍していたオペラ歌手を招いて、有名なウィーンのオペレッタ・ナンバーを歌わせるような高級店から、非常に大衆的で、肌も露わな女性たちが舞台上で歌い踊るような、かなりきわどい卑猥な店舗まで、スタイルも規模もさまざまなものが存在していた。

 カバレット・ソングの特徴は、現実をとてもドライ・ニヒル・シニカルにとらえているところにあると言えるだろう。当時ドイツでは第一次世界大戦の敗戦によって、帝政時代以来の古い秩序や伝統が喪失し、それまで抑えられていた社会や政治への不満が溢れるように一気に吹き出していた。そしてそのような状況下、どこか清く正しく美しく、かつ有能な存在でありたいという淡く儚い願望も同時に存在していた。そうした葛藤を根源とし欧州風に洗練されて変容したものが、カバレット・ソングのドライ・ニヒル・シニカルな感覚につながっているのだと考えられている。

 ところで映画「キャバレー」の中で、エルシーという女性のエピソードが歌われるシーンがある。娼婦であったエルシーが死んだ時に周囲はあざ笑ったといった内容なのだが、このエルシーは、当時実在したカバレット”Weisse Maus”のダンサーだったアニータ・バーバーをどうしても想起してしまう役柄である。1899年、ライプツィヒで音楽家の両親のもとに生まれ、両親の離婚後はドレスデンの祖母のもとで育てられたアニータだったが、16歳頃からベルリンのカバレットで踊り始め、20歳になった頃には一糸纏わぬ全裸で踊ることで有名になった人物である。アニータはベルリンのセックス・シンボルでありスキャンダルの女王であり、コカイン・アヘン・モルヒネ中毒に溺れていた。その後複数の芸人と組んでドイツ各地を回りながら婚姻(同性婚を含む)や離婚をくり返し、挙句に1928年にミュンヘンのカバレットで、酒・薬物・結核のため突然倒れた。アニータはベルリンに戻り、1928年11月わずか29歳の生涯を閉じたのである。

 1920年代のベルリンは、後の悲惨な第二次大戦の時代を知っているわれわれにとって、異次元の世界、夢の世界であった。来る悲惨な時代の前の束の間の幻影とも言える時代でもあった。また貧富の差が激しく、政情も不安定で対立が激しかった時代であったにも関わらず、非常に先進的な志向が認められていたのは、大きな驚きでもある。

 

■ このディスクについて

 

 ウテ・レンパーは1963年、ドイツ生まれ。ウテ・レンパーは、舞台・映画・音楽とジャンルを超えて幅広く活躍している。そんな彼女が、レコーディング芸術家としてベルリン・キャバレー・ソングを得意としたことはある意味当然であった。歌手として、クルト・ワイルやブレヒトの録音も残しており、他方ではシャンソンを歌ってもいる。このディスクの伴奏は、ロバート・ツィーグラー指揮マトリックス・アンサンブルおよびジェフ・コーエンのピアノである。「ベルリン・キャバレー・ソング」は、DECCAによって特集された「頽廃音楽シリーズ」の中の1枚として企画されたもので、ナチス・ドイツによって弾圧されていた音楽に光を当てることを目的にしたとても野心的な企画だった。当時レコード会社の予想を遥かに上回る大ヒットとなったシリーズでもあった。

 楽曲はベルリンで栄えたキャバレー文化の中で親しまれたものばかりで、ベルリン・キャバレー文化を支えた作曲家による作品集である。一度耳にしたらどうしても耳にこびり付くようなフレーズで、とても刺戟的に歌っている。まさに風刺こそがキャバレー・ソングの真髄であり、単にメロディーを追っているだけでコミカルな風景が眼前に浮かび、聴いていてとても楽しい。また表情豊かだが意外に控えめな歌を聴いていると、オペレッタの伝統とも繋がっているように思えて、とても興味深い。実際にオペレッタで活躍した作曲家によるナンバーもあり、ネルゾンの「今日は暴虐のタメランになりたい気分」などを聴くと、基礎にある音楽自体も浮かび上がってくる。そんな大衆的な人懐っこさや甘ったるく危うい囁きや、アメリカ伝来のジャズを巧妙に持ち込んだのが、1920年代のキャバレー・ソングだったのである。ドイツの音楽本来の伝統と、新しい流行への強い関心が無意識に入り混じった、蠱惑的な音楽であり文化であったのである。

 また、シュポリアンスキーの「むらさきの歌」の開けっ広げな陽気さには驚かされる。ホモ・セクシャル宣言とも言うべき「むらさきの歌」のなかで、「人と違うことに誇りを持っている」「蒸し暑い紫色の夜を愛する」と堂々と歌っていることに驚きを覚える。実はこのゲイ・リベレーションを支援する歌は、現代のわれわれが聴いても絶妙にレインボー感が出ていて、とても見事と言わざるを得ない。さらに、マーチを基調としつつ、同時にタンゴにもなる摩訶不思議な音楽まで存在している(「私は娼婦」)のだ。一方で、著名なゴルトシュミットの作品である「過去の男」も収録されている。1920年代のベルリンにおける、多様な文化の受容と同時に、曰くつきともいえる多くの魅力に満ちていたのである。その後間もなくナチスによって退廃音楽として蹂躙される運命にあることを、後年のわれわれは初めから知っていることもあろうが、何とも言えない切なさも感じられる。あまり格好こそ良くないものの不思議な芸術センスの存在が、今なおわれわれを惹きつける「ベルリン・キャバレー・ソング」なのだろうと思えてならない。

 

(2020年12月18日記す)

 

2020年12月19日掲載、An die MusikクラシックCD試聴記