シノーポリとカペレによる「ウェーベルン管弦楽曲全集」を聴く

文:松本武巳さん

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CDジャケット

ウェーベルン

  • 牧歌「夏風の中で」
  • 「パッサカリア」作品1
  • 管弦楽のための6つの小品 作品6
  • 管弦楽のための5つの小品 作品10
  • 交響曲 作品21
  • 協奏曲 作品24
  • 変奏曲 作品30

ジュゼッペ・シノーポリ指揮
シュターツカペレ・ドレスデン
録音:1996年9-10月、ドレスデン、ルカ教会
Teldec(国内盤 WPCS-10147)

 

■ シノーポリのドレスデンでの隠れた功績

 

 もともと現代音楽の旗手の一人として楽壇に登場したシノーポリが、ドレスデンとも関わりのある新ウィーン楽派の音楽を、集中的に残していることを忘れてはならないだろう。テルデック(現ワーナー・クラシックス)にCDにして8枚分の録音を残してくれたのだ。特にその中でも評価が高いと言えるのが、今回取り上げるウェーベルンの管弦楽全集であろう。全集と言っても1枚のディスクに収まるので、本来ならもっと手軽に聴ける環境が続くのが理想であるのだが、ウェーベルンは難解であるとの先入観が強いためか、なかなか継続して聴く機会に恵まれない。現在も輸入盤で新ウィーン楽派集成のセットが相当な廉価盤で発売されているので、ここに紹介をかねて試聴記を書きたいと思う。

 

■ 牧歌「夏風の中で」

 

 新ウィーン楽派の中で、最も後世に影響を与えたのはウェーベルンだろう。1961年に遺稿の中から発見されてその翌年にシアトルで初演されたという作品である。最も初期の「夏風の中で」は、シェーンベルクが「ペレアスとメリザンド」を書いていた当時の、1904年に書かれた習作である。ヴィッレの詩による標題音楽であるが、長和音と短和音を弦楽器が目まぐるしく行き来し、初期の習作にもかかわらず結構面白い作品であると言えるだろう。もしかしたら、マーラーの作品ではないかと誤解するくらい、マーラーに良く似た作品でもある。

 本ディスクは、オーケストラ作品を年代順に演奏しているので、素直に最初から通して聴けば、冒頭に置かれた「夏風の中で」からですら、後期の信じられないほど精緻な音楽をも予感して聴くことができるだろう。このディスク全体を聴くための1時間が経過したとき、ウェーベルンの全体像を見てイメージすることが出来るような、そんな貴重な体験ができるディスクだと言えるのではないだろうか。

 

■ パッサカリア作品1

 

 この作品1は、決して形式を重視した冷たい音楽ではなく、寧ろまるでマーラーの後期の交響曲の一つの楽章であるかのように聴こえてくる。ニ短調を中心として、バロック以前の変奏曲の手法であるパッサカリアという形式を、あえて自身を世に問う最初の作品に選んだウェーベルンは、基本においてとても古典的な作曲家だったと思われる。パッサカリアの主題がすでに調性を微妙に外して書かれているものの、基本的にはニ短調を維持して書かれている。

 恐るべきピアニッシモからフォルテシモまでの強烈なダイナミックレンジに、聴き手はたいそう驚かされるが、その一方で、終生貫いたウェーベルン独特の精緻な響きも、この自身が世に問うための処女作から、すでに明確に聴き取ることが出来る。一見ロマンティックに聴こえる理由の根幹も、曲のタイトル自身により自主的に明らかにされているが、ウェーベルンの用いたオーケストレーションは、すでに完全に20世紀の先進的な書法によるものであると言えるだろう。きわめて斬新な作品1であると言えるだろう。

 

■ 管弦楽のための6つの小品作品6

 

 「管弦楽のための6つの小品」作品6は、後述の「5つの小品」作品10とともに、非常に簡潔なスタイルで書かれた作品で、作曲の師匠でもあるシェーンベルクによって新たに開拓された無調を基礎として作曲された管弦楽用の小品集である。管弦楽のための6つの小品は、緊張を強いられる「ラングザム」という比較的大きな規模の曲が含まれているために、ウェーベルンの作品としてはかなり強い自己主張を聴き取ることができるのだが、一方でシェーンベルクの作品と比べてみると、このような初期の作品の段階から、ウェーベルンとはかなりの方向差が生じていると言わざるを得ない。シェーンベルクの方が不協和音を強調しているのだが、ウェーベルンは当曲に関しても、「管弦楽のための」作品であることを意識してか、彼にしては激烈な部類に入る音楽を書いてはいるものの、基本となる書法はすでに室内楽的な表現を志向しており、出来上がったスコアを見ると極めて精緻な音楽であることが理解できるであろう。

 シノーポリの指揮するウェーベルンは、非常に繊細でありながら柔らかい響きを生かした、とても温かみのある演奏である。楽曲の振幅はどちらかと言うと小さめであるが、自然に逆らわない全体の流れと見通しの良い音楽作りに好感が持てる。カペレ特有の音が十分に生かされており、指揮者の意思とオーケストラの資質や個性が、良い方向でうまく一致していると思われる。特にこのような小品集の場合に、カペレの特質がより活かされていると言えるだろう。

 

■ 管弦楽のための5つの小品作品10

 

 「管弦楽のための5つの小品」作品10は、先述の「6つの小品」と比べ、いっそうガラス細工のように研ぎ澄まされた鋭敏な感覚をもった、高密度の楽曲であると言えるだろう。「5つの小品」は1曲1曲が実にあっさり終わってしまうのだが、聴き手の気が緩んだ瞬間、音楽がまるで理解出来なくなってしまう恐ろしい音楽でもある。「管弦楽のための5つの小品」は、ウェーベルンの真の個性が最初に示された傑作であると言えるだろう。実はこの作品は作曲後すぐに初演されず1926年にチューリヒで初演されたが、そのタイムラグに気づく人はほとんどいないのではないだろうか。そのくらい、すでに完成度の高い作品なのである。

 

■ 交響曲作品21

 

 「交響曲作品21」は、基本的に色彩豊かな楽曲でありながら、多彩な色彩が一定の理屈でもってなぜか屈折を繰り返しながら、そのくせ規則的に進行する不思議な音楽であると言えるだろう。まさにウェーベルンの真骨頂を示した作品として「交響曲作品21」を挙げるべきであろうと思われる。非常に簡潔でありながら複雑かつ精緻な、20世紀の偉大な作品の一つであると言っても過言でないだろう。ウェーベルンは、この交響曲でシェーンベルクの提唱した12音の列を、より美しく精妙で絶妙なものに発展させたのである。この作品は、1950年代の「ダルムシュタットスクール」の運動にも明白に影響を与えたと言われている。

 指揮者シノーポリは、作品の抽象的な表現や、冷たさや抑制された美しさなどは、意識的に避けつつ、楽器を明確に分離し使い分ける指揮ぶりに徹し、ダイナミクスを大きく広めに取って、常に聴き手に分かりやすく伝わるよう努力していると言えるだろう。その結果シノーポリの指揮するウェーベルンは、暖かく、情感に満ちた音楽に仕上がっていて、カペレもシノーポリの指揮の真意を汲み取り、しっかりと棒に付けていると言えるのである。これらは、ある意味、優れたマーラー演奏との共通性が感じ取れる、そんな指揮法であると言えるだろう。

 

■ 協奏曲作品24

 

 前作の交響曲は全2楽章で、この作品はウェーベルンの頂点を築いていると言えるだろう。そして、引き続いて書かれた「九つの楽器のための協奏曲」とともに、ウェーベルンの最高傑作であるとも言えるだろう。これ以後に書かれた彼の作品はどれもが珠玉のような傑作ばかりだが、なかでも管弦楽のための協奏曲は、1940年ころの作品だとは信じることが出来ないほど、恐ろしく現代的な書法で書かれた斬新な作品である。

 

■ 変奏曲作品30

 

 ウェーベルンの音楽は20世紀の前衛音楽にとって、まさに出発点であった。彼はシェーンベルクの考案した12音音楽を、きわめて精緻な作品に仕上げて、われわれに提示したのである。確かにウェーベルンの書いた作品は、どれも肉付けのないほぼ骸骨のようなものであったかも知れない。12音をとことん切りつめ、響きに対する師匠が考案したルールに従って、極めて巧妙な音楽を作り上げたのだが、あまりにも精緻過ぎて、凡人である一般的音楽愛好家たちが聴いて楽しむというより、楽譜を見てそのパーフェクトさに知識があればあるほど腰を抜かして驚くような、聴いて楽しむ通常の音楽とは程遠い音楽だったのである。

 

■ このディスクの価値

 

 ジュゼッペ・シノーポリとシュターツカペレ・ドレスデンが行ったウェーベルンの録音では、「夏風の中で」と「パッサカリア」だけでもすでに十分なくらい、表現力を極限まで突き詰めたオーケストラを駆使して、凡そ信じがたいほど美しい、まさにこの世のものと思えぬ音楽に仕上がっていると言えるだろう。冒頭の2作品の美しさから、馨しい香りの充満する「6つの小品」と「5つの小品」を経て、最後に置かれた「変奏曲」へと進んで行くさまは、重要かつ素晴らしい音楽的な意義を持っていると言えるだろう。シノーポリの解釈はウェーベルンに負けず劣らず繊細であり、明確であり、普段から手の内に入ったレパートリーのように、情感豊かな音楽に仕上がっている。

 指揮者シノーポリの指示や楽曲の解釈は実に熱烈であり、迸る情熱に溢れている。確かに先駆者であるブーレーズほどには洗練されていないが、ブーレーズの録音にはそもそも存在し得ない、熱いものを音のあちこちから感じることが出来るだろう。シノーポリとカペレは、これらのウェーベルンの作品に、真の活力と生命をもたらし、傑作であることを聴き手に証明していると言えるだろう。またこの録音では、いくつかの作品で、演奏中にかなり興奮した指揮者の荒い呼吸を聞き取れる。ウェーベルンとブルックナー、マーラー、リヒャルト・シュトラウスとの間の、より明白な関連性を欲する聴き手に強くお勧めしたいディスクでもある。

 このディスクの音楽がまさに20世紀の音楽、特に新ウィーン楽派の演奏であると言うことを除いて、これ以上は何も追加するものはない。つまりシノーポリとカペレは際立って素晴らしい業績を残したのではないだろうか。かつ、このウェーベルンの録音は、かつてのカラヤンの名録音と並んで、基本的にとても美しい音楽であると言えるだろう。

 純粋な音楽を、ワーグナー、ブルックナー、マーラーらの、主観的で過剰なロマンティックな世界から遠ざけようとする音楽革命が開始されてから、すでに100年以上経過しているにも関わらず、シェーンベルクとウェーベルンらが先駆けたこの革命は、いまだに多くの聴衆が無調の概念と考えてしまい、触手を伸ばすことを躊躇し続けているのである。しかし、今ではこのシノーポリ盤を含めて、100年前の音楽革命のアレルギーから解放してくれるような演奏レベルの高い録音が、徐々に増加していると言えるのではないだろうか。

 

■ 蛇足

 

 私は、一昨年まで高校2年生の音楽(選択必須科目、2時間連続で通年開講)の最終回に、6年連続で「新ウィーン楽派」をテーマに取り上げ、基礎理論などを教えた後に、ウェーベルンの「ピアノのための変奏曲作品27」を自身で弾いて聴かせ、生徒に問うてきたことがある。クラシック離れの著しい現代の生徒は、「クラシック=甘ったるい、かったるい、眠い音楽」であると言った思い込みがある生徒が大多数で、年間を通じた授業で最大のインパクトが、「ガムラン音楽」と「ウェーベルン」だったと言う感想文が、多数見られたのである。

 しかしこの事実は、40年ほど前、自身が高校生であったときと比べて、何も変わっていないとも言えるのである。私もまた、高校時代の音楽の最大の収穫は、藝大生の教育実習を契機として、藝大のガムラン音楽の取り組みとの縁ができたことであったのだ。抑々前世紀である20世紀の音楽を「現代音楽」と言わねばならないこと自体が、恐るべき停滞であるように思えてならない。

 

(2019年9月17日記す)

 

2019年9月17日掲載、An die MusikクラシックCD試聴記