ブロムシュテットの「第九」を聴く

文:アントン・ミントンさん

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CDジャケット

ベートーベン
交響曲第9番ニ短調作品125“合唱付”
ヘルベルト・ブロムシュテット指揮シュターツカペレ・ドレスデン
ソプラノ:エディト・ヴィーンズ
コントラルト:ウーテ・ヴァルター
テノール:ライナー・ゴルトベルク
バス:カール=ハインツ・シュトリチェク
合唱:ドレスデン国立歌劇場合唱団、ドレスデン・シンフォニー・コーラス
録音:1985年3月30,31日 ゼンパー・オパーにおけるライブ
LASERLIGHT(国内盤COCO−78030)

 日本人の演奏する第9には何かが欠けている・・・と思っていた。技術の問題ではない。何か、演奏から湧き上がってくるものが違う。なんだろう?そんなある日、TVで演歌の先生が素人に歌を教えていた。どんな風に教えるのだろう、と興味をそそられた。すると、先生は「歌の主人公になりきりなさい。心で歌いなさい」と教えていた。私はそのアドバイスをはっきりいって最初はばかにしていた。「演歌歌手の言いそうなことだ」ぐらいに思っていた。しかし、後に考えを改めた。というのもあるFM放送の合唱の番組で、先生が生徒たちに「もっと歌詞の意味を知り、そこにどんな気持ちがこめられているのかを意識し、自分もその感情を感じながら歌うと良い」と寸評を述べた。要するに、演歌の先生と同じ事を言っているのだ。考えてみると、オペラの歌手たちは皆そうではないか。自分の役になりきっていなければ、あんな感動的な歌は歌えないはずだ。

 以前、ある批評家が「ヨーロッパの作曲家たちは、皆、きまって宗教音楽となるとわかりやすく感動的な曲を書ける」と言っていた。それはきっと「心で歌える」からだ、とにわかにあの演歌歌手の言葉を思い出した。日本人と欧米人の宗教観には大きな違いがある。多くの日本人にとって「神」とは、困ったときに思い出して神頼みするくらいの存在でしかない。しかし、ヨーロッパ人にとって「神」はもっと現実的な存在だ。クラシックの作曲家の大多数は、音楽の才能は神からの賜物と考えた。したがって、満足できる作品が出来たら喜んで神に感謝した。そのような人々が宗教音楽を特に感動的なもにできるのは当然と言えよう。

 では、ベートーベンの第9は宗教音楽なのか?そうではない。第9はレッキとした交響曲だ。しかし、そこには確かに作曲家の宗教観が多少なりとも反映されている。それまでもっぱら宗教曲に使われていたトロンボーンを、第5番に続いてベートーヴェンはこの第9にも取り入れた。そして、詩の中で神をたたえる部分を最高潮にした。(流れからいえば当然かもしれないのだが)。もちろん、詩があって音楽ありではない。音楽にシラーの詩を使ったのだ。だから決して第9は宗教音楽でも標題音楽でもない。そして、歌詞がすべて宗教的なもの、というわけでもない。しかしそうであっても、たとえば「創造主の存在を感ずるのか、世界よ?求めよ星空のかなたに創造主を!星々のかなたに必ずや創造主は住み給う。」という最後の歌詞は、そういう感覚を持っている人こそ「心」で歌えるはずだ。上記のCDの解説には、適切にも「愛する神を讃えて全曲は閉じられる。」と記されているのだが、日本人の何パーセントがこの「神を愛する」という感覚を持っているだろう。

 以前見たNHKのある番組では、ブロムシュテットを「信仰」の人であると述べていた。つまりおそらくは「神を愛する」という感覚を持っている人だ。それが、この第9を感動的なものにしている一因である、と考えるのはそれほど的外れなことではないだろう。つまり、この演奏は「創造主」に対するピュアな感謝の気持ちの表明なのだ。この奇跡的な名演の背景については、このHPの伊東さんの解説に十分記されているので(それを読んでわたしも感動した!!)ここでは取り上げないが、ゼンパー・オパーが修復、完成されたことへの喜びはここではある意味で「神」に向かっている、と思う。オケも、合唱もみんながそうだ。(そしておそらく聴衆も)。この異常なまでのテンションとともに、音楽は天の高みへ、「神」のもとへ上って行く。どんなにうれしいことがあったとしても、こういう第9は日本人の演奏では恐らく無理だ。

 今までもバイロイト音楽祭の復活、ベルリンの壁崩壊など、歴史的な出来事と共にこの曲の名演が生まれている。このブロムシュテット/カペレの名演もそのリストに含めるに足りるものだ。それらの中でも、これは、本当の意味で「崇高」という表現がもっともふさわしい第9なのではないだろうか。

 

2002年6月23日掲載、An die MusikクラシックCD試聴記