私の好きなマルティノン

文:たけうちさん

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■ はじめに

 

 青木さんの「カルショーの名録音を聴く」をとても興味深く拝見しました。私もあのカルショーの本は購入しようと思ってましたが、ページ数の分厚さと価格を見て、やや躊躇しておりました (でも考えて見れば、新譜のCD1枚購入して聴くコストと労力と同等ですね)。 しかし、青木さんの名解説を読んで、「本文より面白そうだから、これで満足して買わなくてもいいや」と納得(?)をしております。

 

■ マルティノンのチャイコフスキー

 

 ところで、今回私が紹介したいのは、そのカルショーのプロデュースでレコーディングされた、ジャン・マルティノンがウィーンフィルを振ったチャイコフスキーの「悲愴」です。

チャイコフスキー
交響曲第6番 ロ短調 作品74「悲愴」
ジャン・マルティノン指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1958年4月、ウィーン、ゾフィエンザール
デッカ(国内盤 230E 51059)

 もうこれは45年以上も前の録音で、名盤アンケート投票の企画でたまに1票入っていたりしており、完全に忘れ去られた存在ではありませんが、これほどの名盤を埋れさせるのは勿体無いので、しばし駄文に付合って下さい。

 マルティノン、ウィーンフィル、チャイコフスキーの「悲愴」。この一見ミスキャストとも思える組合せは、カルショーの意図したものかどうかは分かりませんが、マルティノンがウィーンフィルを振り、しかもチャイコフスキーを録音したのも、これが最初で最後であり、まさに「一期一会」の名演であった訳です。ウィーンフィルは、指揮者の好き嫌いが激しいと言われますが、一体その基準は何処にあるのでしょうか?

 クナッパーツブッシュが敬愛されていたのは分かるような気がします(余り練習しなくてよいから?)。フリッチャイが客演した時はてんで言う事を聞かなかったとか。フランス人指揮者のマルティノンの何処にウィーンフィルのメンバーが 感化されたのでしょうか?

 逸話によると、かつてマルティノンがNHK交響楽団に客演して、ストラビンスキーの3大バレーを振ったとき、「N響からあんなにスッキリした音が出たのは後にも先にも無い」と絶賛されたそうで、してみるとこの人は初顔合わせのオケから最大限の能力を引出せる匠の人なのでしょう。

 さて肝心の演奏ですが、一言でいえば 「こんなにも流麗で洗練された悲愴はかつてなかったのでは」。

 「綺麗な演奏」ならば、カラヤンもそうでしょうし、アバドだってそうでしょう(だからと言ってこの二人の演奏を揶揄している訳ではありません)。例えば第1、2楽章の哀愁の極致とも言えるチャイコフスキー節がとうとうと奏でられる個所ですが、今までウィーンフィルは、こんな誰が聴いてもわかるストレートでセンチメンタルな音楽を苦手というより「仕事、仕事」と割切って何処か醒めて演奏しているプロ集団かと私なんかは勝手に思っておりました。

 でも、このマルティノンの棒の下では、自発的に感情移入までして、最後に感極まっているようにさえ聴こえます。ウィーンフィルの弦がこんなにもメランコリックに響く事はあまり無かったのでは?

 第3楽章のマーチでは一転して、天馬にまたがってロシアの空を駆け巡っているかのように、めくるめくアンサンブルを繰広げます。ここは聴いていて本当にわくわくします。それでいて1、2楽章との落差、違和感が無いのはさすが。

 第4楽章は、また一転して今度は深い瞑想のような音楽。生涯にわたって常に正当に評価された訳ではなく、結婚生活も満たされなかった、チャイコフスキーという天才音楽家が背負った人生の「悲愴」が粛々と奏でられ静かに終わっていきます。

 これは、マルティノンがチャイコフスキーへ捧げたオマージュなのでしょうか。もう1つこの名盤を語る上で忘れてはならないのは、45年余り前の歳月を感じさせない音質の良さです、左右から包み込むような、オーケストラの響きは、ややモノクロームに近い音色ですが、これがこの悲愴交響曲にぴったりであり、ステレオ初期の名録音でしょう。さすがにカルショーです。

 これはまさしく名演奏、名録音だと言えます。このメンバーでモーツァルト、ベートーベン、ブラームスを演るのは決して悪くは無いでしょう。しかし、結果論かもしれませんが、やはりチャイコフスキーの「悲愴」でなくてはならなかったのです。

 

■ マルティノンのドビュッシー

 

 マルティノンの音楽を語るとき、やはり忘れてはならないのはドビュッシーです。

ドビュッシー 管弦楽曲集

  • 夜想曲
  • 交響詩「海」
  • 牧神の午後への前奏曲
  • 小組曲より「小船にて」
  • 神聖な舞曲と世俗的な舞曲
  • スコットランド風行進曲

ジャン・マルティノン指揮フランス国立放送局管弦楽団及び合唱団
録音:1973年〜1974年
EMI(国内盤 TOCE-7037)

 このCDは、ドビュッシー管弦楽全集からの抜粋ですが、「海」「夜想曲」「牧神の午後への前奏曲」などおなじみの曲の中に、「神聖な舞曲と世俗的な舞曲」という小品が収録されております。これがまた良いんです...。荘厳な弦の開始後、オリエンタルなハープのソロが奏でられます。その香り立つような、しかも妖艶な音楽といったら!日本人なら多くの人がこれを聴けば感化されるでしょう。そう、これはまさに「雅」の調べです。王朝絵巻の中の十二単を纏った美女が、月夜の明りの下で物憂げにたたずむ風情が目の前に浮ぶ様ではないですか。

 それまでの古典派、浪漫派の音楽は、文学を音として再現したのに比べ、ドビュッシーは音楽を、あくまで絵画的、象徴的に響かせ、聴く者の感性にホログラフィーのように直接訴えかけました。

 周知のように、当時のヨーロッパは、ジャポニズムが芸術界を席捲しておりましたが、ドビュッシーもまだ見ぬ東洋の国のイメージを、この曲に投影させたのでしょうか?さらに、これを演奏するマルティノンが、ドビュッシーの音楽を見事に昇華させています。マルティノンも他の指揮者に比べると遥かに絵画的な感覚で音を創っていく人ですが、そういうやり方は、ともすると安っぽい響きに終始しがちになりそうです。しかし、マルティノンは、持前の統制力と、フランス人特有の「エスプリ」を織り交ぜながら、ドビュッシーの音、ラベルの音をオーケストラから紡ぎ出して見せました。それ故、この人の棒で、ドビュッシー入魂のオペラ「ペレアスとメリザンド」の録音が残されていないのは本当に惜しまれます。

 

■ マルティノン賛

 

 マルティノンは、60代半ばという指揮者としてこれから円熟期に入ろうかという時に亡くなってしまいました。さらに、存命中は「フランス音楽のスペシャリスト」というレッテルが付いて周り、またドイツ・オーストリアの古典もので目立った演奏を残さなかったという事もあってか、一般には1.5流の中堅指揮者と見なされているのは残念です。

 先程、マルティノンを「匠の人」と言いましたが、別の観点から申しますと、昨今流行の「右脳型、左脳型」で例えるなら、紛れも無く「右脳型」の指揮者だったのでしょう。ただ、インスピレーションだけでなく、オーケストラを統制し今までに無いカラーを引出す手腕は、「職人」「名工」と賞賛されるべきではないでしょうか。

 

2005年12月2日掲載、An die MusikクラシックCD試聴記