「わが生活と音楽より」
二つの自作自演の「四季」を聴く

文:ゆきのじょうさん

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■ 自然について

 

 今回紹介する一枚目のディスクの解説書にも引用されており、私の座右の書の一冊でもある和辻哲郎著『風土 人間学的考察』(岩波文庫、1979年)の第四章「芸術の風土的性格」に明解に書かれているところではありますが、日本人と(その対象としての名付け方である)西洋人との自然に対する捉え方や接し方は全く異なります。ここで和辻氏の論点を再提示することは、あまりに不遜な行為なので、是非原著をお読みいただきたいとお願いすることにして、ここでは私なりに考えていることを、まずは書き連ねたいと思います。

 引用元は失念してしまいましたが、今から30年近く前に「欧米語には例えば”nature”という単語があるが、日本古来の言葉であるヤマトコトバには『自然』に対応するコトバはなかった。このことは日本人が『自然』を自分とは違う客体として考えていなかったということに他ならない。」という主旨の文章を読んでなるほどと思ったものです。「自然」に含まれる「海」「山」「森」などに畏れは持っていたでしょうが、一括りに自分とは違う存在の「自然」と捉えるのではなく、自らがその中に含まれている(=支配されている)もので自分とは不可分なモノと考えていたのではないかという考え方です。それ故、その「自然」の時々刻々の移り変わりである「四季」に対する私たちの感覚は、和辻氏が指摘したように、欧米人が抱かないような思い入れがあると思います。

 

■ クラシック音楽における「四季」

 

 「四季」というタイトルの曲としては、何と言っても代名詞ともなっているヴィヴァルディのヴァイオリン協奏曲があります。その他にもハイドンのオラトリオ、チャイコフスキーのピアノ曲、グラズノフのバレエ曲が思い浮かびます。ただ、春夏秋冬を描き分けているところや、親しみやすさ、曲の長さなどからヴィヴァルディが圧倒的に日本人には好まれているところです。しかしながら、ヴィヴァルディの「四季」はヴァイオリン協奏曲集の最初の4曲に付けられたもので4曲を独立した楽曲としての認識はなかったこと、楽譜に書かれたソネットからも明らかなように季節における人々の生活の営みを中心とした視点で描かれていることは、私たち日本人が抱く「四季」への思い入れとは視点が異なります。

 ここでは、あまり知られていない、「四季」を題材としたもう二つの曲を採りあげてみたいと思います。いずれも自作自演であるところが特徴と言えば特徴です。

 

■ 日本の「四季」

CDジャケット

早川正昭 編:美しい日本の四季

春 花/さくらさくら/春がきた
夏 我は海の子/雨/海
秋 里の秋/荒城の月/小さい秋みつけた
冬 ペチカ/雪の降る町を/春よこい

早川正昭 指揮 東京ヴィヴァルディ合奏団

録音:1978年2月7日、コロムビア第1スタジオ
日本コロムビア・DENON(国内盤 38C38-7065)

 四季にまつわる童謡や唱歌を編曲したものですが、曲の構成、演奏団体を見れば明らかなように、ヴィヴァルディの「四季」を本歌取りしたものです。曲想もバロック音楽風にまとめてあります。これだけで考えればただの「編曲もの」とのイメージになってしまいますが、私が注目したのは、ここで採りあげられている童謡の持つ「力」です。

 一曲一曲の童謡には、日本人が抱く「四季」への想いが克明に塗り込められています。歌詞にも勿論のこと、曲全体から醸し出される色彩や世界が、日本人をして「四季」への誘いを容易にしてくれます。最初の「花」を聴くだけで「ああ、春とはこういうものだったなぁ」と思わせてくれます。第二楽章の「さくらさくら」になりますと、前からの流れで隅田川沿い、墨堤桜並木で咲き誇る桜の木々を彷彿とさせてくれます。第三楽章になれば野山の春の草花が思い浮かびます。これらがヴィヴァルディっぽく演奏されていても強烈に訴えかけてくることが意外ですらありました。以下もまったく同じように感じさせてくれるのですが、秋はヴィヴァルディ作品にあるような収穫の喜びよりは、冬に向かって草木が枯れていく侘びしさが前面に出ているのも、日本的なのかもしれません。最後は「春よこい」で終わるのも良い選曲ですが、現代においてこの歌の意味するところを子供たちに伝えられるのかどうか、思わず考え込んでしまいました。

 残念なことに、このディスクは現在カタログには載っておりませんが、楽譜自体は出版され、実際に大学オケ時代に手にしたことがあります。編曲者でもある早川正昭氏はこのディスクを録音した翌年1979年に東京ヴィヴァルディ合奏団のメンバーだった奏者を中心とした新ヴィヴァルディ合奏団を設立しています。どちらの団体からも、この曲集の新録音は出ておらず、別の団体からCDが出たという記録も見つかりませんでした。

 セールス上の問題があるからかもしれませんが、私個人は日本の「四季」について考えるときには重要な資料であると考えていますので、再発や新録音が出ることを鶴首して待ちたいと思います。

 

■ ミヨーの「四季」

CDジャケット

ダリウス・ミヨー:四季(4つの小協奏曲)

春の小協奏曲(ヴァイオリンと室内オーケストラのための)作品135 (1935)
 シモン・ゴールドベルク ヴァイオリン
夏の小協奏曲(ヴィオラ独奏と9つの楽器のための)作品311 (1950)
 エルンスト・ワルフィッシュ ヴィオラ
秋の小協奏曲(2台のピアノと8つの楽器のための)作品309 (1951)
 ジュヌヴィエーヴ・ジョワ、ジャクリーヌ・ボノー ピアノ
冬の小協奏曲(トロンボーンと弦楽合奏のための)作品327 (1953)
 モーリス・スザン トロンボーン

ダリウス・ミヨー指揮 ラムルー管弦楽団のメンバー

録音:1958年6月3-10日、パリ
ユニヴァーサル・クラシック&ジャズ・フィリップス(国内盤 UCCP-3064)

 フランスの作曲家ミヨーの音楽は、どことなく百花繚乱という言葉が当てはまりそうな音の噴水ではないかと思っています。激しいリズムと哀愁すら漂う旋律が錯綜する一抹の毒すら感じる音楽は、万人に受け容れられるものではないでしょう。ドビュッシー、ストラヴィンスキー、シェーンベルクなどと同時代で、クラシック音楽が多様化(あるいは衰退、あるいは変容)に向かう流れの中で強烈な個性を輝かせた作曲家だと思います。400曲以上の作品があり、良い意味で「書き散らした」人です。

 そのミヨーが「四季」を題材して作曲した小協奏曲です。曲目リストの作品番号と作曲年をみると分かりますように、最初から「四季」として作られたのではなく作品番号からみる発表順も脈絡のないもので、たまたま纏まっただけ、という趣です。ミヨーが生まれたのはプロヴァンス地方です。此処は南仏というイメージとは異なり、夏は暑く、冬は氷点下になることもあるという場所なのだそうです。ミヨーの音楽にはそういった気候の厳しさや、季節の移り変わりを表しているわけでもなく、其処での人々の生活をイメージしている音楽でもありません。そこから着想されたイメージをカンバスに原色で描いてみたような音楽です。それをこのディスクではミヨー自身が指揮して録音しています。

 ソリストも名手が揃っていて、技術的にはまったく不安がありません。それどころか、演奏者がミヨーの意図するところを実によく理解して演奏しているのが伝わります。ゴールドベルクが演奏する「春」がもっとも注目されそうですが、個人的には「冬」の錯綜するリズムとメロディの中に聴こえてくる音楽が持つ力と、優しさに惹かれています。ステレオ初期ですが録音も大変聴きやすいものです。

 この演奏の国内盤は現在カタログにありません。輸入盤では同じ自作自演盤が2001年に発売されたものだけしか見当たりませんでした (Accord 4617672)。もちろん最近の音楽家たちが再録音したという情報もありません。ミヨー盤が決定的な演奏と位置づけられているのかもしれませんが、出来れば別の演奏で聴き比べてみたいという気持ちが強いです。

 ミヨーにはまだまだお気に入りのディスクがあるのですが、それはまた別の機会に採りあげさせていただきたいと思います。

 

■ 再び「自然」について

 

 英国式庭園やベルサイユ宮殿の庭園に見られるように、西欧の庭はいわば人が主体で、自然をコントロール下に置いたものだと言えます。一方、日本庭園、特に枯山水は自分と向き合うための「自然」ではなく自分もその中に内包されてしまう世界を、最小限度の要素で作ってしまったものではないか?家(寺)の中にいても、借景という手助けを受けながら自分が本来「一部として」居るべき空間を保持しようとするために日本の庭はあるのではないか?と考えています。だからヤマトコトバには「自然」がないのでしょう。

 以前に、私がアメリカに住んでいた時に感じた事は、(経済的問題もあろうけれども)あちらの道路は本来の地形の上に作られており、従って文字どおり山あり谷あり起伏に富むものになっていたことでした。そして芝生を出来るだけ敷き詰めていました。一方日本では目の前に山があればひたすら削って、なるだけ平坦な道路を作ろうとしています。土はコンクリートで覆い隠してしまいます。住宅地の造成もしかり、ゴルフ場もしかりです(海外のゴルフ場は自然の地形そのままを利用しているので、平坦なやりやすいコースで慣れた日本人プレイヤーが勝てない理由の一つなのだと何かで読んだことがあります)。アメリカでのやり方から見ると、どうも日本人は《向きになって》「自然」をいじろうとしているとしか思えません。私はこの日本人の「自然」に対する所作は、本来自分と分離不可能だった存在を、無理矢理欧米流に切り離して取り扱うために、起こってしまった悲劇ではないかと思っています。

 この「自然」をいじろうとしている現代日本において、まったくもって(日本人が考える)「四季」らしからぬ音楽であるミヨーを聴いて違和感を抱いたとしても、「日本の四季」で聴かれる童謡や唱歌から日本の「四季」の風情を感じることが、これからの日本人の聴き手に出来るのだろうかと心配になります。それというのも私自身が聴いていると、もはや郷愁を感じてしまっているからです。

 

(2008年3月17日、An die MusikクラシックCD試聴記)