「わが生活と音楽より」
文:ゆきのじょうさん
■ 不定期連載「わたしのカラヤン」 インデックス
第7章 カラヤンのマーラー(2009年8月27日〜9月10日)
最終章 すくらっぷ・ブック 「わたしのカラヤン」永遠の名盤(2008年7月12日掲載)
第6章 七つの封印(2008年6月15日掲載)
第5章 夢の轍 実演されなかった二つのオペラ(2008年5月10日掲載)
第4章 レトルトの中で光り輝くもの(2008年4月19日掲載)
第3章 カラヤンに注ぐ4枚のまなざし(2008年3月31日掲載)
第2章 ベートーヴェンとバッハに聴く大いなる幻影(2008年3月9日掲載)
第1章 モーツァルトはお好き? (2008年3月3日掲載)
■ インデックス
■ はじめに 「わが生活と音楽より」解題
2007年に当サイト管理人である伊東さんから、「ゆきのじょうさんのページ」をAn die Musik内に設けてはどうか、とのお話しがありました。大変ありがたく光栄なお話しで恐縮したのですが、この度お引き受けする次第です。そして、伊東さんからコーナーを作るにあたって前文を、とのご依頼を受け、ここで私自身がクラシック音楽や、当サイトでどのように考え、振る舞っているのかという姿勢めいたことを書き記しておきたいと思います。
過去を繙いてみますと、私が当サイトに関わるようになったのは、おそらく2000年頃と思います。当時からドイツの指揮者ルドルフ・ケンペをこよなく敬愛していたので、カペレとのつながりでケンペを採り上げていた当サイトに巡り合ったと記憶しています。投稿という形で拙稿を掲載いただいたのが、ケンペ指揮カペレのリハーサルのCDについてであり、掲載日は2000年9月となっていました。その後、「あなたもCD試聴記を書いてみませんか?」のコーナーが特設され、投稿させていただいておりました。
私が当サイトを大のお気に入りとさせていただいたのは、ホームページにある「難しい音楽理論を知らなくても、楽器の演奏ができなくても、音楽は楽しめます。」という文言でした。
私自身は、小さい頃からクラシック音楽を聴き、大学オケでヴァイオリンを担当してはいましたが、絶対音感どころか、楽典や和声などを勉強したこともなく、ただ目の前のオタマジャクシを必死に見つめて弾いていただけでした。
スコアを開きながら聴くという習慣もありません。あの主題の扱いはどうのこうの、という論点での演奏批評を読んでも「そうなんだ」と感心するだけの、ただのクラシック音楽好きです。音符一つが変わっていても、使用する校訂版が違っていても、そう教えられなければ気がつかないでしょう。それは大学を出て四半世紀以上経った今でも変わりません。ネットが発達してクラシック音楽を採りあげたサイトは多くなりましたが、このサイトが、素人の私には包容力を感じさせてくれたのでした。このサイトに巡り合って、私はいろいろ勉強し、ものの考え方の視野も拡がり、ずいぶん育てていただいたと思います。このことを、まずは深く感謝したいと思います。
さて、上記のような、知識がない私が書く文章は当然ながら理論や学術的な論考はできません。従って「感想」文であることをお断りさせていただきたいと思います。ここで以前、書き連ねたことを元に、「感想」と「批評」について私の考えを述べたいと思います。
「感想」は、出会った音楽を聴いて揺り動かされた想いを書き留める所作でしょう。これは、まったくもって個人的な思想です。一方、「批評」は出会った音楽をある価値観で論じることだと思います。そして、その批評を表明することは必然として、他者からの価値観と衝突します。この場合に問題になるのは、批評に用いられた価値観のどちらが正しいかを問うことではなく、価値観のどちらが力のある物差しを使っているかということだと思います。それは背景となる知識だったり、発想だったりするでしょうし、その価値観が多くの人の心に届くかどうかだと思います。だからこそ批評家は(そう自らが名乗る以上は)自身の価値観をプロフェッショナルとして世に問う責務があります。
日本の能が生まれた頃は、能を舞う人よりも、観ている人の方が練達の士である場合もあったそうですが、そうした切磋琢磨で芸術(家)が昇華していくことも、批評があるからだと思います。
もちろん感想が批評より劣ると申し上げたいわけではありません。ベクトルが違うと申し上げているだけです。もし「その文章で金を取れるか」という物差しで優劣を決めるのなら別だと思いますが。
さて、私達がこのような場で議論するときは批評ではなく感想であると思います。感想で語ることは個人的なもので、他者を巻き込むことではないでしょう。とある演奏に対して「好き」か「嫌い」か、「心動かされる名演」ととるか「取るに足らない凡演」と考えるかも個人的な思いです。あの人はこう感じた、でも私はこう感じる。その価値観の多様性を享受するのがこのサイトの目的だと思います。
このコーナーで、私が書き連ねることも「感想」です。個人的な想いですから、私自身の「人生」との関わりで語らざるを得ません。「人生」という言葉が大袈裟に過ぎるのであれば、私自身の「体験」や「生活」と言い換えても良いでしょう。ある音楽・演奏をどう感じたか、どのように心に刻まれたかを語ることしか、出来ないのです。
シュバイツァー『わが生活と思想より』
白水社、1959年
このコーナーのタイトルを、との伊東さんからのご依頼があり、考えた結果、上記の私の姿勢を表すものとして、「わが生活と音楽より」とさせていただきました(お気づきの方も多いでしょうが、このタイトルは、私の座右の書の一つである、シュバイツァー『わが生活と思想より』のもじりです)。
このようなスタンスである私を「理屈抜きに音楽を楽しみたい音楽ファン」の末席としてお許しいただきたいと思います。
2008年1月22日掲載
■ 2007年のインデックス
「あなたもCD試聴記を書いてみませんか?」に掲載していた文章を移転させています。ご了承下さい。
- 「もう少し、サンパウロ交響楽団を聴く」(2007年10月13日)
- 「サンパウロ交響楽団を聴く」(2007年9月25日)
- 「二人の若手ドイツ人指揮者によるアルプス交響曲を聴く」(2007年9月9日)
- 「二枚のジークフリート牧歌を聴く:謎についてのエッセイ」(2007年9月7日)
- 「マックス・ポンマーを聴く」(2007年8月10日)
- 「二人の女性奏者によるブラームス/ヴァイオリン協奏曲を聴く」(2007年7月12日)
- 「二枚のグローフェ/組曲「大峡谷」を聴く」(2007年7月1日)
- 「アリオスティの二枚のディスクを聴く」(2007年6月4日)
- 「ユリ・ケインを聴く」(2007年5月8日)
- 「二枚のベートーヴェン:ヴァイオリン協奏曲を聴く」(2007年4月27日)
- 「二つの平均律クラヴィーア曲集を聴く」(2007年4月23日)
- 「近衛秀麿を聴く」(2007年4月12日)
- 「二組の女性デュオ・アルバムを聴く」(2007年4月2日)
- 「二人の女流ピアニストで、ベートーヴェンの最後の三つのピアノ・ソナタを聴く」(2007年3月31日)
- 「Winter & Winter レーベルを聴く」(2007年3月12日)
- 「二つのメタモルフォーゼンを聴く」(2007年3月11日)
- 「ロンドン・コンコルド・アンサンブルを聴く」(2007年2月18日)
- 「ロージメードル前奏曲を聴く」(2007年2月15日)
■ 2006年のインデックス
- 「スティングのダウランドを聴く」(2006年12月21日)
- 「ドヴォルザークの交響曲第3番を聴く」(2006年10月2日)
- 「ギュンター・ヘルビッヒを聴く」ん(2006年8月20日)
- 「ジャズでバッハを聴く」(2006年6月15日)
- 「ビーバーのミステリー・ソナタを聴く」(2006年4月29日)
- 「随想 マリナーとピノックを聴いて」(2006年3月13日)
- 「モーツァルトのレクイエムを聴く」(2006年2月12日)
- 「サル・プレイエル ライヴを聴く」(2006年2月4日)
- 「セーゲルスタムのブラームス交響曲全集を聴く」(2006年1月22日)
- 「バッハの無伴奏ヴァイオリンを聴く」(2006年1月13日)
■ 2005年のインデックス
- 「フランセの「花時計」を聴く」(2005年12月23日)
- 「バッハのマタイ受難曲を聴く」(2005年12月12日)
- 「ヴェルディのレクイエムを聴く」(2005年9月19日)
- 「フランソワ・クープランの「ルソン・ド・テネーブル」を聴く」(2005年6月28日)
- 「フォーレのレクイエム、ナウモフ版を聴く」(2005年5月13日)
■ 2004年のインデックス
- 「アクサンチュス室内合唱団の『ドイツ・レクイエム』を聴く」(2004年6月6日)
- 「バーンスタインの『幻想交響曲』を聴く」(2004年1月14日)
■ 2003年のインデックス
なし
■ 2002年のインデックス
- 「ケンペ指揮ミュンヘンフィルの<グレート>を聴く」(2002年4月28日)
- 「ケンペのデュッセルドルフ・ライブを聴く」(2002年2月18日)
(2008年1月22日〜、An die MusikクラシックCD試聴記)