「わが生活と音楽より」
マイケル=ティルソン・トーマスによるベートーヴェン/交響曲全集を聴く文:ゆきのじょうさん
古今東西、世にはたくさんのベートーヴェン/交響曲全集が出ています。さして多いとは思わない我が家のLP、CD棚をみても、結構な数です。現在まで全部で何点製作されたのかは知りませんが、毎年一点は確実に出ていることでしょう。今まで出た全集も、現在進行中の全集もそれぞれが創意工夫を凝らしたものだと思います。そんな数多くの全集の中には、文字通り「あだ花」として人々の記憶から消えていったと思うものがあります。その一つが今回紹介する、マイケル=ティルソン・トーマスが30歳代から取り組んだディスクです。
ベートーヴェン:交響曲全集
第1番
第2番
1982年、ロンドン、アビーロード、EMIスタジオ
米CBS(輸入盤 MDK44905)第3番「英雄」
1986年、ニュージャージー、プリンストン大学アレクサンダー・ホール、リチャードソン講堂
米CBS(輸入盤 MK 44516)第4番
第5番
1980年、ロンドン、アビーロード、EMIスタジオ
米CBS(輸入盤 MDK45805)第6番「田園」
1979年、ロンドン、アビーロード、EMIスタジオ
仏CBS(輸入盤 SBK89246)第7番
第8番
録音:1982年(第7番)、1985年(第8番)、ロンドン、アビーロード、EMIスタジオ
米CBS(輸入盤 MDK44789)第9番「合唱付き」
スザンヌ・マーフィー ソプラノ
キャロライン・ワトキンソン アルト
デニス・オニール テノール
グウィン・ハウエル バス
タリス室内合唱団
録音:1983-84年、ロンドン、アビーロード、EMIスタジオ
米CBS(輸入盤 MDK44646)マイケル=ティルソン・トーマス指揮
イギリス室内管弦楽団
セント・ルーク管弦楽団(第3番のみ)マイケル=ティルソン・トーマスは1944生まれ、レナード・バーンスタインに続くアメリカ人指揮者の俊才という扱いで、ガーシュインやアイヴスなどのアメリカ音楽での優れたリズム感で話題になったと記憶しています。そのマイケル=ティルソン・トーマスが、イギリス室内管弦楽団を指揮して、室内オーケストラ版と銘打って「田園」から全集録音を開始しました。LPジャケットは長閑な田園を背に、低い椅子に座ったティルソン・トーマスがスコアを足に載せて指揮しているというデザインだったと思います。
「田園」はある程度話題になったと記憶しています。しかし批評は必ずしも好意的なものではなく、その後出てきた録音も同様に高い評価はなかったと思いますし、最後にはまったく話題にも上らなくなってしまいました。そして、おそらくイギリス室内管との契約も終了してしまったのでしょう。「英雄」に至ってはオケをアメリカの室内管弦楽団に替えて足かけ7年で全集を「一応」完結しました。全集BOXとしてまとまった形で出た記憶もなく、現役CDとしては出ていません。
これはティルソン・トーマスが目指した「ベートーヴェンの交響曲をモダン楽器の室内オーケストラで演奏すること」の意義がなくなっていったためだと考えます。最初のピリオド楽器での全集は、ハノーヴァー・バンドが1982月1月に第1番を録音したことから始まっています。初演当時の低いピッチ、ピリオド楽器の録音が出た時点で、ティルソン・トーマスの演奏は時代遅れになってしまいました。
さらに用いる楽譜の問題もあります。ギュルケ校訂版の「運命」を含むペータース版、ハノーヴァー・バンドも関係しているというベーレンライター版など、「原典版」「新校訂版」という方向性が始まったのもこの頃です。ティルソン・トーマスの録音は反復指定を守り、慣習的な楽器改変を一部、元に戻してはいます。しかし、いわゆる「ワインガルトナー校訂」を残しているところもあって、この点でも見劣りがしても仕方がないのでしょう。
その後、ベートーヴェンの全集録音のスタイルはある程度の様式が確立していきました。すなわち、ピリオド楽器による当時の演奏スタイルの再現、モダン楽器を用いた新校訂版の録音、これらを融合したピリオド奏法によるモダン・オーケストラでの演奏、などです。その流れの間隙にあって、ティルソン・トーマス盤は埋もれ、忘れられていく立場であったことは認めざるを得ません。
さて、そのティルソン・トーマスのベートーヴェン演奏ですが、室内オーケストラの機動性を生かし煽るようなテンポの演奏なのか、というとそうではありません。弦楽パートは多くないので管楽パートの掛け合いを前面に出すのかというとそうでもなくフルオーケストラ編成でもするような「正攻法」のアプローチをしていると感じます。弦楽パートは指揮者を中心に下手から第1ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、第2ヴァイオリンという、近年の両翼配置とはいささか異なる並べ方をしているのが特徴と言えば特徴になります。しかしそれ以外に目新しい仕掛けはほとんどしていないと思います。繰り返しになりますが、ただひたすら「ベートーヴェンの交響曲をモダン楽器の室内オーケストラで演奏すること」の一点に集中していたようです。
その結果、様々な「仕掛け」を労したベートーヴェン演奏を聴いてきた現在において、ティルソン・トーマスの演奏はむしろ清々しさを与えてくれています。各曲のテンポ設定は伝統的なものとはかけ離れてはいませんが、リズム感の冴えは見事です。そして(おそらくは)倍管なしの二管編成の管楽器と、人数が刈り込まれた弦楽パートのバランスを注意深く調整して、フルオーケストラ編成での演奏のバランスに合わせているようで、この編成でもベートーヴェンの音楽は立派に響くことを示したと感じます。すなわち、この編成で演奏することでベートーヴェンの各交響曲の持っている「容積」を感じることができるようになっています。すなわち、第1、第2、第4あたりは等身大の響きがあると感じますが、「英雄」や第5は聴き手に染みついている「容積」感からみると、明らかに響きが薄く感じます。「田園」は私が持っているのが仏盤なのでリマスタリングが違うのかもしれませんが、室内オーケストラという特色を強調したような薄い響きが特徴的です。「合唱付き」は、室内合唱団によって合唱の響きに透明感がありますが、一方で(勘違いかもしれませんが)オーケストラは他の曲に比べて増員されているように感じる分厚い響きがありました。
最後の「英雄」はオケが違いますが、基本的なアプローチは一緒です。第4楽章第266小節の第1ヴァイオリンの細かいパッセージから始まる変奏部分は、弦楽パート各1人ずつの弦楽四重奏のように弾かせており、次第にクレッシェンドしていくと弦楽パートの人数が増えていくという個性的な解釈を聴かせてくれますが、それ以外はほとんど伝統的なアプローチを踏襲しています。
個人的にはいろいろと考えるヒントをくれた貴重な全集だと考えていますが、もし問題があったとすれば、それは最初に「田園」を録音したことと、その「田園」の冒頭の音にあったのではないかと思います。
「田園」はとても難しい曲です。最初のヴァイオリンの旋律の音量と響きでその後の曲全体の構成が決まると言ってもよいと思います。その難曲からあえてティルソン・トーマスは挑んだのは、ある意味素晴らしいことであったのですが、イギリス室内管弦楽団はまだティルソン・トーマスが目指すものを十分理解するところまでいっていなかったようにも思います。そのため、「田園」の出だしはとても硬く、響きの拡がりが小さいのです。好意的に捉えれば先述の通り「室内オーケストラという特色を強調したような薄い響き」なのですが、悪意にとれば萎縮して聴こえます。これがその後の全集の行方をも決めてしまったような気がしてなりません。それを象徴するように(私が知る限り)米CBSのMDKナンバーのシリーズでは「田園」だけが欠落しているのです。
私が所有している「英雄」のディスクはCDとしては初出のものです。そのでのティルソン・トーマスの顔は眉間にしわを寄せていかにも苦悩している姿です。2009年4月現在、ティルソン・トーマスはサンフランシスコ交響楽団の常任指揮者となっておりDVDで「英雄」は出していますが、CDとしてのベートーヴェンはやっていません。個人的には室内管弦楽の編成で、今一度ベートーヴェン/交響曲全集を録音してくれたら良いのにと思います。四半世紀前に彼が目指したものが何だったのか、それが今だったら明確になるように考えるからです。
2009年5月10日掲載、An die MusikクラシックCD試聴記