「わが生活と音楽より」
近衛秀麿を聴く

文:ゆきのじょうさん

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CDジャケット

近衛秀麿の世界

ベートーヴェン:

交響曲第5番 ハ短調 作品67『運命』

シューベルト:

交響曲第8番 ロ短調 D.759『未完成』

録音:1968年2月21日、杉並公会堂

ベートーヴェン:

交響曲第6番 ヘ長調 作品68『田園』

 

『エグモント』序曲 作品84

録音: 1968年3月20-21日、杉並公会堂

ベートーヴェン:

交響曲第9番 ニ短調 作品125『合唱付き』

録音: 1968年9月6,12,13日、厚生年金会館

ドヴォルザーク:

交響曲第9番 ホ短調 作品95『新世界より』

 

スラヴ舞曲第10番 ホ短調 作品72-2

スメタナ:

連作交響詩『我が祖国』から『モルダウ』

録音: 1968年6月3-4日、世田谷区民会館

近衛秀麿 指揮 読売日本交響楽団
学研/PLATZ (国内盤 PLCC-650/53)

 

■ 世界のオーケストラ名曲集のこと

 

 私が小学校低学年の頃、自宅に「世界のオーケストラ名曲集」というLPレコードのシリーズがありました。作曲家別にその生涯と主な作品を解説しながら、代表的な曲を聴けるという趣向でした。自宅のLPプレーヤーは今で言うミニコンポのような小さいもので、それに代わる代わる掛けて聴いておりました。オーケストラは全て読売日響。指揮者はいろいろで、若杉弘による「幻想」交響曲、渡邊暁雄指揮の「悲愴」交響曲などがありました。はてや内田光子がピアノを弾いたバッハ/ブランデンブルク協奏曲第5番というのもあった記憶があります(某サイトでは別人のハープシコードになっていましたので記憶違いかもしれません)。

 

■ 近衛秀麿のこと

 

 さて、その中で愛聴していたのが、近衛秀麿が指揮する『運命』『未完成』、『田園』『新世界より』でした。ジャケットには縁の太い眼鏡をした何だか気むずかしそうな老指揮者の写真が載っていました。母は実際に近衛秀麿が指揮する演奏会に行ったことがあり、ステージに登場して指揮台に上っても、聴衆のざわめきが無くなって完全に静寂になるまで決して指揮を始めなかったことを話してくれました。怖い人なのだなと子供心に感じたのですが、レコードは気に入って一番多く聴いていました。小学生であったためレコードの取り扱いなど分からないし、親も何も言わなかったので結果的には傷だらけとなりほとんど散逸してしまいました。しかし、近衛が指揮するレコードだけは、ジャケットも壊れて捨ててしまったけど、傷だらけのまま白ジャケットに入れてLP棚に収めてあります。結果的には、この近衛版ベートーヴェンが私にとっての原体験となったわけです。今回取りあげるディスクは、それをCD化したものです。

 

■ 近衛秀麿(と読売日響)の世界

 

 さてこのディスクですが、最初の『運命』からしてオーケストラの気合いの入れ方は尋常ではありません。録音された昭和43年という時代において、西欧のオケより明らかに技量が劣る日本のオーケストラが名曲集をセッション録音する意義がどれほどあったか分かりませんが、ここでの読売日響は、やっつけ仕事的な生ぬるさは皆無です。日本においてクラシック音楽で有名な曲をレコードに遺すということへの気迫が溢れており、ほとんど「一発録り」ではないかと思うくらいの緊張感があります。わずか1日で収録されていますが、その前に周到綿密なリハーサルと、激しい練習が行われていたことが伺えます。弦楽パートは、おそらく楽器が良いものではないのか、音自体は痩せていてベルリン・フィルやウィーン・フィルなどの音色には遠く及びません。しかし長い音の時でも末尾に一片の濁りがまったくありません。これは、チューニングは勿論のこと、ボウイングにおいて上げ下げだけでなく弓の位置まできちんと合っていないと出ない音だと思います。管楽パートも楽器や技術的には万全とは言えないと思いますが、死にものぐるいで演奏しているのが分かります。

 解説書ではこの『運命』は「小味な表現」「ハイドンの延長」「クラシックそのものの演奏」「淡々」「腰が軽く、重量感がまったくない」などと記載されていますが、私はそんな風には全く感じません。例えば第一楽章の第二主題になるときに、それまで畳みかけるような緊張感がふっと和らいで広がりを持った響きに変わるのを聴くだけでも、「淡々」どころか「濃密」な演奏だと思います。楽器の問題と、杉並公会堂の録音がややデッドであるため、終楽章冒頭などが「軽い」という印象を受けるのかもしれませんが、其処に込められている気合いは尋常ではありません。それを感じ取るとき、聴き手も思わず熱くなってきます。近衛の『運命』は「小味」どころか極めて堂々とした圧倒的な演奏だと思います。

 『未完成』もセコセコしたところがない、スケールの大きい演奏です。第一楽章では展開部に向かうまでを息の長いクレッシェンドにしており、特にチェロの弓の飛ばし方は見事です。近衛はテーマ毎に微妙にテンポを動かしていて、フレーズの終わりの音をきちんと処理して収めるところが至芸と感じます。

 『田園』でも、弦楽パートはアンサンブルとして素晴らしい出来映えです。どんな音も最後まで気を抜かずに処理しています。管楽器は 特に第二楽章での絡みは音こそ鄙びた印象ですが、フレーズの受け渡しの完成度は高いです。「嵐」での響きも下品にならず、終楽章の高揚感も心を捉えます。

 『合唱付き』は「世界のオーケストラ名曲集」には収録されていませんでしたので、CDになってから初めて聴きました。曖昧なところがない、大変明晰な演奏です。近衛とのセッションでは最後の録音のせいか、オーケストラも 「運命」「田園」で見られた緊張感はやや薄れているようですが、馴れ合いではなく近衛の意図するところを早く体得していると感じます。第二楽章では、結構気持ちよく弾いているようです。第三楽章になると変奏毎にテンポがわずかに揺らぎ、そのためオケはとても弾きやすそうです。第四楽章では最初は勿体ぶらずに割にあっさりと音楽を進め、バリトン・ソロが入る直前にテンポをぐっと落として見得を切るところは「古い」と言われればそれまでですが、私は良い意味で日本的な演奏だなと思いました。その後もテンポは早めで進み、ここぞというところでぐっとテンポを落とします。しかし嫌みではありません。合唱も含めて声楽陣も熱演です。フィナーレはやはり「決め」ています。

 『新世界より』は、極めて芳醇な響きを作り出しています。録音場所の世田谷区民会館は、『運命』などを録音した杉並公会堂に比べて残響が豊かであることも手伝っていると思います。第二楽章の弦の響きは大変にせつなく美しく、随所にみられる小節の利かせ方は「家路」という日本語歌詞の童謡を聴いて育った世代としてはツボにはまります。どっしりとした第三楽章の後のフィナーレでは、序奏から第一主題に入る直前にテンポをぐっと落として大見得を切っており、此処はいつ聴いても鳥肌が立ちます。演奏は次第に白熱してきて、コーダで再び見得を切ってから壮大なスケールで締めくくる様は、欧米の数多ある名演奏に一歩もひけを取らないと思います。フィルアップされた二曲もやっつけ仕事には終わって居らず、スラヴ舞曲の颯爽としたテンポの中でのわずかな揺らめき、『モルダウ』中間部での息切れしないフレーズの受け渡しもため息が出る素晴らしさです。

 

■ 終わりに 近衛版について

 

 近衛秀麿というと、必ず語られるのが「近衛版」という改訂稿のことです。ベートーヴェンの交響曲で大幅な改訂を施しており、そのため「日本のストコフスキー」というトンデモなあだ名をつけている記事もあります(因みに近衛の指揮は分かりにくく「フルトメンクラウ(振ると面食らう)」というあだ名もあったそうです)。前述のように「世界のオーケストラ名曲集」はほとんどが散逸しましたが、しかしその後沢山のレコードやCDでベートーヴェンを聴いたのですが、「近衛版」から聴いたという弊害はまったくありませんでした。今、CDで聴いていても、「田園」第一楽章でカットがあったりしますが、基本的な音楽は崩していないと思います。

 現代は、録音技術の進歩から誰でも気軽に高音質で録音できるようになってきました。日本のオケも技術が上がり、楽器も良くなり、海外のオケと同レベルの音質のCDが出ています。それに比べると近衛/読売日響の演奏は現代からみると録音、楽器、演奏技術、全てが相当に見劣りがするでしょう。でも何よりも近衛が自らの音楽に確信と飽くなき探求を持ち続け、ここでの読売日響がそれを必死になって具現化しているから、これらの演奏は技術を越えて訴えるものがあり、輝いているのだと思います。現代のオケが「近衛版」を演奏したらきっとこのような輝きは出てこないのではと思っています。

 この一点だけでも、近衛の演奏は語り継がれるべきものだと確信しています。

 

2007年4月12日掲載、An die MusikクラシックCD試聴記