「わが生活と音楽より」
オランダの「音」を聴く文:ゆきのじょうさん
私はオランダにはまだ行ったことはありません。極めて個人的な心情から、生きているうちに一度はオランダに行きたいと心に決めてはいます。したがって、オランダという国には少しだけ違ったこだわりがあります。まず、そのことをお断りしておきたいと思います。
オランダの「音」を語る前に、まず以下の映画について触れなくてはなりません。2004年に劇場公開されたときに、矢も楯もたまらず観に行った作品です。
■ まず、オランダの「光」から
オランダの光
製作・監督:ピーター=リム・デ・クローン
2003年 オランダ映画
レントラックジャパン (国内盤 REDV-00147)「オランダの光」とは、配給会社の宣伝文によれば「フェルメールやレンブラントら17世紀オランダ絵画の巨匠たちが遺した傑作の源となった、独特の陰影を持つ同地の自然光」とのことです。この「オランダの光」が20世紀前半に行われたエイセル湖の開拓により失われてしまった、と現代美術家ヨーゼフ・ボイスが1970年代に主張したことから、その真偽を確かめるという導入部から映画が始まっています。それだけなら、単なる環境破壊への警鐘が主題となっているかのような錯覚を抱かせるのですが、実際は、絵画芸術において構成要素であっても思索の中心とはならなかった「光」に関して、芸術や科学的検証によって文字通り真正面から考察している、極めて深く味わいのある映画です。
「オランダの光」は失われたのか?そもそも「オランダの光」は存在したのか?・・・この疑問を、開拓されたエイセル湖畔の堤防に設置された定点カメラの映像を狂言回しにして、様々な芸術家や科学者が意見を述べていきます。「オランダの光」は今も存在するという者、そもそも「オランダの光」は存在せず芸術家の技法の一つであるという者、「オランダの光」は干拓によっても失われていないという者、「オランダの光」は確かに失われたという者、各人が自身の考え方を静かに述べていきます。
その中でも、「オランダ(固有)の」光が存在するのかという疑問に対して、何人もの長距離トラックの運転手にインタビューする場面に、私はとても感じ入りました。決して芸術を生業とはしていない彼らが、自分達の言葉で明確に、訪れた土地での光の違いについて語っていく。彼らが、というよりは欧州の人々がいかに「光」に確固たる認識をもって接しているか? それを痛切に示していたと思います。
結果的には「光」を単体として取りだして議論するようで、その実、背後にある文化を論じているとも言えます。この文脈で考えると、日本の芸術においてこのような議論が成立するのであろうかと疑問が出てきますが、本稿ではこれ以上その疑問については展開しないことにします。
ところで、この映画の魅力はその構成力にもあります。まず通常のインタビュー形式を繰り返しながら、次第に芸術家たちの凄みを座って語る静的なシーンから、創作現場などの動的に展開することで露わにしていく過程に興奮させられました。様々なオランダの風景を据えっぱなしの映像にて示し、その中で光を意識させていくような積み重ね。インタビューを受けている人以外で風景の中で登場する人物のほとんどが背中だったり横顔だったりして個性を出さないようにする工夫、流れる雲から漏れる日の光や水に映る雲の影の動きを遠目に認識させるような映像、それらが変奏曲の主題のように回帰してくるのはドキュメンタリーという範疇には収まらないような力がありました。
■ さて、オランダの「音」について
「オランダの光」における考察は、そもそもある国の固有の芸術文化というものが存在するのか?そしてその固有の文化は、その国の風土と密接につながっているのか?という、より普遍的な二つの命題にすることもできます。すなわち、音楽においてもドイツ音楽、フランス音楽、チェコ音楽・・・というような捉え方が可能なのかということです。元々地続きという空間的連続性をもったヨーロッパ大陸でこのような区分はあり得るのでしょうか? そして現代においては情報という点では地球全体が一つの街のような「グローバル化」を呈しているという現状において、ますます一つ一つの国で固有の音楽というものが成立しえるのか、という疑問があります。図らずもそんな問いかけを私に投げかけたディスクがありました。
オランダの作曲家たちによるヴァイオリンのための24の奇想曲
ジャニーヌ・ヤンセン、ヨリス・ファン・レイン、ベンヤミン・シュミット ヴァイオリン
蘭Nm Classics(輸入盤 NM92120)
録音:1999年10月19-22日、デルフト、旧カトリック教会タイトルから容易に想像がつくように、これはパガニーニの作品から着想を得たものです。ロッテルダム芸術財団が1998年に24人のオランダ作曲家たちに奇想曲の作曲を依頼、1999年ガウデーマス現代音楽コンテストで初演されたそうです。作曲家たちは1999年当時で17歳から85歳までと多岐に渡っていますが、その名前にはほとんど馴染みはありませんでした。一人一人の作曲家が持つ芸術家としての個性、そしてそれらの根底にある(かもしれない)オランダとしての固有の「音」を探求したアルバムとも言えます。
演奏は、24曲を4曲ずつ分けて、3人のオランダ人ヴァイオリニストが順番に演奏していくというスタイルです。3人のうちベンヤミン・シュミットはかなり有名であり、ついでジャニーヌ・ヤンセンが、DECCAからの一連のアイドル然とした路線でのディスクでその名が広まっています。レインはヤンセンより2歳年上のようですが、大手サイトのカタログではディスクはありませんでした。解説書に記載を見つけることができませんでしたが、おそらくこの3人の演奏で初演されて、その前後に録音したものと想像します。
奇想曲一曲一曲について語ることはとても難しいのですが、あまりゲンダイオンガクしていない聴きやすい曲が多いように思います。どれもが概ね5分前後で終わるものばかりです。時々、民謡のような節回しも聴こえてきます。3人の演奏者たちもしっかりとしたテクニックを持っており、ヤンセンはDECCAでの録音は聴いたことがありませんが、3人の中では一番過激に食い込んでくるような演奏です。録音自体も(曲の演奏時間が短いこともありますが)ほとんど編集が施されていません。同じ教会で同じ機材での収録だったと思いますが、演奏者にかなり近接してマイクが置いてあるのでしょう。例えばヤンセンが熱っぽく身体を動かして演奏しているのが、生々しく伝わってきます。
最後は、この企画の根源であるパガニーニの24の奇想曲第24番「主題と変奏」へのオマージュとして、ロベルト・ザウダムの「ニコロ・パガニーニの主題による変奏曲」という12分に及ぶこの企画で最長の作品を、一番キャリアのあるシュミットが、堂々と締めくくっています。
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本当に「オランダの光」は失われてしまったのか? その問いかけは、次第に観ている私たちに問い返されていきます。エイセル湖の堤防に据え置かれたカメラによって呈示される四季の変化、行き交う人々から伺える生活、そしてそれらを具現化する「光」。ここから私たちは「オランダの光」が失われている、と判断するのか、それとも風物の中に「文化」として「オランダの光」は脈々として受け継がれているのか、考え続けることが求められているのです。
また、現代という「グローバル化」した世界においてオランダの「音」が存在するのか、という問いかけとしてのディスクは極めて貴重だと思いました。何度か聴いていても私にはまだその答えを見いだせませんが、これも考え続けることが求められていると思います。
2009年6月21日掲載、An die MusikクラシックCD試聴記