「わが生活と音楽より」
二枚の美しい女声のディスクを聴く文:ゆきのじょうさん
オペラにしても歌曲にしても、日本語ではない作品を聴く際には、歌詞対訳は大切なアイテムです。今、何を歌っているのか、何を歌に託して訴えているのか、を知ることはその作品を理解するためには大事なことです。
しかし一方で、私は時として歌っている詩の意味が分からなくてもその声だけで惹かれ、それだけで楽しんでしまうことがあります。そのような聴き方は音楽を楽しむ行為においては邪道であることは言うまでないことを同意しつつも、「でも、それでも良いではないだろうか」と思うこともあります。そんな思いにさせてくれた二枚のディスクを紹介いたします。
「日が暮れる」 ペーター・メラーとイェスパー・マドセンの思い出
ヤンネ・ソルヴァン ソプラノ
イェスパー・トップ オルガン録音:2003年9月29-30日、10月1日 オルドラップ教会、シャルロッテンルンド
デンマークCLASSICO(輸入盤 CLASSCD429)まったくの偶然から入手したディスクだったのですが、第一曲のアカペラでの「日が暮れる」を聴いて、文字通り鳥肌が立つような衝撃を受けました。氷つかんばかりの冷たく、それでいて例えようもなく美しい声。どこには安寧も安らぎもなく、ただ虚無感が満ちています。何と厳しい、それでいて美しい声なのでしょうか。このディスクはデンマーク国内盤のようで、解説も歌詞もすべてデンマーク語のみで、英語表記は皆無でした。何とか訳してみようと、ネットの翻訳サイトを使ってみたのですが途中でやめることにしました。そんな労力を使わなくとも、言葉が分からなくとも、このディスクから流れてくる残酷なまでに美しく、透明な声に、ただ身をゆだねるだけで良いではないかと思ったからです。第二曲からオルガンが入りますが、これが対照的に素朴で暖かい音色です。
限られた情報によると、デンマーク語の古い詩や賛美歌などを基にして、オルガン奏者でもあり現代作曲家であったメラー(1947-1999)とマドセン (1957-1999)が、ソプラノとオルガンのために作曲したものを集めたアルバムのようで、二人とも夭逝したための追悼アルバムのようです。したがって時に伴奏オルガンが不協和音を奏でる曲もありますが、ソルヴァンの声が澄みきっているので、不快感はありません。
オルガン独奏曲を間に挟みながらアルバムを聴き進めて行くと、時に聖夜のような神々しい曲もあり、時に長閑な曲もありますが、どの曲でもソルヴァンの歌声はこちらの心の隙間に切り込んでくるような力のあるものです。最後は、第1曲の「日が暮れる」をオルガンの即興演奏をバックに歌い上げています。アカペラの時のような鋭い切れ味は、やや後退するものの、淡々としながら儚さに満ちた歌は、実に心に染みいってきます。
ソルヴァンは他にさほどディスクは出していないようで、今回共演しているオルガン奏者のトップと、Duo Dell'Oroというデュオを組んで、教会を中心にコンサート活動をしているようです。実演を聴いたら一体どんな感想を持つのだろうと想いますが、今のところその機会はなさそうです。
ジューリオ・カッチーニ:「新しい音楽」、「新しい音楽と新しい書法」から
モンセラート・フィゲーラス ソプラノ
ジョルディ・サバール ヴィオラ・ダ・ガンバ
ホプキンソン・スミス リュート、バロック・ギター
ロバート・クランシー バロック・ギター、キタローネ
クセニア・シンドラー ハープ
バーゼル・スコラ・カントゥルム合奏団録音:1983年1月27-29日 アムソルディンゲン教会、ベルン
独Deutsche Harmonia Mundi / SONY BMG(輸入盤 82876 70038)カッチーニは16世紀末に活躍したイタリアの作曲家で、歌詞の意味を伝えることを重視したモノディという様式を確立してルネサンスからバロックへの橋渡しの役割をした一人として、知られているそうです。しかし、そんな背景を知らなくても、そして歌詞の意味が分からなくても、このディスクにおけるフィゲーラスの暖かく、陰影に富む声を聴いているだけで、こちらの心は満たされてきます。ゆっくりとしたテンポの曲では、言葉一つ一つで響きを微妙に変えて、声は深く沈み、また浮き上がってきます。速いテンポの曲では舞曲のように声は舞い上がり、舞い降りていきます。どれもこれもが完璧にコントロールされた美しい声で満たされています。カッチーニの代表作である「アマリリ麗し」での目眩くテンポの揺らめきと響きの深さは、いつ聴いても心が癒されていきます。サバール、スミスといった当代名だたる奏者たちも、フィゲーラスの声に寄り添って、出しゃばることなく素朴に合わせています。
なお、余談ですが本ディスクには、カッチーニ作として最近有名になった「アヴェ・マリア」は収録されておりません。この曲は1996年にMaria Bieshuが出したディスクに収録されたのが嚆矢と考えられています。そこには作曲家が「D.Caccini」と表記されており、ここで採り上げている「G.Caccini」とは別人のようです。
この二枚のディスクを聴いている限り、各々の曲の背景や理屈、歌詞の意味はあまり重要とは考えていません。もちろん、歌詞の意味が分かれば、もっと深く楽しむこともできると思います。しかし、今は、この響きに包まれるだけで、聴いてよかった、と思わずにいられません。そういう聴き方だって良いのではないかと私は思っています。
(2008年1月22日、An die MusikクラシックCD試聴記)