「わが生活と音楽より」
不定期連載 「わたしのカラヤン」
第3章 カラヤンに注ぐ4枚のまなざし

文:ゆきのじょうさん

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  カラヤンは容姿が見栄えする指揮者でした。世に送り出したディスクのジャケットの多くは、カラヤンはいつも取り澄ました表情の写真が用いられていました。若い頃、演奏会などでの写真では、いつも一方からしか撮影させないとか、撮った写真を使うかどうかはカラヤン自身のチェックが入ったなどいう「伝説」があっただけのことがあります。この意味ではカラヤンは音楽だけではなく視覚的イメージも重視していたと言うことが出来ますし、一方、ナルシストの極致とも言えたでしょう。

CDジャケット

  そんなカラヤンらしいジャケットは何かと問われれば、私ならチャイコフスキー/交響曲第6番「悲愴」の1976年盤のLPジャケットを採りあげたいと思います。これは現在、ロメオとジュリエットとのカップリングしたディスク(国内盤 UCCG5013)で見ることができます。

CDジャケット

 ところが、私自身は、カラヤンはナルシストどころか、ジャケット写真で見る限りはむしろ写真嫌いの照れ屋だったのではないかと思っています。と、言うのも(少なくとも「帝王」と言われるようになってからの)カラヤンのジャケットには不思議なほどカメラ目線の写真がないからです。ほぼ正面から捉えた写真はEMI盤の「英雄の生涯」(国内盤 TOCE13070)くらいなものです。それもよく見ればカラヤンはカメラを見ておらず右上方を睨んでいます。

 さて、これに加えて、少なくともジャケット写真において、カラヤンは無類の正直者であるメッセージを発信していた場合もあったのではないかと考えています。これは協奏曲のジャケットで顕著に感じることができ、演奏を聴いた印象との興味深い関係があると思いました。今回はそれを採りあげたいと思います。

 なお、CDジャケットとしては入手できなかったものにつきましては、やむを得ずLPジャケットの画像を用いさせていただきました。あしからずご了承ください。

 

■ 1枚目のまなざし:霧

CDジャケット

ベートーヴェン:
ピアノ、ヴァイオリンとチェロのための三重協奏曲ハ長調作品56

スヴャトスラフ・リヒテル ピアノ
ダヴィッド・オイストラフ ヴァイオリン
ムスティスラフ・ロストロポーヴィッチ チェロ
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー

録音:1969年9月15-17日、イエス・キリスト教会、ベルリン
EMI(輸入盤 CDM7243 5 66219 2 3)

 細かい説明が不要な名盤の誉れ高いディスクです。冷戦時代「鉄のカーテン」と称されたソ連から現れた三大巨匠と言って良いソリストと、カラヤン/ベルリン・フィルとの競演です。「曲本来の出来やスケールを超えてしまっている」という批判もありますが、クラシック音楽の録音史上はずすことの出来ない、後にも先にもこのようなディスクは生まれることはない、世界遺産だと断言して良いと思います。

 さて、そのジャケットですが初めてLPで見た時から強烈な違和感を持っていました。ソ連の三大巨匠はカメラ目線で笑顔なのですが、カラヤンは目線を逸らして厳しい面もちです。このジャケットを眺めながら聴いた演奏は、カラヤンがベルリン・フィルをこれでもかと煽り立てているのに対して、ソリスト三人は余裕綽々で優美に奏でている風情に感じられました。当時の世界情勢としての分断されたドイツ、そしてベルリン市、周囲を東ドイツに囲まれた西ベルリンにあるベルリン・フィルハーモニーが、ソ連から来た三人のソリストに立ち向かっているという構図が即座に浮かびました。

 そんな政治的背景を度外視しても、カラヤンは優れたソリストの競演に際して妥協を許さない演奏をしているのではないかと考えていました。この録音に先立つ1962年にリヒテルと競演したチャイコフスキー/ピアノ協奏曲第1番、1968年のロストロポーヴィチと競演したドヴォルザーク/チェロ協奏曲のディスクを聴いて、その思いを強めていたのです。この二枚のディスクがリハーサル風景の写真だったのに、ベートーヴェンだけは記念写真のような構図です。でもそこにはカラヤンはおざなりの作り笑顔はできなかったのだと思いました。

 ところが最近になって、リヒテルの回顧録としてベートーヴェンの録音においては、録り直しをリヒテルとオイストラフが要求したのにカラヤンが拒否し、ロストロポーヴィチが仲介したという話を知りました。しかもカラヤンが録り直しを拒否した理由は「ジャケット撮影があるから」だったというのです。この話はリヒテルからだけの話であり、裏付けとなる証言は私が調べた限りはありませんでした。仮にそうだったとしても余計にジャケットの写真は謎が残ります。希望した録り直しを許されなかったジャケット写真でリヒテルとオイストラフが何故笑顔で撮られているのでしょうか? ジャケット写真に拘ったはずのカラヤンが何故あんな仏頂面だったのでしょう?

 ここからは私の妄想でしかないのですが、この録音の企画はおそらくはレコード会社からのものだったのでしょう。カラヤンはこの企画自体は嫌だったのだと思います。曲もたいしたことはないし(事実、カラヤンはムターが出てくるまで以前も以後も演奏会では採りあげていません)、こんな強者どもと緊張感を要する仕事はしたくなかったのです。リヒテルは録り直しを要求したのにカラヤンが許さなかったと回顧していますが、3日間の録音期間でソ連の三人のソリストの方がいろいろ要求したことの方が多かったのではないでしょうか。だからカラヤンは、ともかくさっさと済ませてしまいたかった。それ故録り直しもしたくなかったし、その理由と言ったジャケット写真も(おそらくカメラマンから『笑ってください』くらいの注文はあったでしょうが)ともかく終わらせたかったから、あのような表情になったのではないでしょうか。

 カラヤンとソリストたちがこの録音にどういう想いだったかは関係なく、このディスクは賞賛され、おそらくはセールスも良かったのだと思います。今なお語り継がれる名盤です。従って、この曲に関する限りは芸術家たちが相容れない五里霧中のままであっても至高のものができあがってしまうという皮肉が存在したのだと思います。

 

■ 2枚目のまなざし:青い

LPジャケット

チャイコフスキー:
ピアノ協奏曲第1番変ロ長調作品23

ラザール・ベルマン ピアノ
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー

録音:1975年11月17-18日、フィルハーモニーザール、ベルリン
西独DG(輸入盤 423 224-2)
(写真はレコード・ジャケットのもの)

 やはり当時も「鉄のカーテン」が引かれていたソ連から忽然と現れたのがベルマンでした。ヴィルトゥオーソ・タイプのピアニストとして大きな注目を浴びた直後に、カラヤン/ベルリン・フィルと録音したディスクです。

 このジャケット写真も発売された当時に手にして強烈な違和感を持ったものです。楽譜に向かって「私は、ここはこんな風に弾きたいんだ」と熱心に言っているようなベルマンに対して、カラヤンは「ふーん、それで?」というような、どこか醒めた、無表情な視線を楽譜に落としており、ベルマンを見ていません。実に詰まらなさそうです。

 演奏もジャケット写真をそのままに表しています。第一楽章からすでに戸惑いが出てきます。ベルマンは独奏になると、たっぷりとした響きで、ゆったりと流れる大河のようなスケール感で弾こうとするのに対して、カラヤンはオケの演奏になると引き締まったテンポで畳みかけるように音を積み上げようとしています。途中ではカラヤンが苛立ってオケを煽ってくるのですが、ベルマンは我が道を行くような弾きぶりを崩しません。第二楽章こそは冷たい静けさがもたらす、青い透明感が素晴らしく、ここだけでも聴くべきディスクだと思うのですが、第三楽章になると再びソロとオケの主張は真っ向からぶつかっており、最後まで相容れるどころではなかったようです。

 この録音も1枚目と同様に、ベルマンに注目したレコード会社側が持ちかけた企画だったのでしょう。もしかするとリヒテルとの競演盤の二番煎じを狙ったのかもしれません。結果は残念ながらあまり好意的な評価はなかったように記憶しています。カラヤン自身もベルマンとの競演には好印象はなかったと思います。他の曲での録音もなく演奏会でも両者は共演することはありませんでした。このディスク自体もそれほど再発はされていませんし、ましてやこのジャケット写真を使ったCDは見つかりませんでした。カラヤンはきっと「もうこりごりだ」と思ったのだろうなぁ、とジャケットを見て想像しています。

CDジャケット

 以上の想像はもちろん私の個人的なものです。話はやや逸れますが、カラヤン以外でも逆の想像をしてしまったディスクがあります。それはシュロモ・ミンツのデビュー盤でアバド指揮シカゴ交響楽団がバックを務めた、メンデルスゾーンとブルッフのヴァイオリン協奏曲のディスク(国内盤 F35G201477)です。このディスクのジャケットでのアバドとミンツの屈託のない笑顔はどうでしょうか。しかもその笑顔の質まで似ているように思ってしまいます。演奏も美音と確固たる技術で颯爽と駆け抜けていくミンツのヴァイオリンに、アバドがぴたりと合わせています。ジャケットから受ける印象がそのまま音楽に体現されているなぁとつくづく思います。

 ベルマン盤を前後して、カラヤンの協奏曲のディスクとしてはフェラス、ワイセンベルグとのものがほとんどを占めていました。当時、よくある批評としては「カラヤンは協奏曲の録音でも自分中心で、それに合わせてくれるソリストを選んだ。」という主旨のものがありました。私が感じる限り、極論を申し上げればカラヤンは、合わせモノ(オペラは別にして)は苦手だったのではないかと思っています。カラヤンはメトロノームより正確なテンポ感を持っていたとも伝えられるので、ソリストが自己主張で揺らいだときにテンポを変えて合わせていくというような柔軟さは、余り得意としていなかったのではないでしょうか。リヒテルやロストロポーヴィチとのディスクは、ぎりぎりのところで両者が並び立ったという危うさを感じます。この点からみて、ベルマンの演奏がカラヤンと合わないのは当然ですし、オイストラフとの競演盤がなかったのも必然だったのではないだろうかと考えています(逆にポリーニとは演奏会で少なくても二回競演しているのは意外に感じますが・・・)。フェラスやワイセンベルグは比較的インテンポで端正に音楽を組み立てていく特徴があるので競演できたから録音が残っているだけだと思います。

 そんなカラヤンの協奏曲録音史(私個人としてはジャケット史)に一大転換期が訪れます。アンネ=ゾフィ・ムターの登場です。

 

■ 3枚目のまなざし:紫

CDジャケット

モーツァルト:
ヴァイオリン協奏曲第3番ト長調K.216
ヴァイオリン協奏曲第5番イ長調K.219「トルコ風」

アンネ=ゾフィ・ムター ヴァイオリン
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー
1978年2月、フィルハーモニーザール
ユニヴァーサル/DG(国内盤 UCCG-5006)

 録音当時わずか14歳のムターの鮮烈なデビュー盤です。実際にはカラヤンはその前年の1977年5月29日にムターをコンサートデビューさせているので、その時はなんと13歳ということになります。このジャケット写真も、私にとって印象深いものでした。CDジャケットでは分かりにくいのですがLPで見ると、ムターはつんと澄ましてカラヤンに見下ろすような視線を送っています。まるで「私はこういう風に弾くの、だから合わせてちょうだいね。」と言っているかのようです。一方カラヤンは横顔ですが明らかに微笑んでいます。「うんうん、わかったよ」と答えているかのようです。

 演奏もそんな印象です。ムターは凛とした美音で大指揮者と天下のオーケストラに遠慮するどころか、実に伸び伸びと弾いています。若々しさに満ちており、そこはかとない華やかな美しさにも事欠かない、まさに「紫翠」という形容がふさわしい独奏です。これに対してカラヤンは、それまでの協奏曲録音での頑ななインテンポではなく、完全にムターを盛り立てるために柔軟なテンポで対応しています。その意味では「カラヤンらしくない」演奏です。もちろん「音量の足りないムターとのバランスをとるためにカラヤンがバランスを取っている」という意地悪な見方もできるでしょうが、カラヤンの今までの協奏曲録音とは一線を画しているのは間違いないところです。

 さて、今一度ジャケット写真をみてみましょう。ここには二つの特徴があると思います。一つは前述のようにムターがカラヤンを見下ろしているような視線です。物理的な位置関係からみると両者の視線はほぼ同じ高さなのですが、ムターがしゃくりあげるような姿勢を取っているので、そんな印象になっています。私が知る限り、カラヤンが見下ろされているようにソリストと写っているジャケット写真は少ないと思います。リハーサル風景以外のジャケット写真では、カラヤンはソリストを見ていないか、見ていても見下ろしている(ワイセンベルグとのラフマニノフ盤)か、ほぼ同じ位置にいるかでした(エッシェンバッハとのベートーヴェン盤、アンダとのブラームス盤)。

 二つ目の特徴は、カラヤンが笑っている点です。私が知る限りはソリストと一緒に笑顔で写っているジャケット写真は、ゲザ・アンダとのブラームス/ピアノ協奏曲第二番くらいではないかと思うのですが、それも冷たい微笑です。しかしムターとのジャケットでは暖かい笑顔になっています。取り澄ましたところのない、カメラを意識していない自然な笑顔です。そんな写真をカラヤンはジャケットにすることを許したのだとしたら、そこには大きな意味があったと思うのです。

 カラヤンはムターをソリストとして、次々に協奏曲の録音を送り出します。順にベートーヴェン/ヴァイオリン協奏曲、三重協奏曲、メンデルスゾーン、ブルッフ/第1、「タイス」の瞑想曲、ブラームス/ヴァイオリン協奏曲、二重協奏曲、そしてヴィヴァルディの四季。演奏会でも、上記の曲目にバッハ/ヴァイオリン協奏曲第2番を加えて、40回以上共演しています。

 カラヤンは何故こんなにもムターを重用したのでしょうか? 自分の言うことに従ってくれるソリストだったからでしょうか? 天才少女というレッテルのもとマーケッティング戦略上有用だったからでしょうか?真実はもちろん分からず、どの見解も正しい部分はあるでしょう。私はあえて「カラヤンは育てる喜びを知ったから」と捉えてみたいと考えます。実際に指導したかどうかは分からないので、言い換えれば「育っていくのを見守る喜びを知った」としても良いでしょう。一家言持っているソリストと丁々発止のやりとりをするのでもなく、自分に合ったソリストを捜していくのでもない。無限の可能性を秘めた才能を羽ばたかせるために自分が何かできるのか、という視点をカラヤンが持ったからこそ、これだけの協奏曲の録音が出来たのだと思いますし、モーツァルトのジャケット写真が出てきたのだと考えます。

 なお余談ですが、ベートーヴェンの三重協奏曲のジャケットではムターやヨーヨー・マに何やら語っているカラヤンの写真があります。この曲の録音ですから、もしかするとムターあたりがリヒテル、オイストラフ、ロストロポーヴィチとの録音について尋ね、それに対してカラヤンが「あれは大変だったんだよ・・・」などと言葉少なに語っているような想像をかき立てられます。

 閑話休題、カラヤンの晩年の録音の中で、ムター以外の器楽ソリストのディスクは多くなく、ピアノ協奏曲でのツィマーマン、最晩年におけるキーシンとのチャイコフスキーくらいです。いずれのジャケット写真も何故かツーショットではありません。キーシン盤はジャケットを分割して載せていますし、ツィマーマン盤に至っては何と別々の写真を合成しています。カラヤンはこの二人のソリストと並んで写真に収まることを拒否したのだとしたら、ムター盤での一連のジャケット写真はやはり特別なものが込められているように思います。

 カラヤンとムターとの競演は、衝撃的なディスクでその終わりを告げます。それが最後の一枚です。

 

■ 最後のまなざし:

CDジャケット

チャイコフスキー:
ヴァイオリン協奏曲ニ長調作品35

アンネ=ゾフィ・ムター ヴァイオリン
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ウィーン・フィルハーモニー

録音:1988年8月15日、ザルツブルク祝祭大劇場
ポリドール/DG(国内盤 F32G20289)

 翌年亡くなるカラヤンにとっては最後のザルツブルク音楽祭でのライブ録音です。ムターとカラヤンは、このチャイコフスキーの協奏曲を1985年08月15日に同じウィーン・フィルとザルツブルク音楽祭で採りあげていますが、何故かその後は演奏せず、この1988年に再度演奏してライブ収録しています。

 このジャケット写真には心底驚かされました。まず当日の演奏会の写真を使っていることです。もちろん、同様のコンセプトのジャケットとしては、やはり1987年8月15日のザルツブルク音楽祭でのジェシー・ノーマンとのワーグナー・アルバムだけです。当日の演奏会の写真をジャケットにするというのは、それまでのカラヤンのディスクにはなかったコンセプトでした。もしかするとザルツブルク音楽祭ライブシリーズというレコード会社側の意向があったかもしれません。

 次に最も驚かされたのはカラヤンが後ろ姿で写っていることでした。やや斜め後ろから写したものはありましたが、顔が全く見えないジャケット写真はなかったと思います。さらに、このジャケットでのカラヤンは当時、足腰が弱ってしまったので特注した柵に座り放しです。他の演奏風景のジャケットは80年代にも多く存在します。ウィーン・フィルとの最後のブルックナーのディスクもそうです。これらの写真でもこの特注の柵に座っているのでしょうが、カラヤンは帝王の威厳を保とうとするかのように上半身しか写していません。しかしチャイコフスキーのディスクでは、いくら後ろ姿とは言え、衰えた両足は隠しようもなく目に入ります。堂々たる立ち姿でひときわ輝いているムターと対照的に、ややうつむき加減のカラヤンの後ろ姿は帝王ではなく、単なる一人の老人です。

 ムターは一定の節度を保ちながらも、音色やテンポは自由奔放に変化させて弾いています。これに対してカラヤンは何とか合わせようとしています。リハーサルではかなり綿密に打ち合わせ合意したところで折り合っているのでしょう。ソロがオケと一緒に弾くときは何とか歩み寄っていますが、それ以外ではしばしば両者の音楽は別の方向を向こうとしていると感じます。第三楽章のフィナーレは、元々の演奏会のエアチェックを聴いていないので間違っているかもしれませんが、どうも別録りに差し替えられているように感じますので最後は合っていなかったかもしれません。

 ここからは私個人の想像なのですが、1985年でのこの曲での共演では解釈が合わないところが多くみられたのだと思います。それ故に(両者か、どちらか一方から)スタジオ録音もせず、もう二度と演奏しないことにもなった。しかしメジャーなヴァイオリン協奏曲として未録音なのはチャイコフスキーの一曲となったのでレコード会社からの強い希望があった。3年後に両者が何とか妥協してライブ収録でディスク化にこぎ着けたのがこのディスクであった。そう考えると、3年の空白と、その間も両者がバッハやヴィヴァルディ「四季」では共演してきたことが説明できるように思うのです。もちろん単なる憶測でしかありませんが。

 この1日の演奏会以後、ムターとカラヤンの共演は録音、演奏会ともありませんでした。このジャケット写真で(おそらく)初めて見せたカラヤンの後ろ姿は、深いメッセージが込められていると想像します。少女から一人の芸術家として育っていくのを見守ってきた老巨匠が、ついに巣立っていくのを見届けたことの証だったのかもしれませんし、真実は分かりません。ムターとの共演盤では比較的素に近い表情が多かったカラヤンが、その最後の共演ジャケットに見せた「表情」が、聴き手に背を向けた姿、そこに込めたカラヤンの万感の想いは実に深いと思います。

 カラヤンの夥しい数のディスクにおいて、ジャケットはカラヤンの心のひだを垣間見る窓のようなものでもあったかもしれません。これがカラヤンの選択ではなく、カメラマンやデザイナーの手によるものだとしても、私にとっては最終的には「カラヤン」なのです。

 ここで書いたことは「はじめに」でお断りしたように「私個人の感想や想像、憶測」です。そんな戯れ言に満ちた本稿を、チャイコフスキーのディスクの演奏、ジャケット写真にふさわしいと私が勝手に思う一首で終わりたいと思います。

 もの思ふと過ぐる月日も知らぬ間に年もわが世も今日や尽きぬる
 (源氏物語 第四十一帖 幻)

 

(2008年3月31日、An die MusikクラシックCD試聴記)