「わが生活と音楽より」
わたしのカラヤン 第7章:
カラヤンのマーラーについての管見

第2節 わたしのマーラー(暴)論
■ 第2項:マーラーの交響曲の編曲版からみる「わたしのマーラー」

文:ゆきのじょうさん

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マーラー:交響曲第1番ニ長調「巨人」(ブルーノ・ワルター編曲によるピアノ・デュオ版)

プラハ・ピアノ・デュオ
ズデンカ・フルシェル、マルティン・フルシェル

録音:2003年3月10、16日、プラハ、(5+1)チャンネル
チェコPRAGA DIGITALS (輸入盤 PRD/DSD 250 197)

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マーラー:交響曲第1番ニ長調「巨人」(上記ワルター編曲ピアノ・デュオ版に基づく、岡城編曲によるピアノ独奏版)

岡城千歳 ピアノ

録音 2002年1月
カナダCHATEAU (輸入盤 C10001 )

 

 マーラーの音楽における粘着性が何なのかを考えると、私の乏しい音楽的理解からの一つの表現として「楽譜に書かれた音符に更に恣意性を加えること」としたいと思います。その結果、管弦楽の場合には奏者間にその恣意性の理解に差が生じます。その差は音楽における物理的な音符の「ずれ」や、楽器の重ね合わせから来る響きの「ずれ」となって表れます。楽譜は見たことがなくまた検討する知識もないのですが、マーラーのスコアにはその「ずれ」をもたらす仕掛けが多く存在するのだと私は理解することにします。さて、ワルターがマーラーの弟子だからという前置きを無視するとしても、彼の編曲によるピアノ・デュオ版にも仕掛けが受け継がれていると思います。その結果、デュオにおいて2人の奏者間での「ずれ」が生まれるのです。

 次に岡城がワルター編曲版を元にしてピアノ独奏版を聴いてみると、その「ずれ」が生まれる要素が少なくなっています。単純に考えれば、ピアノ独奏での「ずれ」は左右の手の間にしか生まれません。それがショパンで言われる「テンポ・ルバート」と同じかどうかの議論はさておきますが、マーラーの音楽としての粘着性に拘る聴き手からすれば、岡城による独奏版では「マーラー的な要素がない気の抜けたサイダーのような音楽である」という意見が出てくると考えます。さらに、とても興味深いことなのですが岡城自身はおそらく「マーラー的」な演奏を目指そうと腐心していると感じるのですが、それが逆に「マーラー的でないもの」を際立たせる結果となっているのです。

 岡城版の演奏における上記の感じ方は、私にとって欠点とはならず、マーラーの交響曲第1番がよりよく「分かる」音楽になっていると考えます。演奏者自身の力演による「歪み」が一種のスパイスとなっている部分を取り除けば、「巨人」という曲がどのような曲なのかが、理解しやすくなっているように(少なくとも私は)思います。

 さて、このような感慨をもたらすような演奏が原曲のオーケストラ版ではないのか、と考えてみると、これまた個人的な見解になるのですがケンペ盤が採りあげられると思います。

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マーラー:交響曲第1番ニ長調「巨人」

ルドルフ・ケンペ指揮BBC交響楽団

マーラー:交響曲第2番ハ短調「復活」
シーラ・アームストロング ソプラノ
アンナ・レイノルズ アルト
ニュー・フィルハーモニア合唱団

ルドルフ・ケンペ指揮ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団

録音:1965年5月22日、BBCスタジオ(第1番)、
1972年9月10日、ロンドン、ロイヤル・アルバート・ホール(第2番)
英BBC LEGENDS (輸入盤 BBCL 4022-2)

 ケンペは限られた録音においては、ベートーヴェン、ブラームス、ブルックナー、R.シュトラウスのスペシャリストのように我が国では捉えられがちなのですが、実際の演奏会ではマーラーやショスタコーヴィチも多く採りあげていたそうです。因みに音源として、マーラーは上記の第1と第2の他に、ロイヤル・フィルとのアメリカ・ツァーでも第1を演奏しており、ショスタコーヴィチではBBC LEGENDSから第1のリリースがありましたが他にも第5、第8、第9の存在が知られています。閑話休題。ここでのマーラー演奏を聴く限り、ケンペは、松本さんが指摘する第二の粘着気質や、第三の分裂気質について拘泥する意識はまったくなかったのではないかと考えます。ケンペは目の前にあるスコアに忠実であり、ア・プリオリな「ユダヤ的」なるものを一切考慮することなく、交響曲として演奏しています。それ故、この演奏は世評では「響きは立派だがマーラーではない」などいう批判的な論評が多いのは当然でしょう。

 しかし、(これはケンペ愛好家でとしての身びいきが当然あることは自ら認めざるを得ませんが)私は「巨人」やそして「復活」がいかなる曲であるのかを初めて分かった、というディスクでした。特にプロムスで演奏されたという「復活」においては、最初から引きこまれ第一楽章だけで休憩を必要とするほど、どっと疲れるほどの興奮と充実感を与えてくれました。終楽章のフィナーレなどは実演を聴いていたら気絶したのではないかと思うほどの圧倒的な迫力です。昨今の厚化粧甚だしい「ライブ録音」と違い、文字通り一発録りの放送録音を音源としていますから、この完成度は信じがたいものがあります。「プロムスはお祭りだからかもしれないが、何でこのように盛大な拍手になるのか分からない」という論評も目にしましたが、私にしてみれば何故「盛大な拍手になるのか分からないと感じる」のが分からないと申し上げたいくらいの演奏です。

 話はやや脱線してしまいました。ここまではカラヤンが録音していない曲で書いてきましたが、実際にカラヤンのディスクにある曲についても考えてみたいと思います。

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マーラー:交響曲第5番嬰ハ短調(デイヴィッド・ブリッグス編曲によるオルガン独奏版)

デイヴィッド・ブリッグス パイプオルガン

録音:1998年4月1-2日、イギリス、グロウチェスター大聖堂
PRIORY (輸入盤 PRCD649)

 このディスクで聴くべきは、第一楽章の葬送行進曲でも、第四楽章でのアダージェットでもありません。第三楽章スケルツォ、それもトリオの部分です。

  はっきり申し上げて実に安っぽい音楽です。まるで遊園地のメリーゴーランドで流れているかのような音楽です。「深刻な」マーラーを聴こうと身構える向きには、言語道断な陳腐さがあります。しかし、これはブリッグスの編曲がいけないとか、パイプオルガンで演奏することがいけないとか言う問題ではないと思います。ブリッグスの編曲は、パイプオルガンの特性を考慮しながら、原曲の持ち味を最大限生かそうとしていると考えます。ピアノと異なりストップによって多彩な音色を実現できるからこそ、実現しえた部分もあります。しかし、それでもなお、安っぽく陳腐な音楽として聴こえてしまうのは何故なのか、それこそがマーラーの音楽を考える上での根源だと勝手に考えてみました。

 ブリッグス版を聴いて私が得た独断的結論は、楽譜通り演奏し、音色もそれなりに真似てみたところでマーラーの曲は、世の人々が望むような演奏にはならないということです。これを裏返してみれば、マーラーの音楽は楽譜に書かれていないことを盛り込まないと「マーラーらしく」ならない、という言明になります。冒頭に表現した「楽譜に書かれた音符に更に恣意性を加えること」は、これとほぼ同義としてよいかと考えます。

 実際にマーラーが自作自演した音源がないという不幸(幸運?)も手伝って、マーラーの演奏には絶対的権威は存在しません。従って「我こそ(あなたこそ)がマーラー演奏の権威」、あるいは「マーラーらしく演奏できる」と言い出せば、それが「マーラー的」になります。すなわち、マーラーの演奏は主観、主情が排除できません。音楽「学」として、マーラーのスコアの端々に(例えばベートーヴェンなどと比較して)主観、主情が入り込める隙があるのかどうかは分かりません。しかし昨今の「マーラー的」演奏についての評論を読む限り、その主観、主情を盛り込まないと曲自体はきちんと演奏できても、「マーラーらしい」演奏にはならないというのが、私が得た独断的マーラー観です。

 さらにここから多少悪意を交えた言い換えも可能となります。つまり、主観、主情を加えない場合、それはマーラーの書いたスコアそのものとなります。それがつまらなく聴こえたり、陳腐に/安っぽく聴こえたりするのであれば、マーラーの(スコアに書かれた)音楽は、元々つまらなく、陳腐で、安っぽいものではないか、これが言い過ぎであるのならそう誤解されるような危険性を孕んでいる音楽ではないのか、という疑問です。

 この暴論に満ちた章の最後にもう一つのディスクを採りあげて、考えてみたいと思います。

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マーラー:交響曲第6番(ツェムリンスキー編曲による4手ピアノ版)
交響曲第7番(アルフレード・カゼッラ編曲による4手ピアノ版)

シルヴィア・ツェンカー、エヴェリンデ・トレンクナー、ピアノ  

録音:1991年4月9-10日(第6番)、1992年1月20-23日(第7番)、ドイツ、バド・アロルセン
独MD+G (輸入盤 MDG 330 0837-2)

 ツェムリンスキー(1872-1942)は、マーラー(1860-1911)とほぼ同時代の作曲家です。第6番の4手ピアノ版は第6番が初演された同じ1906年に作られ、マーラーとツェムリンスキーによってマーラーの自宅で初演されたそうです。さらにツェムリンスキーが編曲した時点で、マーラーは第二楽章をアンダンテ、第三楽章をスケルツォにしていたため、編曲版もその順番になっているそうです。また三番目のハンマー打撃も残されています。よく知られていることとしてもう一つ付言すれば、ツェムリンスキーは1902年にマーラーと結婚したアルマと、その直前に交際していました。アルマのテーマが盛り込まれているこの第6番を編曲しマーラーとともに演奏したツェムリンスキーは何を思っていたのでしょうか? また、マーラーは、妻が以前つき合っていたツェムリンスキーの編曲をいわば作曲家公認とし、一緒に演奏したことをどう思っていたのでしょうか? そして、この二人の演奏をアルマ・マーラーは聴いていたのなら、何を思って聴いたのでしょうか? これだけでも一編の映画になりそうな題材だと思います。

 閑話休題、このディスクの演奏に話題を変えましょう。スコアを見ていないので、どこまでが元々記譜されていた指示かは分かりませんが、ツェンカーとトレンクナーはテンポを大きく動かして、いわゆる浪漫的に表現しています。しかしこの曲の副題である「悲劇的」というコトバに準えれば、ただこぎれいでドロドロしていない、深みのない響きであるという見方もできるでしょう。これはいくら演奏者たちが「マーラーらしく」演奏しようと腐心しても、ピアノ2台と、大管弦楽団とでは埋めようもない落差は存在します。

 しかし、私は「悲劇的」がどのような曲であるのか知ろうとするのであれば、このディスクは大変役立つと考えます。ピアノという楽器の世界で音色は揃っているので混濁するところがなく、オーケストラ版では聴き取りにくかった部分も明瞭になっています。アンダンテは、減衰してしまうピアノの音の宿命でさすがに「ブツ切り」感は否めませんが、透明感は魅力的です。

 そう、この「透明感」というのは、マーラー演奏に似つかわしくないものの一つなのではないかと私は考えます。マーラーの音楽には多少なりとも「濁り」があると思います。それはスコアに盛り込まれた楽器の重ね合わせや、演奏上の至難さから当然の帰結として表出するものかもしれませんし。そもそもマーラー演奏というのは濁った「ドロドロさ」が、これまたア・プリオリに存在すると考えられているのではないかと、私は邪推します。

 これこそがマーラー演奏、という書き方や捉え方を、(私自身が批判的であるからかもしれませんが)、書物やネット上で多く目にします。天の邪鬼な私は、マーラーの演奏には、そう言った「絶対的規範」、「金科玉条」が存在するのだろうかと常日頃思っています。「楽譜に書かれた音符に更に恣意性を加えること」における「恣意性」を、あるいは主観、主情を何かしらの権威として無批判に受け容れることを「マーラー的」「ユダヤ的」という言葉に置き換えているだけではないのか? それと関連しているでしょうが、音楽として「濁り」が存在することを無批判に是認しているのではないか?と思うこともあります。しかし世の大勢は「マーラー的」「ユダヤ的」というレッテルが常識なように使用されていると感じるので、私のような捉え方はかなり「異端」なのだろうと認めざるを得ません。

 したがって、次節からのカラヤンによるマーラー演奏についての私の思いこみも、かなり「異端」の極みとなるとお断りせざるを得ないと思います。

 

2009年9月3日、An die MusikクラシックCD試聴記