「わが生活と音楽より」
不定期連載 「わたしのカラヤン」
第6章 七つの封印

文:ゆきのじょうさん

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■ プロローグ

 

 私が指定された時刻に下宿に到着すると、2階の窓から彼の弾くヴァイオリンの音色が聞こえてきた。ちょっと珍しい曲を弾いているな、と思いながら、私は下宿の女主人に案内されて2階の彼の部屋のドアをノックした。

「いやぁ、さすが時間を違えずに来てくれたね。ま、座りたまえ。」

いつもの肘掛け椅子に勧められて私が座ろうとしていると、彼は私に背を向けてヴァイオリンをケースにしまいながら、こう言った。

「CDストアに行っていたんだね。冷やかしに行くくらいなら、早めに来てもらってもよかったんだがな。」

「なんだって」と、私は肘掛け椅子に座りかけた身を思わず起こして立ち上がった。

「どうしてそれが?」

彼はくすくす笑い私に座り直すように促しながら、背の高くやせた体を向かいの肘掛け椅子に沈めた。

「いや、驚かしてすまない。いつものぼくの悪い癖でね。」

彼は傍らのテーブルにあった愛用の長い桜材のパイプに火をつけた。そう、確かに意想外に人を驚かすのが、彼の茶目っ気でもあった。

「靴についた赤土だよ。きみの自宅兼診療所から、この下宿までの最短距離の道には赤土がむき出しになっているところはない。今朝、ぼくが散歩した限りでは二本向こうの大通りで工事があって掘り返していた。きみが其処を通ったのだとしたら、なぜ遠回りをして時間ぴったりに此処に来たのか?と考える。すると、クラシック音楽が好きなきみが、早めに自宅を出てあの大通りにあるCDショップで時間をつぶし、頃合いをみて定刻に此処にやってきたと推論を導き出すことは造作もないことだよ。」

「やれやれ、君にあっては、かなわないね。」と私は肩をすくめながら、話を続けた。「ところで今日呼び出したのは、また新しい依頼が来たのかい?」

「いや、そうじゃないんだ。」と彼は否定した。「むしろ依頼がなくて退屈なくらいさ。そこで、手持ちのCDをいろいろと聴いていたら、ちょっと面白いことを思いついてね。それをきみに聞いてもらいたかったんだ。」そう言いながら彼は立ち上がり、山積みになったCDケースの中から一枚を取り出しトレイに乗せた。「きみはヘルベルト・フォン・カラヤンを知っているよね。」

 

■ 第1の封印

 

 「知っているどころか、クラシック音楽の世界でもっとも知られている音楽家の一人じゃないか。」と私は答えた。「君のところにも随分沢山CDがあるよね。」

「そう、カラヤンの全てのディスクではないが、意外に持っているのは事実だ。」彼はトレイをデッキに収め、PLAYボタンを押して、肘掛け椅子に戻り私にCDケースを手渡した。「そして、このディスクを久しぶりに聴いてみたんだ。」

CDジャケット

リムスキー=コルサコフ:
交響組曲「シェヘラザード」作品35

ミシェル・シュヴァルベ ヴァイオリン
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー

録音:1967年1月26-31日、ベルリン、イエスキリスト教会
ユニバーサル(国内盤 POCG-3429)

「どう思う?」演奏が終わると、彼は聴いた。

「どうって、素晴らしい演奏じゃないか。スケールの大きさに事欠かないばかりか、色彩感も豊かで色気すら感じるし、何よりもシュヴァルベのソロが絶品だと思うよ。そういえば、さっきぼくが来たときに、君はこれを弾いていたよね。」

「そう、確かに一級品の演奏だよ。きみが言うようにシュヴァルベのソロは、ぼくが趣味で弾くのとは及びもつかない高みにある。巷でもこのディスクを名盤に数えることもあるさ。でも」と彼は言葉を切った。「極端な言い方をさせてもらえば、カラヤンはこのディスクを抹殺したいくらいに考えていたと思うよ。」

「何だって」と思わず私は声を上げた。「こんなに素晴らしい演奏なのに、かい?」

「そうだ。」と彼は頷いた。「決定的な手がかりは容易に手に入る。カラヤンはこの曲を演奏会では生涯一度も演奏していないことだよ。録音はこの1967年の一度だけ。フィルハーモニア管時代も録音していない。これがどういうことか分かるかい?」パイプの灰を落としながら彼は続けた。「この録音の経緯の詳細はもちろん分からない。でも結果からみるとカラヤンが望んだのではなく、レコード会社の意向に渋々従っただけだったのだろう。録音期間が6日間あるのは(もちろん、丸々6日間ではなかったかもしれないけど)、曲として整えるのに時間がかかったからかもしれない。」

「しかし」と私は口を挟んだ。「どうしてカラヤンは『シェヘラザード』が嫌いだったのだろう。」

「真実については、どこかに資料があるのかもしれないね。」彼は再びパイプに火をつけた。「きみはぼくのことを『すぐれた演奏家』とか『非凡な力量をもった作曲家』だと言ったそうだが、ぼくは音楽理論をまったく知らない、聴くのが趣味な『熱心な音楽愛好家』だけなんだから、これは全くの想像にすぎないけどね。」と彼はことわってから続けた。「『シェヘラザード』は旋律の繰り返しが多く、一歩間違うと単調になりかねない構造だと思う。ストコフスキーのようにテンポや音色に手練手管を用いて変化を持たせると効果があるけど、カラヤンの流儀とは合わないだろう。それに、」と、彼はちょっと考え込んだ。「何となくなんだが、ぼくはカラヤンが『シェヘラザード』をただ一回だけ録音したことと、シベリウスの交響曲第3番を録音しなかったことと、根っこは同じなんじゃないかと感じるのさ。」

「そうなのかい?」と私は尋ねた。「いや、これはまったく推論の根拠に乏しいから気にしないでくれたまえ。」と言って、彼は再び山積みになったCDラックに向かった。

「次に聴いてみたいのは、これなんだよ。」と言って、彼はCDを取り出した後のケースを私に手渡した。「この曲も、カラヤンは一度しか録音しなかったんだ。」

 

■ 第2の封印

CDジャケット

オネゲル:
交響曲第2番 弦楽合奏とトランペットのための(1941年)
交響曲第3番「典礼風」(1946年)

フリッツ・ヴェゼニック トランペット
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー

録音:1969年8月9-11日、スイス、サンモリッツ、フランス教会(第2番)、
1969年9月23日、ベルリン、イエスキリスト教会(第3番)
独DG(輸入盤 423 242)

「オネゲルについては、よく聴く方かね?」と彼は聞いてきた。「いや、せいぜい『パシフィック231』の作曲家であることくらいしか知らないね。」と私は答えた。

「ふむ、それではこれを読みながら聴くといいかもしれない。」と彼は一冊の雑誌を私によこした。「タイトルは”An die Musik”と言うのだが、なに、ドイツ語の雑誌じゃないから心配しなくていい。付箋をつけたところに『デュトワの名盤「オネゲル交響曲全集」を聴く』という記事があるだろう。」

それから二人は黙って、スピーカーから流れてくる音楽をじっと聴いていた。彼はいつもの癖で両手の指先を突き合わせて、じっと目を閉じ、太くて黒々とした眉をよせて考え込んでいるようであった。

「確かに、いずれの曲もカラヤンの演奏は非情なまでに美しく響かせているね。一方において、オネゲルの曲が持つ小さな棘のような要素や、この記事で指摘している軽妙さよりはドイツ音楽のような重厚さが強調されている点では、オネゲルの音楽ではないという指摘も可能だな。」と、演奏が終わってから、私は感想を言った。「『シェヘラザード』と同じように、カラヤンはオネゲルが嫌いだったのかい?」

「その逆だよ。」と彼は首を振った。「カラヤンはオネゲルをコンサート・レパートリーに入れていたようだ。第2番は1953年にトリノ放送響と、ウィーン響の演奏会で採りあげており、ベルリン・フィルとの演奏会では1970年、71年、73年にプログラムに入れている。第3番「典礼風」にいたっては、1954-57年、1966年、1970-73年、1977年、1984年と計30回以上も演奏会で採りあげているんだよ。」

「そうだったのか。」私は彼から手渡された雑誌の記事に目を落として言った。「それにしても、いずれもオネゲルが発表してから10年ほどでコンサート・プログラムに載せているんだね。」

「そう、カラヤンは早くからオネゲルに注目していたと言ってよいだろう。さらに興味深いのは、一部の例外を除いてカラヤンはオネゲルをチャイコフスキーかブラームスの交響曲と組み合わせて演奏会を行っていることだ。また1950年代では第2番をプログラム前半で、ヘンデル、バッハ、ケルビーニの曲に続けて演奏している。ここから言えるのは、カラヤンはフランス音楽としてオネゲルを捉えていなかったということだと、ぼくは考えるね。」

「なるほど、では、どうしてカラヤンは再録音しなかったのだろう。」

「答えは単純なのかもしれない。」と彼は私から受け取ったケースにCDをしまいながら言った。「たぶんカラヤンは第3番を録音スケジュールに入れていたと思う。問題になったのはカップリングに何の曲を組み合わせるかだっただろう。第3番は30分ほどの曲だからね。レコード会社はオネゲルがフランスの作曲家だったから、フランス6人組の他の5人の作品は無理としても、ラヴェルやドビュッシーとのカップリングを提案しただろう。しかし、カラヤンはオネゲルをフランス音楽と考えていなかったのでその提案は蹴った。」

「他にも、ストラヴィンスキーがいるじゃないか。」と私は口を挟んだ。

「その通りだ。」と彼は同意した。「ストラヴィンスキーなら交響曲ハ長調、3楽章の交響曲、バレエ音楽『ミューズの神を率いるアポロ』、など組み合わせられそうな曲が結構ある。バッハとカップリングしてディスク化した詩篇交響曲は除くとしても、1982年まで演奏会で採りあげた『ミューズの神を率いるアポロ』などと組み合わせるのはあっても良かった。それでも、カラヤンはオネゲルを録音しなかった、いや、したくても出来なかった。カップリングさえ決まればおそらく世に出ただろうね。」

彼は3枚目のCDをかけた。

「次はこれだよ。」

 

■ 第3の封印

CDジャケット

ベルリオーズ:
幻想交響曲作品14

ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー
録音:1974年10月14-15日、1975年2月21日、ベルリン、フィルハーモニーザール
独DG(輸入盤 415 325)

「前のオネゲル以上に、この『幻想交響曲』はフランス音楽とは無縁の重厚で、なおかつ透明感のある演奏だね。」と、聴き終わってから私は言った。「『シェヘラザード』と違って、カラヤンは『幻想』を演奏会でも採り上げていただろう。昔、FMでライブを聴いたことがあるよ。確か最後の日本公演、最終日の5月5日のプログラムに予定されていたが、直前に変更されたんだよね。」

「その通りだ。カラヤンは生涯に40回以上この曲を演奏している。しかも晩年の1985年から1987年まで毎年演奏していたんだ。」

「うむ。それにデジタル録音になってから、再録音しても良さそうなレパートリーだよね。では、どうして再録音しなかったのだろう。」

「ぼくは、カラヤンが再録音しなかったのは、この音のせいだと思っているんだ。」と、彼は第五楽章をもう一度再生した。1970年代当時、圧倒的なアンサンブルを誇るベルリン・フィルの分厚い音が一つの山場を越えて、鐘の音が鳴り響いた。

「他のディスクにはない、不思議な鐘の音だね。」

「そうだ、これは別録りした音を多重録音で合成してあるんだ。通常はチューブラーベルなどで代用され、鋭く高く聴こえることが多い。しかし、カラヤンはそうしなかった。一説によるとスイスのどこかの教会の鐘の音を収録して、音響処理で複数の音程をつくり、ベルリン・フィルの音にチューニングしたらしい。」

「何でわざわざ、そんな手のかかることを?」

「もちろん、話題性ということはあるだろう。現に、他のカラヤンの録音と同様、この多重録音は人工臭が強いとカラヤン批判の格好の対象となっている。カラヤンにしてみれば狙い通りだったかもしれない。しかし、一方において作曲者のベルリオーズは、この鐘の音は低く深い音を要求したという話もある。この『低くて深い音』という意味が何を指しているのかが問題だけど、カラヤンが採用した鐘の音は、言葉通りに考えればベルリオーズの要求通りとも言える。」

「他にも、多重録音でなくても、『低くて深い音』で録音しているディスクはあるのかい?」

「いや、ぼくはそこまでこの曲の比較試聴をしたことはないから分からないな。」彼は頭を振った。「ただ、この鐘の音を加えたディスクを残しながら、実演ではカラヤンが使った鐘の音は、他の演奏でも聴かれる鋭く高い音だったと記憶している。この鐘の音で録音しても、1974/75年録音を越えるものにはならない。かと言って新たな鐘の音をサンプリングするのも結局二番煎じだ。カラヤンはこの録音で、自分自身の再録音の機会を封印してしまったんだと思うね。」

「封印、かい?」と私は聞き返した。

「うん、ここまで聴いてきた3枚のディスクは、すべて再録音がなかったという点で『封印された』と一括してもいいと思う。各々の封印には違いがあって、見向きもしたくなかった『シェヘラザード』、録音したかったけど機会を逸した『オネゲル』、自ら再録音できないようにしてしまった『幻想』という考え方ができるということだよ。」

彼は立ち上がって女主人を呼ぶため、呼び鈴を引いた。「ここでちょっとお昼ご飯にしよう。それから次の『封印』を聴こうじゃないか。

 

■ 第4の封印

CDジャケット

R.シュトラウス:
アルプス交響曲作品64

ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー

録音:1980年12月1-4、6日、ベルリン、フィルハーモニーザール
独DG(輸入盤 439 017)

「これは、カラヤンの晩年に近いときの録音だろう? 再録音したくても年齢的にできなかった、というところじゃないのかい?」昼食後、彼が最初にかけたこのCDを聞き終わってから、私は自分の考えを言った。

「それは、物事を一面からしか見ていない考え方だね。」彼はあっさりと否定した。「逆だよ。カラヤンはこの録音まで一度もアルプス交響曲を演奏してもいないんだ。ところが、録音翌年の1981年から晩年の1988年まで約20回演奏会で採りあげている。ビデオ映像まで遺している(ソニー国内盤 SIBC6)。これをどう思う?」

ちょっと考えてから私は言った。「この曲は大編成のオーケストラが必要で、それを明瞭に録音する技術が必要だと思う。録音技術の進歩があるまで演奏しなかった、ということかな?」

「録音技術の問題だけなら演奏会でも採り上げなかったのは変じゃないか。」と彼は言った。

「そうだな、お手上げだ。」私は肩をすくめた。

「おそらくカラヤンはアルプス交響曲を演奏する価値のあるものと考えていなかったんだ。なぜなら『英雄の生涯』、『ツァラトゥストラはかく語りき』は何度も録音し演奏している。今となってはもっとマイナーな家庭交響曲も採りあげている。ところがアルプス交響曲は演奏しなかった。これはカラヤンがこの曲の価値を認めなかったと言うこと以外に大きな理由はなさそうだ。1970年代前半までのリリース状況をみてもケンペの二種の録音があっただけで、さほど人気曲でもなかった。つまり一般的にも売れる曲じゃなかったということさ。」

「じゃ、なんでカラヤンは録音することにしたんだい?」と私は尋ねた。

「当時の資料がなくて記憶だけなのだがね。」と彼は答えた。「ケンペ盤も話題になったけど、決定的だったのはメータ/ロサンジェルス・フィルのレコードだったと思う。そしてショルティが録音して俄然、話題になった。」

「そこで対抗意識で録音したということかい?」

「もう一つ理由がある。カラヤン盤はデジタル録音初のアルプス交響曲だった。それまで演奏も録音もしなかったカラヤンがこの曲を初録音するためには格好のタイミングだっただろう。」

「でも」と私は口を挟んだ。「もともと価値を認めてなかったのなら、録音はしたけど演奏会には採りあげない、ということにならないのかい?」

「そうだね。そこが問題だ。リリースしてみたら意外にディスクの評判がよかったから、というのがあるんじゃないかな。実際、カラヤンの演奏は絢爛豪華でありながら、場面場面の切り替えもうまく、起伏に富みながらも『頂上にて』では圧倒的な空間の拡がりを感じさせてくれる。一方では弱音部でも音楽が小さくならない。今でもアルプス交響曲の名盤の一つに推す声が強い。『さすが、R.シュトラウスを得意としているだけのことはある』みたいな評論があれば、実演でもやらざるを得ないだろう。」彼は、パイプを吸って一息ついた。

「なぜ、話題になったから演奏会で採りあげざるを得なかった、と推論したのかい?」と私は聞いた。

「カラヤンは1980年12月に録音した。でも、演奏会に初めて出したのは1981年12月と1年も経っている。本当に気に入ったので録音したのだったら、1980/81年のシーズンの定期演奏会のスケジュールにも加えていただろう。評判が良かったので次シーズンのレパートリーに入れたというのが自然だと思うよ。さて」

彼は立ち上がって、次のCDをかけた。

次は「アルプス交響曲とは正反対の『封印』だ。」

 

■ 第5の封印

CDジャケット

ニールセン:
交響曲第4番作品29「滅ぼし難きもの」

ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー

録音:1981年2月21-23日、ベルリン、フィルハーモニーザール
ポリドール(国内盤 F35G 50179)

「そういえば、こんなディスクもあったね。」と私はCDジャケットを見ながら言った。

「カラヤンはこの曲を生涯一度も演奏会に採りあげず、もちろん過去一度も録音していない。ニールセンの他の作品も採りあげていないんだ。」音楽にあわせて静かに動かしていた長く細い指でCDケースを受け取りながら、彼は言った。「これをどう思う?」そして静かに微笑んで私からの言葉を待っていた。

「まるで『シェヘラザード』のようだな。」と私ははっと気がついて言った。

「そのとおりだ。おそらくレコード会社とカラヤンとの間で話し合われて録音することが決まったんだろう。興味深いのは同時期の録音セッションでショスタコーヴィチ/交響曲第10番の『再』録音が行われていたことだね。」

「でも、このニールセンは『シェヘラザード』と違って評判にはならなかったよね。」

「ぼくは、分かりやすい演奏だと思うけどね。」と彼はまた、パイプに手を伸ばした。「個人的にはニールセン/第4をここまで聴くことができたのは初めてだった。以前、名盤と言われたバーンスタイン/ニューヨーク・フィルとのCBS盤でも正直ここまで楽しめなかった。カラヤンは、ニールセンをショスタコーヴィチのようでもあり、マーラーのように演奏している。もちろんこの曲を録音する直接の動機となっただろう、第二部最後のティンパニの乱打も見事なものさ。ニールセンの愛好家からみれば異端であることは明白だがね。」彼はパイプから紫煙をくゆらせながら、さきほど受け取ったCDケースをじっと見ていた。「このディスクは現在、カタログにはないんだ。もちろん先頃出たDGのカラヤンコンプリート・レコーディングには入っているさ。でも単売はしていない。それだけ忘れ去られているディスクなんだ。」彼は立ち上がってCDをケースに収めた。「この演奏については他にも言いたいことはあるけれど、次に移ろうか。」

 

■ 第6の封印

CDジャケット

サン=サーンス:
交響曲第3番「オルガン付き」

ピエール・コシュロー オルガン
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー

録音:1981年9月20-21日、ベルリン、フィルハーモニーザール。パリ、ノートルダム大聖堂
ユニバーサル(国内盤 UCCG2045)

「このディスクも『幻想交響曲』と同じように、オルガンのパートを多重録音しているよね。」と私は言った。「確か、このことも『カラヤン批判』の格好の攻撃の的だったことは覚えているよ。」

「そうだ。ところが、『では、なぜカラヤンはわざわざ多重録音を使ったのか?』ということを考えたことがあるかい?」と肘掛け椅子に座っていた彼は聞いてきた。

「うむ、そう言えばそうだな。フィルハーモニーザールにもオルガンはあるだろうしね。」

「その通り。次に、そもそも、ここで演奏しているコシュローというオルガニストはいかなる演奏家で、なぜカラヤンが選んだと思う?」

「いや、考えたこともなかったな。」と私は降参して両手を上げた。彼は傍らのテーブルに積み重なった紙の山から、一枚を取り出した。

「ピエール・コシュローは1924年にパリ近郊に生まれ、18歳にしてパリの教会の首席オルガニストになる。その後、パリ音楽院に入学。いくつかのクラスを首席で卒業した。各地の音楽院院長を歴任しながら1955年からノートルダム大聖堂の首席オルガニストとなり、心臓発作で亡くなる1984年3月までその地位にあった。即興演奏の大家として知られていて、そのディスクは現在でも入手可能だ。」

「ほう、つまりフランス音楽界の大御所の一人なんだね。」

「ところが、ぼくが調べた限り、コシュローがこの『オルガン付き』を録音したディスクが他にないんだ。現役盤としては存在しないという言い方が正確かな。同じフランスのマリー=クレール・アランはプレートル、マルティノンと少なくとも2回録音しているのと随分違う。」

「それじゃ、カラヤンはこの曲の録音をするために、大御所のコシュローを口説き落としたというところなのかい?」と私は聞いた。

「うん、その点については面白い事実がある。」彼は別の資料を手にとった。「この録音から2年ほど経った1983年1月29日と30日にカラヤンは実演している。ここでの会場はベルリン・フィルハーモニー・ザールで、オルガンはコシュローだ。もし、カラヤンがコシュローの腕だけを見込んで録音したとしたら、コシュローを最初からベルリンに呼べばよかった。すなわち、カラヤンはコシュロー本人だけじゃなく、『ノートルダム大聖堂首席オルガニストとしての』コシュローと、まず録音したかったんだ。もちろんコシュローがノートルダム大聖堂での演奏を強く望んだ可能性も除外できないがね。」

 彼は立ち上がり、CDを収めたケースをじっと眺めながら、こうつぶやいた。「ただ、あえて言わせてもらえばこのCDでのオルガンとオケのバランスについては、ぼくは納得できないんだ。」

「どういうことだい?」

「最初に出た輸入盤LP(独DG 2532 045)を持っているけど、オルガンはもっと大きな音で収録されている。最初聴いたときは、ノートルダム大聖堂のオルガンは澄んだ音色というより、もっと粗野で荒々しく威圧するかのようだと感じたものだよ。このオルガンの荒々しさについては、カラヤンが指揮するベルリン・フィルの演奏と水と油でありミスマッチもいいところである、という批判がある。さらに『カラヤンにとって名誉あるレコードとはいえない』という論評もあった。しかし、ぼくはそう感じないんだ。

 LP盤が本来意図したバランスなのだとしたら、オルガンとオケの立場はより対等にぶちかりあっている。だからこそ、ノートルダム大聖堂の荒々しいオルガンと、重厚かつ流麗なベルリン・フィルとがより対照的になっていると考える。その結果、第1部後半の連綿たるベルリン・フィルの弦とややざらざらしたオルガンが対比されるし、第2部後半冒頭のオルガンがまさに大聖堂の高い天井に響き渡るような力強さで響くことに圧倒されたものさ。ところがCDではもっと穏和に溶け合うようになっていて、文字通りオルガン「付き」に修正されている。ぼくは、このCDのバランスではコシュローはリリースを許可しなかったんじゃないかとすら考えるね。」

彼は、山積みのCDから、もう1枚を取り出した。

「さあ、これが最後のディスクさ。」緋色に近いジャケットのCDケースを渡した。「午後のお茶の時間の前に聴いてしまおう。」

 

■ 最後の封印

CDジャケット

オルフ:
「時の終わりの劇」

・9人のシュピラ:コレット・ローランド、ジェーン・マーシュ、ケイ・グリッフェル、シルヴィア・アンダーソン、グウェンドリン・キルブルー、アンナ・トモワ=シントウ、カーリ・レヴァース、ヘルイェ・アンゲルヴォ、グレニー・ルイス
・9人の隠者:エリク・ガイゼン、ハンス・ヴェークマン、ハンス・ヘルム、ヴォルフガング・アンハイザー、ジークフリート・ルドルフ・フレーゼ、ヘルマン・パツァルト、ハンネス・ヨーケル、アントン・ディアコフ、ボリス・カルメリ
・ロルフ・ボイゼン 語り
・クリスタ・ルートヴィヒ アルト独唱
・ペーター・シュライアー テノール独唱

ヴィオール四重奏:シギスヴァルト・クイケン、ヴィーラント・クイケン、アデルハイト・グラット、サラ・カニングハム

ヨゼフ・グラインドル指揮ケルン放送合唱団、RIAS室内合唱団、テルツ少年合唱団
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ケルン放送交響楽団

録音:1973年7月16-21日、レーヴァークーゼン
西独DG(輸入盤 429 859)

「これは、CDショップが復刻したものを出しているね(Tower Records Universal Vintage Collection PROA-38)。さっき立ち寄ったCDストアで見かけたよ。」

聴き終わり、ちょうどお茶の時間になって女主人が持ってきたお茶を飲みながら、私は言った。「でもこれは、『封印』とは違うだろう?カラヤンが初演した曲の録音なんだから。以前に録音がないのも当然だし。」

「カラヤンはオルフを得意にしていたんだ。」彼はお茶を一口飲んでから、静かに話し始めた。「1937年にフランクフルトで初演された『カルミナ・ブラーナ』を、カラヤンは4年後の1941年1月に、自身が指揮者としてのキャリアを開始したアーヘンで演奏している。その後、同じ年の12月には、やはり専属指揮者となったベルリン国立歌劇場管弦楽団を指揮して演奏しているんだ。」

「ずいぶん熱心に採りあげたんだな。」と私は驚きの声をあげた。

「それだけじゃない。『カルミナ・ブラーナ』『カトゥーリ・カルミナ』『アフロディテの勝利』を合わせた三部作『トリオンフィ』として、オルフが1952年にまとめると、カラヤンは翌1953年には、やはり当時指揮者としてデビューしていたミラノ・スカラ座で演奏しているんだよ。1953年と言えばカラヤンがベルリン・フィルの終身指揮者・芸術監督に就任する直前さ。」

「ふむ、カラヤンはオルフの作品を注目していたということだね。」

「ところが、それ以後カラヤンは、録音はおろか実演でも『トリオンフィ』は勿論のこと、『カルミナ・ブラーナ』単独でも採りあげることはなかった。そして、実に20年後の1973年8月に『時の終わりの劇』をザルツブルク音楽祭で初演、その前に同じメンバーで1973年7月にこの録音を残したというわけさ。」

「どうして『カルミナ・ブラーナ』を『封印』したんだろう?」と私は尋ねた。彼はちょっと考え込んでから口を開いた。

「二つの理由が考えられる。一つはオルフとナチスの関係だ。オルフはナチス党員ではなかったけど、『カルミナ・ブラーナ』の初演にはゲッペルスが関係していたらしいしね。カラヤンにとってはベルリン・フィルのシェフになって間もない頃はナチス・ドイツとの関係は話題にされたくなかっただろう。」

「もう一つは?」

「1967年にベルリン・ドイツ・オペラを振って文字通り不朽の名演となったヨッフム盤の存在さ。同じDGで次々に録音を出していたカラヤンにとっては、ヨッフム盤を越える演奏を遺すことは難しいと考えたと思うよ。晩年になって『カルミナ・ブラーナ』の録音計画はあったらしいが、カラヤンの死で実現しなかった、と言われている。」

「では、なぜ『時の終わりの劇』を録音し、初演したのだろう?」

「そう、そこが問題さ。」彼はつぶやくような調子で言った。「きっと、この件についてはどこかに研究論文のようなものがあると思うのだが、今日はぼくの当て推量として聞いて欲しいんだ。まず1973年当時、オルフはドイツの作曲家の重鎮であり、また音楽教育においても偉大な人物であったということを確認しておきたい。オルフは1982年に没するのだが、大作としては『時の終わりの劇』が最後だった。その翌年から死の前年1981年まで、オルフは自叙伝を計8巻書き続けた。すなわち極端な言い方をさせてもらえば、オルフは『時の終わりの劇』で作曲活動を『封印』したとも言える。さて、この『時の終わりの劇』は演奏する上においては半端じゃないほど大きい規模が要求されている。」と彼はテーブルの上にあった紙を取り、読みだした。「合唱団、少年合唱団、声として第1部、第2部で各々9人の歌手、第3部で3人の歌手と1人の語り、これに弦楽器として4人のヴィオラ・ダ・ガンバ、8人のコントラバス、管楽器として各々6本のフルート(全員ピッコロと持ち替え)、ホルン、トロンボーン。そして8人のトランペット、各1人のコントラファゴットとチューバ、他には3台のハープ、各々2人の奏者がつく3台のピアノ、電子オルガン、録音テープ、ウィンドマシーン、そして打楽器が極めつけで約40種類、100パートを25から30人の奏者で演奏する。この中には和楽器の銅鉢まで指定されているんだ。ざっとこんな感じらしい。打楽器の各々も読んで聞かせようか?」

「いや、遠慮するよ。」と私は手を振った。「なんというか、まあ、通常聴くような編成じゃないことは分かった。作曲家オルフの集大成というところなんだな。」

 「そう、それほどの一大イベントであっただろう『時の終わりの劇』は、おそらくカラヤン以外に録音はない。もしかすると演奏もされていないんじゃないだろうか?

 なぜなら、『時の終わりの劇』は、さほど名曲というわけではなかったということがあると思う。世界の終末を描いたもので、舞台も設定されてオペラのようだが、全編に渡って作曲家の哲学的な考えが横溢しており、『カルミナ・ブラーナ』のような派手さもなく、大編成で演奏する割には陰気で渋い音楽だ。しかも最後は世の終末をヴィオラ・ダ・ガンバ四重奏で演奏して暗く、静かに終わるんだからね。同じような大編成の曲であるが、より祝典的に盛り上がって終わるマーラー/交響曲第8番とは好対照だと思わないかい?

 結局のところ、ぼくはこう思うんだ。カラヤンはドイツの偉大な作曲家であるオルフの作品を初演指揮することが、ドイツ、いや世界随一のベルリン・フィル芸術総監督としての名誉と考えていた。それとともに、自身の演奏が、ちょうど『カルミナ・ブラーナ』のヨッフム盤のように決定的な演奏となることを望んだ。したがって一流のアーティストを集めて周到なリハーサルと録音を行い、ザルツブルク音楽祭で華々しく初演を行った。

 ところが、曲そのものがさほど大衆の心を捉えるものではなかった。ドイツの大作曲家オルフの作品を、ドイツ音楽の第一人者のカラヤンが入魂の演奏した、という点では目的は果たしたけど、すべてがそこまでだったんだ。」

「そうか、オルフはこの曲で自身の作曲活動を『封印』し、カラヤンはこの曲の初演をしたけど、この曲そのものが二度と演奏されることがないくらいの『封印』を結果的にしてしまったんだな。」

「そういう考え方も出来るということだがね。」と彼は再びパイプを手に取った。「結果からみると、カラヤンは『カルミナ・ブラーナ』を再演する機会も逸してしまったことになる。『特の終わりの劇』が『カルミナ・ブラーナ』と同じくらいの注目を浴びたら、余勢を駆って『カルミナ・ブラーナ』も録音しただろう。ところが結局、カラヤンが『特の終わりの劇』を初演したことは歴史的事実としてだけ銘記されることになった。そして次の機会を窺ううちに余計にできなくなってしまった。」

「どういうことだい?」

「カラヤンはベルリン・フィルと録音したかったと思うんだ。なぜならベルリン・フィルは、ぼくの知る限りステレオ録音になってからこの曲を一度も録音していなかったからね。ところがだんだんベルリン・フィルとは対立するようになってしまった。当時この曲をステレオ録音していないもう一つのオケは、ウィーン・フィルだった。もしかするとカラヤンはソニーに移籍してからウィーン・フィルと録音する気でいたかもしれない。しかし、その前にカラヤンは急死してしまう。」彼は立ち上がりパイプから紫煙をたなびかせて、居間をゆっくり歩きながら続けた。「結果として、カラヤンはオルフとも『カルミナ・ブラーナ』とも、無縁の指揮者ということになってしまった。頂点を登りつめようと必死になっていた若い頃、あれほど熱心に演奏したのに、そして、一度はオルフをいっしょに仕事をする絶好の機会を得たのに、時の流れはカラヤンとオルフとの軌跡を引き離してしまった。」と彼は立ち止まり、微笑みを浮かべて私の方を振り返って、こう言った。「まったくもって人生ってやつは」

 私も微笑んで肘掛け椅子から立ち上がり、張り出し窓の方に向かい、それから彼の方に振り返って、彼が望んだ通りに言葉をつないだ。「人間が頭の中で考えるどんなことよりも、はるかに不思議なものだね。」

彼はさらに笑顔になって、持っていたパイプを乾杯するかのように掲げた。

 

■ パスティーシュとしてのエピローグ

 

開いたブラインドの隙間から、くすんだ灰色の街並みを見下ろしていた私は言った。

「どうやら、君に新しい依頼者が来るようだよ。あの紺のジャケットを来た若者さ。」彼は椅子から立ち上がって、私の肩越しにのぞき込んだ。

「確かにそのようだ。驚いたな、どうして分かったんだい?」

「この下宿の入り口を中心に行ったり来たりして、そわそわしているからさ。」私はちょっと得意げになって話した。

「そうだね、その通りだ。」彼は私に肘掛け椅子に戻るように促してから、彼の肘掛け椅子をドアの方に向けて座った。「あとぼくが付け加えることが出来ることは、彼が銀行員であり、最近引っ越してきたばかりで、依頼内容は彼の妻に関することだ。この距離で、これ以外には明確な事実として推理できることはないな。」私は座りかけて、またも驚かされて呆然とした。

「いったいぜんたい、なぜそんなことまで分かるんだい?」

「いや、そんなことより、あの銀行員はついに意を決して、此処に上がってくるようだよ。」

 彼がそう言い終わるやいなや、ドアがノックされると同時に開いた。あっけにとられているハドスン夫人を押しのけるように、ジャケットと同じくらいに青ざめた若者が飛び込むように入ってきた。そして、入り口からみて正面に座っていた彼に向かって叫ぶように言った。「お願いです、ホームズさん、私の妻を助けてください。」そう言い終わるや、傍らの私の存在に若者は気づいて、一瞬立ちすくんだ。

「ご心配なく、こちらは医師のワトソン博士。古くからの友人で仕事仲間です。」ホームズは若者に椅子を勧めて言った。「さて、どのような事件か、順を追ってお話しいただけますか?」

 

 

   文中において台詞、描写などは、下記の書籍から引用を行いました。

 新訳 シャーロック・ホームズ全集 アーサー・コナン・ドイル著 日暮雅通訳 光文社文庫 2006/2007年

 

(2008年6月15日、An die MusikクラシックCD試聴記)