「わが生活と音楽より」
ケンペのデュッセルドルフ・ライブを聴く

文:ゆきのじょうさん

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CDジャケット

ワーグナー
ニュールンベルクのマイスタージンガー」前奏曲
モーツァルト
ピアノ協奏曲第27番変ロ長調K.595
ピアノ演奏:グルダ
ドヴォルザーク
交響曲第8番ト長調作品88
ケンペ指揮ミュンヘンフィル
録音:1972年11月29日、デュッセルドルフ
Scribendum(輸入盤 SC 004)

 日本古来の言葉である、ヤマトコトバに「ハレ」というのがあります。天気の「晴れ」、あるいは「晴れがましい席」等と今も使われるように「ハレ」とは、日本では祭りや儀式などでの高揚した感情の高ぶりや、その非日常の状態を指すコトバとなっています。

 ハイネマン基金へのチャリティーコンサートであった、このディスクに収録された演奏会も大統領夫妻臨席ということが、ドイツでは、どのような名誉なのかは分かりませんが、そうした「ハレ」の状態であったろうと、想像に難ないと、最初の「マイスタージンガー」前奏曲冒頭の音が鳴り響いた瞬間に私は確信します。聴き手はコンサート会場の「ハレ」に忽ち包まれます。ミュンヘン・フィルの柔らかく伸びやかな音色は、ケンペの決して急かないテンポによって、美しく響き渡ります。テンポが少しずつ加速されていくことで、奏者たちの高揚感が手に取るようです。

 このコンサートのディスクはGULDA FESTKONZERTと銘打たれているように、2曲目のモーツアルトで登場するグルダが当夜の話題の中心であったと考えます。ケンペのモーツァルトは以前にテスタメントから出ました交響曲集でも分かるように、最近の古楽スタイルとは異なる、一音一音がしっかりと響きメロディが伸びやかです。しかし、そうしたテンポ感は頑迷ではなく、グリュミオーとのヴァイオリン協奏曲ではソロのきびきびとしたテンポに合わせていたように、ケンペはソリストの創り出す音楽にぴたりと寄り添う柔軟性を持っていました。

 ここでの第27番でのテンポ設定がグルダとケンペの間でどのように話し合われて決まったのかは不明です。グルダがアバド/ウィーン・フィルと録音した同曲異演と聴き比べてみれば良いのでしょうが、私はそうした分析的な聴き方が、この演奏に限って出来ません。ケンペ/ミュンヘン・フィルが織りなす天鵞絨のような世界の中にグルダのピアノがくっきりと、しかし鋭くなく立ち上がるのを聴いていると本当にどうでも良くなってしまいます。しかも同じパッセージでも少しくぐもって響かせたり、やや生っぽく前面に押し出したりと現代ピアノならではの音色の変化もグルダは十二分に楽しませてくれます。

 最後のドヴォルザーク/第8は「新世界」と並んでケンペの十八番だったようです。なぜドイツ大統領臨席のコンサートでドヴォルザークなのか、なんて考えるのも野暮なほど、ここでのケンペ/ミュンヘン・フィルは熱演しています。冒頭からスケールが大きくチェロが鳴り響き、やがてそよ風のようにフルートの音色が聴こえて、主部に突入していきます。慈しむような緩徐楽章の後に有名なワルツの第3楽章が続きます。ここでのケンペの音楽はとても艶っぽいです。トリオに相当する箇所での沸き立つようなリズムもうれしく、ファンファーレの後からは金管群を前面に出した、終楽章の興奮が待っています。

 この演奏会に立ち会ったとしたら、この演奏を生で聴いたとしたら、私は陶然として声も出なくなっているでしょう。鳥肌が立つどころではありません。気絶してしまうかもしれません。それほどの演奏です。

 ただ一つ、今度のCD化で残念なところがあります。「マイスタージンガー」の始まる前に、レコードでは収録されていた演奏会前の拍手が省略されていることです。ほんの10秒強なのですが、当夜の雰囲気を伝える記録であり、拍手が鳴りやんでから絶妙のタイミングでケンペの棒が振り下ろされて音楽が始まる様を捉えた貴重なものです。演奏終了後の拍手は残っているのですから、この最初の拍手も残して欲しかったと思います。

 

2002年2月18日掲載、An die MusikクラシックCD試聴記