「わが生活と音楽より」
メンデルスゾーンをいろいろ聴いてみる(3):マタイ受難曲

文:ゆきのじょうさん

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CDジャケット

J.S.バッハ:
マタイ受難曲(フェリックス・メンデルスゾーン編曲による1841年ライプツィヒ聖トーマス教会演奏版)

ヴィルフリート・ヨッヘンス テノール、福音史家
ペーター・リカ バス、イエスの言葉
アンゲラ・カジミエルツシュク ソプラノ
アリソン・ブラウナー アルト
マルクス・シェーファー テノール
フランツ=ヨゼフ・ゼーリヒ バス
コルス・ムジクス 合唱

クリストフ・シュペリング指揮ダス・ノイエ・オルヒェスター

録音:1992年4月
仏naive (輸入盤 OP20001)

 むかし、むかし、1823年クリスマスのことです。

 14歳の少年フェリックス・メンデルスゾーンは、祖母からクリスマスプレゼントとして、J.S.バッハ/マタイ受難曲のスコアを贈られます。フェリックス少年はその音楽に夢中となります。そして次第にフェリックスはこのマタイ受難曲を演奏したいと想うようになります。しかし当時、バッハは忘れられた作曲家でしたので周囲の反対も受けます。フェリックスは友人と実演に向けて奔走し、ついに1829年、ベルリンで20歳のフェリックスの指揮で復活上演され大成功を収めます。その後、バッハは再評価されることとなり、メンデルスゾーンの功績は湛えられ続けることになりました。

 一編の映画にも出来そうな何とも感動的な逸話です。偉大な作曲家、音楽の父であるJ.S.バッハの芸術的価値を見いだし、それを世に知らしめたいと願い、実現させた、というメンデルスゾーンの慧眼と熱意を象徴させる出来事です。

 しかし、天の邪鬼な私は、この一点の曇りもないストーリーに一抹の疑問を抱いてしまいます。この点については、おそらく一流の論文があり、きちんとした書物もあることだと想うのですが、素人故に文献調査は行っていません。したがって戯言としてご笑覧いただければと思います。

 まず、このマタイ「復活上演」によって一番得したのは、メンデルスゾーンであったことは間違いありません。メンデルスゾーンが指揮したという逸話は、調べた範囲では、メンデルスゾーン一人が指揮したというわけではなさそうです。メンデルスゾーンの師であり、演奏に不可欠な合唱と管弦楽を手配したベルリン合唱協会会長カール・フリードリヒ・ツェルターがおそらく全体指揮を行っていたようです。実際の演奏でメンデルスゾーンがどれくらい寄与していたのかは別にしても、それまで自作で大きな注目を浴びたという経歴がないメンデルスゾーンの名前が一躍知られることになりました。その後、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の常任指揮者、ベルリン宮廷礼拝堂楽長、そしてライプツィヒ音楽院を設立し、院長に就任するまでわずか14年の経過でした。これは別に性悪説に立とうとか、野心の塊であったとか言いたいわけではなく、20歳の青年が欧州楽壇でキャリアアップしていくという視点からみれば、マネジメント能力、プロデューサーとしての才能が一流であったという証左、バッハ/マタイの復活上演だったと私は思います。

 メンデルスゾーン版の特徴は、原曲なら3時間以上はかかる演奏時間を2時間余りに短縮したこと、当時は楽器として流通していなかったオーボエ・ダ・モーレなどをクラリネットに、チェンバロをピアノに代用したこと(1841年ライプツィヒ版ではチェロとコントラバスで代用)、より劇的に盛り上げるためにアルトからソプラノに変更したり楽譜のオクターブを上げ下げしたりしたこと、などに要約することができるでしょう。シュペリング盤では総じて演奏速度は速いですが、これもメンデルスゾーンの設定だったという考証結果に基づくのだそうです。原典版という原理・教条主義からみれば、あくまでもバッハに対する冒涜でしかなく、演奏会を成功させるための妥協の産物という批判を行うことは容易でしょう。もっとも、メンデルスゾーンがこのような改変を行ったから、以後も改変は頻繁に行われてバッハの「正しい」楽譜での演奏が最近までなかった原因となったのだ、という物言いはいささか極論に過ぎるように感じます。モーツァルトによるヘンデル/ハレルヤや、様々な作曲家による数多くの編曲版を羅列するまでもなく、過去の作曲家の曲に手を入れるという行為はおそらく日常的な所作だったとするのが自然に思うからです。

 閑話休題、それではメンデルスゾーン版はいわゆる「トンデモ版」なのでしょうか? スコアを諳んじたり、個々の楽曲に思い入れがある熱烈な「マタイ」愛好家でしたら強い違和感に終始するのでしょう。そのような愛好家ではなく、ましてやキリスト教徒でもない私にとっては、メンデルスゾーン版は聴きやすく飽きさせない演奏と感じました。3分の2に短縮したと言っても長大な曲ですから、このくらい隈取りをきっちりとしてくれた方が耳に入りやすいのです。メンデルスゾーンが当時の聴衆の嗜好を分析して、それに「マタイ」が受け容れられるように心を砕いた成果は現代においても十分通用する「聴きやすさ」をもたらしていると思います。そして、それが最初から企てられていたかどうかは問わないにしても結果的には、メンデルスゾーンという無名の若き音楽家に名声をもたらすだけの効果もあったわけです。バッハが「我らが町の作曲家」であったライプツィヒがメンデルスゾーンの活動拠点になったのも当然のことだと思います。

 「マタイ」での成功は芸術家としてのみならず、音楽界においてプロデューサー、イベントプランナー、そしてマーケッティングマネジメントとして一流であったことを意味します。そのメンデルスゾーンは38歳にして急死するのですが、もし長寿を全うしていたらカラヤン以前に欧州楽壇の帝王と呼ばれるほどの存在になったのでしょうか? もし、メンデルスゾーンがバッハの「マタイ」での衝撃的な楽壇デビューをせずに自作で勝負していたなら、2009年において生誕200年を採りあげられるような位置づけになったのでしょうか? バッハはその後誰かの手によって「復活」できたのでしょうか? 歴史に「if」はないので想像もできないことではあります。このシュペリング盤によって、私たちはメンデルスゾーンとバッハの巡り合わせの、ほんのわずかな部分であっても追体験することができます。その後もファゾリス盤も出たようですが2009年現在、どちらも入手は容易くはありません。せめて生誕200年の2009年において、メンデルスゾーンにとっても重要な位置づけとなる「マタイ」との巡り合わせについて聴き手が思いを馳せる機会があってもよいのにと思います。

 

2009年8月21日掲載、An die MusikクラシックCD試聴記