「わが生活と音楽より」
モーツァルトのレクイエムを聴く

文:ゆきのじょうさん

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CDジャケット

モーツァルト/レクイエム k.626
ジュスマイヤー版+モーツァルト自筆のスケッチ(フラグメント)集
Iride Martinez、ソプラノ
Monica Groop、アルト
Steve Davislimm、テノール
Kwangchul Youn、バス
クリストフ・シュペリング指揮コーラス・ムジクス・ケルン、ノイエ・オーケストラ
録音:2001年5月、ケルン
仏Opus 111 (輸入盤 OP30307)

 今年はモーツァルト生誕250周年ということでモーツァルト・イヤーなのだそうです。先日もザルツブルクがモーツァルト一色になっているというニュース映像が流れました。『ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン』でもモーツァルトプログラムだそうです。今年一杯はモーツァルトに始まり、モーツァルトに終わる一年になりそうです。

 そのモーツァルトの作品の中でも、とびきりの曰く付きの曲と言えば、レクイエムでしょう。モーツァルトの絶筆の作品、白鳥の歌と言われ、その類い希なる名曲故に、フォーレ、ヴェルディと並んで「三大レクイエム」と言われたりもするそうです。

 ただ、ご存じのようにモーツァルトのレクイエムには、フォーレやヴェルディにはない問題が生じています。それは本作品が全くと言って良いほどの未完成品であるということです。モーツァルトの死後、レクイエムは弟子たちによって完成版がつくられることになります。最終的にまとめたのがフランツ・クサヴァ・ジュスマイヤー(1766-1803)です。特に「ラクリモーザ」より後はモーツァルトの自筆譜すら残っていないため、様々な仮説、憶測が流れることになります。それらの主張を乱暴に一言で言ってしまえば、「モーツァルトが書きたかったレクイエムはこういうものではない」ということだと思います。ジュスマイヤーの補作には努力賞は与えられるが、本当はもっと凄かったのだ、それを再現してみたいという欲求です。それが最初に具現化したのはバイヤー版だと記憶しています。

 その後もモーンダー、ランドン、ドゥルース、レヴィンなどの版が出ています。どれもジュスマイヤー版の「欠点」を正して、あらゆる資料を調べて、モーツァルトが目指した(だろう)レクイエムの姿を「復元」しようとするものでした。

 私が最初に聴いた演奏は名盤の誉れ高いベーム/ウィーン・フィル盤(ジュスマイヤー版)です。そしてバイヤー版を用いたマリナー盤も出たときは話題になり、聴いてみました。バイヤー版については率直に申し上げて首を傾げるものでした。どこか不自然に思えたのです。流れが停滞したり、あくせく動いたり、ごつごつした印象を受けました。これが本当のモーツァルトに近いのだと言われれば、そうなのか、と思うほかないのですが、納得ができませんでした。以後オリジナル楽器のディスクが百花繚乱となり、いろいろな版が華々しい謳い文句と共に発売されても、正直食指は動きませんでした。

 今回取り上げたシュペリング盤は久しぶりに買ったモーツァルト/レクイエムです。何故買う気になったかと言えば、オリジナル楽器にしては珍しくジュスマイヤー版を使っていたからです。そして、今回取りあげるのも、その制作意図に深く共感できたからなのです。

 CDに添付された解説書の中にインタビュー記事が掲載されており、そこでシュペリングは「モーツァルトがどのようにレクイエムの完成形をイメージしていたかは誰もわかりません。」と述べています。そう、誰も分からないのです。だから誰もが想像して良く、様々な版を作っても良いのだとも解釈できます。これに対してシュペリングはモーツァルト自身が書き残したレクイエムのためのスケッチ(フラグメント)を、そのままの形で収録することで一つの主張をします。何故そんなことをしたのでしょうか。シュペリングはインタビューでこう言っています。

 「フラグメントの収録は純粋な博物学的興味ーインターネット世代には確かに必要なことなのですがーを越えて、作曲家としてのモーツァルトの意図をまったく手を入れていない形で理解する機会を初めて試みました。(中略)さらに、フラグメントの録音は、ジュスマイヤーへの過剰な虐待の原因を排除する機会を私たちに与えてくれます。フラグメントと完成形との比較は、フラグメントから完成させる時のジュスマイヤーの素晴らしい(作曲家への)敬意と、感受性を明らかにします。」

 そうです。ジュスマイヤーは大変良い仕事をしたのだと思います。モーツァルトが遺したわずかなスケッチから大作に仕上げているではありませんか。確かにサンクトゥス、ベネディクトス、アニュス・デイはスケッチすら残っておらずジュスマイヤーの創作かもしれません。でも師であるモーツァルトが遺した断片と格闘して、それと出来るだけ沿う形でこれら3曲を作ろうとした、そして、師の言う通りに最後の「主よ永遠の光を」に「入祭文とキリエ」の旋律を転用しています。後世の人がいくら「モーツァルトが書きたかったレクイエムはこういうものではない」と言っても、モーツァルトと同時代を生きた人が出した結論には敵うものではないと私は思います。シュペリングはそこに敬意を払った。演奏自体にオリジナル楽器ならではの不安定さがあったり、おそらくは独唱たちも一流ではないのだとしても、このディスクには素晴らしい共感があると思います。シュペリングは「主よ永遠の光を」に、同じ旋律を使っている「入祭文とキリエ」に書かれているアダージョの指定が抜けていることに注目します。ここには(勿論不注意にも書かれていなかった可能性も認めつつも)モーツァルトの積極的な意図があったと考え、そこで最初の「入祭文とキリエ」をゆっくりと「葬列を表現した世界」として描き、「主よ永遠の光を」を倍のテンポで「救済」として描いたのだそうです。何故同じ旋律を使ったのかということへの一つの回答としても、私は感銘を受けました。

 確かに、レクイエムは貴族から依頼を受けていたので何とか仕上げてしまわなければならなかったという下世話な話があるのも事実でしょう。しかしレクイエムという作品にかけたモーツァルトの創造、そして、それを持てる力で何とか形にしようとしたジュスマイヤーの闘いが、結果的にやっつけ仕事にならずに今も人々に愛される作品として遺ったということが芸術としての偉大さがあった所以だと思います。モーツァルト・イヤーでモーツァルト一色になるであろう今日、シュペリング盤は私に、そんなことを考えされてくれました。

 

2006年2月12日掲載、An die MusikクラシックCD試聴記