「わが生活と音楽より」
二枚の背筋がぞっとする音楽を聴く

文:ゆきのじょうさん

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 伊東さんが掲示板において、「ダイレクトに人間感情を表すタイトルの曲」があるのかという大変興味深い疑問を呈しておりました。私もこれと思いつく曲はなかったのですが、一方においてクラシック音楽を聴いているときに、あまりダイレクトに感情の起伏を経験することもないようにも思いました。もちろん、個人的体験と深く関わった曲であるので、聴いている内にその体験が想起されて再び同じ思いになる、というのはあると思います。しかし、そういった追体験がないのに、ある感情に包まれるということは余り多くはないでしょう。むしろ「ほぉ、こんな音楽(演奏)なのか。」と考えていたとか、「うん、これはたまらなくよいな」と感じていた、と後で分かることもあります。

 しかしながら、わずかな例外もあります。特にクラシック音楽を聴いていて、文字通り身の毛も弥立ち、背筋がぞっとする思いを感じることがあったときは、強く印象に残っています。今回はそういう感じ方をしたディスクを紹介します。

 

 

CDジャケット

ブリテン:
教会寓話劇「カーリュー・リバー」

・狂女:フィリップ・ラングリッジ テノール
・渡守:トマス・アレン バス
・旅人:サイモン・キーリンサイド バリトン
・僧院長:ギドン・サックス バス
・少年の霊:チャールス・リチャ?ドソン ボーイズソプラノ
・巡礼者たち:ロンドン・ヴォイス 合唱
サー・ネヴィル・マリナー指揮アカデミー室内管弦楽団のメンバー

1996年7月、ロンドン、ヘンリーウッド・ホール
蘭Philips(輸入盤 454 469)

 このオペラ(?)が能の「隅田川」を翻案した作品であることは周知のことです。私は「隅田川」については、高校の古文の授業で出会ったと記憶しています。無味乾燥な古文の授業でこの作品がいかなるものかという味わいを感じることは全くなかったのですが、後年じっさいに「隅田川」を見る機会がありました。シテとワキのやりとりで子が死んでいたということが分かる過程は息が詰まるようでしたし、最後の場面でシテが、それまでやや俯いていた面をわずかに上げるところがあったのですが、その瞬間にシテと私との間に途方もない空間が拡がったような感覚に襲われた衝撃は忘れられません。

 さて「カーリュー・リバー」の粗筋は、隅田川と大きく変わってはいません。さらわれた我が子を追ってさまよう狂女が、渡し守がいる川までたどり着く。そこで渡し守が1年前にこの川の対岸で子供が病死したと話すが、それが狂女が探し求めていた我が子であるということが分かる。狂女はその墓で祈りを捧げていると我が子の声が聞こえ、やがて霊が姿を現す。そして狂女は救済される、というものです。「隅田川」では、狂女が我が子の姿を見たと思ったが、ただ我が子が眠る塚に生えた草があるだけという無常観が強調されているのですが、「カーリュー・リバー」では宗教的な救いが与えられています。

 しかしながら、「カーリュー・リバー」でも渡し守と狂女のやりとりが進むにつれて、我が子の死という真実が顕わになってくるところで、小編成の管弦楽から沸々と音が膨れあがる様を聴いていると、背筋がぞっとしてきます。

 本作はブリテン自身が指揮したディスクが名盤として知られており、現在それしかカタログにはありません。しかし、私はマリナー盤の、どこか突き放したような醒めた演奏を聴くことで、逆にこの曲の持つおどろおどろしさが浮き彫りになるように感じます。

 

 

LPジャケット

シェーンベルク:
モノドラマ「期待」作品17

アニヤ・シリア ソプラノ
クリストフ・フォン・ドホナーニ指揮ウィーン・フィルハーモニー
録音:1979年9月、ウィーン、ゾフェイン・ザール
欧DECCA(輸入盤 476 5758 ベルク『ヴォツェック』とのカップリング)
ジャケット写真はLP(ロンドン 国内盤 L28C-1401)

 粗筋は、何日も森の中で恋人を捜し求める女性が主人公です。その中で様々な感情が表出します。そして同時に、恋人が他の女性に好意をもったことへの嫉妬も語られます。疲れはてた女性は一軒の家を見つけ、そこで何かにつまずきます。それは探し求めていた恋人の死体でした。驚愕と錯乱、悲嘆、しかしその言葉の端々からは、嫉妬にかられた女性が恋人を殺したのが真実なのではないかという暗示もありますが、何もはっきりせぬまま音楽は終わります。

 徹頭徹尾心理描写に徹した音楽です。何も救いがないまま音楽は断ち切るように終わるまで、息をつく暇を与えません。おそらく独唱に莫大な負担が強いられるためかディスクはさほど多くはなく、ジェシー・ノーマン/レヴァイン/メトロポリタン盤(Philips)、フィリス・ブリン=ジョルスン/ラトル/バーミンガム盤(EMI)、アレッサンドラ・マルク/シノポリ/カペレ(DG)、などが目に付く程度です。

 ここで紹介するディスクは、ドホナーニが細君であるシリアと組んで、ウィーン・フィルを指揮したものです。シリアの声は極めて冷たく、聴き手の心を突き刺すような響きです。ウィーン・フィルの音も曖昧なところが全くなく、狂気というものを音にするとこうなる、という見本のようなひんやりした響きが次から次へと押し寄せてきます。声と管弦楽の響きがこれほどの同質さをもっている点で、このディスクの価値は高いと思います。ムンクのようなシェーンベルクの自画像のジャケットと合わせて、本ディスクは私にとっての「背筋がぞっとする音楽」の白眉なのです。

 

 

 

  実はもうひとつ極めつけの「背筋がぞっとする音楽」があるのですが、それはまた別の機会とさせていただきます。

 

(2008年6月22日、An die MusikクラシックCD試聴記)