「わが生活と音楽より」
2枚のスロッテルを聴く文:ゆきのじょうさん
そもそもは、グリーグのピアノ独奏曲集を探していたときのことでした。抒情小曲集と並んで目にとまったのが「スロッテル」の文字。「ペール・ギュント」のような人名かと思ってあれこれ調べたのがきっかけです。
「ノルウェー農民舞曲」という副題が付いた「スロッテル」作品72は1903年に出版された以下の17曲から成るピアノ小曲集です。
第1曲 ギベェンの結婚行進曲
第2曲 ヨン・ヴェスタフェの飛び跳ね舞曲
第3曲 テレマルクの結婚行進曲
第4曲 丘からの無曲
第5曲 オスのブリッラーレン
第6曲 粉屋の少年によるガンガル(指で奏でる人々)
第7曲 ロトナム=クヌートのハリング
第8曲 ミュラルグーテン(粉挽き少年)による婚礼行列の曲
第9曲 ニルス・レクヴェのハリング
第10曲 クヌート・ルーローセンのハリング第1
第11曲 クヌート・ルーローセンのハリング第2
第12曲 粉屋の少年による飛び跳ねガル
第13曲 ホーヴァル・ギボーエンカのオーテルホルト橋の夢
第14曲 悪鬼の婚礼の行進
第15曲 スクル谷の花嫁(ガンガル)
第16曲 ヒブレの乙女(飛び跳ね舞曲)
第17曲 ヒブレの乙女(ガンガル)1907年に没するグリーグの晩年のピアノ曲ということになります。副題が示す通り、ノルウェーの舞曲をグリーグがピアノ独奏に編曲したわけですが、原曲はハーディングフェーレという聞き慣れないノルウェーの民俗楽器で演奏されたものだそうです。その原曲とグリーグのピアノ版を交互に並べて聴き比べができるディスクが、1枚目です。
■ ステーン=ノクレベルグ&ビューエン盤
グリーグ:
「スロッテル」ノルウェー農民舞曲 作品72クヌート・ビューエン ハーディングフェーレ
アイナル・ステーン=ノクレベルグ ピアノ録音:1988年3月10-11日、ヘヴィクオッデン、オンスタ美術センター
ノルウェーSIMAX (輸入盤 PSC1040)17曲を順番にオリジナル、グリーグのピアノ版と交互に演奏していくという構成になっています。従って最初はハーディングフェーレの演奏から始まったのですが、これが実に風変わりな音響として耳に飛び込んできました。
ハーディングフェーレ(hardingfele)は、ハルダンガーフィドル/ハッダンゲルフィドル(Hardanger fiddle)、ハルダンゲルヴァイオリン、などと表記されたりもします。以後、本項ではハーディングフェーレで統一させていただきます。画像検索されると容易にわかりますが、見た目は装飾が施されたヴァイオリンという姿です。ハルダルゲンというのはノルウェー西海岸のハルダンゲル地方に由来していると言われており、同地方が発祥とする記載が一般的ですが、裏付ける史料はないようです。いつ頃からある楽器なのかも不詳で、最古のもので"Jaastad-fela"と名付けられているハーディングフェーレがベルゲン博物館に保管されているそうです。一般的にはこの楽器は1651年頃のものと言われていて、ヴァイオリンが16世紀に生まれたと考えられていますから、約100年後には存在したということになります。
ところが最近、ベルゲン市在住のノルウェー人の方から教えていただいたところによると、1651年の算出根拠になった放射性炭素年代測定に問題があり、18世紀頃にハンダルゲン地方からテレマルク、ヌンメダール、ハルングダール、ヴァルドレスなどの周辺に広まっていったという歴史的事実と合わせると、1651年ではなく1751年頃の制作ではないかと議論されているそうです。
それはさておき、ハーディングフェーレはヴァイオリンと同様、4本の弦を弓で弾くのですが、それ以外に5本の共鳴弦があります。しかもほとんど重音で演奏されます。したがって、一挺の楽器で演奏されているのに、響きは重層的であり、しかも(私の耳では分析できませんが)調弦や音律も独特のようで、あたかもスコルダトゥーラを聴いているかのようです。音程の取り方も微妙に違うようで、第1曲「ギベェンの結婚行進曲」における高音でのポジションは指頭半分くらい低いように思うのですが、何度も繰り返されるのでこれが「正しい音程」のようです。
このオリジナル版に比べると、グリーグのピアノ版はとても洗練されているのが分かります。ハーディングフェーレでの「濁り」や揺らめきはなくなり、私たちが聴き慣れた音律での美しい響きになっています。しかし、一方において、原曲が持っていた野性味や、細かい音の動き、多様な躍動感が希薄になっていることも認めざるを得ません。日本で言えば、まるで江差追分をピアノで弾いているような感覚でしょうか? 学校の授業ではドヴォルザークなど並んで「民族楽派」と括られて、ノルウェーの音楽を体現した音楽家と思っていたわけですが実際に、元々の民族音楽と聴き比べてみるとグリーグが「純粋な」クラシック音楽の作曲技法との狭間においてどれほど苦闘したのか、しかも、それを晩年にやっていたという事実に、私はたいへん感銘を覚えました。
例えば第8曲「ミュラルグーテンによる婚礼行列の曲」では、ハーディングフェーレ版ではゆったりと進む新郎新婦の周りで、緩やかに舞う人々を連想させます。ところがグリーグのピアノ版では演奏時間も倍以上になっており、幸福に満ちた婚礼を暖かく燃える暖炉の脇で回想しているかのような深い安寧を感じさせます。第11曲「クヌート・ルーローセンのハリング第2」では演奏時間はほとんど変わらないのに、ハーディングフェーレ版ではいかにも沸き立つような群舞なのですが、ピアノ版は曲全体の構成が大きく、まるで一編のドラマを聴いているかのようです。このように、グリーグは原曲をそのままピアノ版にコピーしようということは考えておらず、原曲から得た自身の着想を大切にしながら作曲したのだろうと考えます。
さて、このディスクと同じSIMAXレーベルは、およそ20年後に再び原曲のハーディングフェーレ版とグリーグのピアノ版を合わせたディスクを世に送り出します。これはおそらくグリーグ没後100年に因んだ企画だったと思います。
■ ニューフース姉妹盤
グリーグ:
「スロッテル」ノルウェー農民舞曲 作品72(スヴェン・ニューフース編)
イングフリー・ブライエ・ニューフース ピアノ
オースヒル・ブライエ・ニューフース ハーディングフェーレミュラルグーテンによる婚礼行列の曲
クヌート・ダーレ ハーディングフェーレ
録音 2007年1月12-14日、トロールハウゲン、グリーグ博物館
1912年(ワックスシリンダー録音)
ノルウェーSIMAX (輸入盤 PSC1287)グリーグ:「スロッテル」のピアノ版誕生の経緯は以下のように伝えられています。まず原曲のスロッテルの楽譜は存在しませんでした。そこでハーディングフェーレ演奏の伝統を保存するという動機から、楽譜として遺すことを推進したのが当時の名演奏家であったクヌート・ヨハンセン・ダーレ(1834-1921)でした。ダーレはグリーグに依頼し、同じノルウェーの作曲家であるヨハン・ハルヴォルセン(1864-1935)が、ダーレの演奏から採譜を行いました。その楽譜を元にしてグリーグは「スロッテル」を作曲するのです。
さて、そのダーレの演奏そのものは、何とワックス・シリンダー(蠟管)という、レコード以前の蓄音機黎明時代の録音方式によって、現在まで遺されています。そのダーレの演奏から、民俗音楽学者スヴェン・ニューフースが新たに採譜し直してハーディングフェーレのための楽譜を作成し、グリーグのピアノ版もそれによって校訂しました。このニューフース版で録音されたのが二枚目のディスクです。
演奏しているのは名前とジャケット写真から容易に想像できる通り、編曲者スヴェン・ニューフースの二人の娘です。ピアノは妹のイングフリー・ブライエ・ニューフース(1978-)、ハーディングフェーレは姉のオースヒル・ブライエ・ニューフース (1975-)です。イングフリーの弾くピアノはトロールハウゲンのグリーグ博物館にあるグリーグ自身が弾いたピアノで録音しているという念の入れようです。さらにオリジナルのダーレのワックス・シリンダー録音をボーナストラックに加えています。「スロッテル」という作品の価値にかけた情熱が並々ならぬものであることがよく伝わる一枚です。
さてディスクの構成は、まずグリーグによるピアノ版で17曲を通し、次いでハーディングフェーレ版で17曲というものです。ステーン=ノクレベルグ&ビューエン盤も同様ですが、CDプレーヤーのプログラムを使えば、両ディスクを互いの聴き方で楽しむこともできます。しかし、この構成の違いがスロッテルに対する視点の差であるとも考えますので、そのまま聴いていくことにしています。
私はもちろん、グリーグの作曲した楽譜とニューフース編曲版の楽譜を持っているわけでもなく、聴きながら細かい相違を指摘できるような耳も記憶力も持っていません。しかし第1曲から聴いていると、ニューフース版には多くの装飾府が付け加えられており、和音の響きも複雑になっていて、ハーディングフェーレによる原曲にかなり近づいていると感じます。グリーグが、ピアノ演奏用にするために切り捨てていった音たちも丁寧に拾い上げています。これはグリーグが作曲した当時とピアノ演奏法が変遷していることが関わっているのかもしれませんし、ピアノで演奏される「べき」和声という存在の自由度が増してきているからかもしれません。反面、グリーグがスロッテルから得た着想や回顧という、作曲者自身からのメッセージが希薄になっているのではないかという疑問が出てくるのも当然でしょう。グリーグが切り捨てた一つ一つの音たちにも切り捨てるだけの条件があり、グリーグがすくい取ったものにこそ意味があるのだという考え方もあると思います。しかし、私はイングフリー・ニューフースのさりげないようでいて、自然な振幅をもって格調高い演奏もあって、グリーグ版とは違った魅力に満ちた曲になっていると思いました。
ハーディングフェーレ版は、同じ楽器を使いながらこうも飛び込んでくる音楽に違いがあるのかという驚きがあります。ビューエンの演奏に比べると、オースヒルの演奏は、響きの純度は増していて音程の取り方も一般的によく聴く西洋音楽のものとずいぶん近しい印象がしました。それに加えてテクニックは唖然とするくらい素晴らしいものです。これを聴くとハーディングフェーレの演奏様式も徐々に国際化しつつあるのだろうと感じます。野性味と厳しさを採るのであればビューエン盤でしょうし、聴きやすさと人なつこさを求めるのならオースヒル盤だと思います。
さて、再びディスクの構成に目を向けましょう。互いに1曲1曲を聴き比べていくステーン=ノクレベルグ&ビューエン盤では、原曲とグリーグとの抗いのようなものを感じることができました。オリジナルのスロッテルがいかにノルウェーの地方文化に根ざした、強烈な音楽であるかが実感できる一枚です。一方、ニューフース姉妹盤は、それぞれの曲集を一連の流れでまとまりを持って聴くことで、その響きに浸ることができます。二人の演奏も曲通しのつながりを意識していて、間の空け方も工夫を感じます。原曲のスロッテルとグリーグの音楽がより親密に寄り添っています。その架け橋として考えれば、スヴェン・ニューフースの編曲の功績も大きいと思います。
このディスクに最後に収録されているダーレの演奏は、もちろん音質は貧弱ですが、演奏は味わいが深いものです。比較的速めのテンポで、優雅さすら感じさせるのは、やはり名手のなせる技なのでしょう。
同じレーベルが20年の時を経て、同じ曲を同じ二つの楽器で、しかも構成を変えて出してくる、という点で、スロッテルがいかにノルウェーで愛されているのかが想像できます。もし機会があれば実際にノルウェーで聴いてみたいものです。
■ 付記:もう二枚のスロッテルのアルバム
グリーグ:
「スロッテル」ノルウェー農民舞曲 作品72より(ソンメルフェルトによる管弦楽編曲版)
第8曲 ミュラルグーテン(粉挽き少年)による婚礼行列の曲
第4曲 丘からの無曲
第2曲 ヨン・ヴェスタフェの飛び跳ね舞曲録音:2005年5月2-3日、グラスゴー、ヘンリーウッド・ホール
ビャーテ・エンゲセット指揮ロイヤル・スコティッシュ管弦楽団
欧NAXOS(輸入盤 8.557854)ノルウェーの作曲家であるオイスタイン・ソンメルフェルト(1919-1994)が、1955年から「スロッテル」の管弦楽版の作曲を始め、組曲形式で3つに分けて発表しました。しかし、その後も改訂作業を繰り返した後、ソンメルフェルトはノルウェー放送に保管してあったすべてのスコアを廃棄してしまいます。その後、1977年に3曲からなる組曲を作曲したものを、このディスクで世界発録音されたそうです。ピアノ版に比べて、かなり華やかになっていますが、原曲が持つ素朴さや、グリーグが込めた哀切にも似た抒情はきちんと反映されていると思います。それと同時に、このレベルで全17曲を編曲するのは、グリーグがピアノ版にしたとき以上の大変な作業であり、ソンメルフェルトが結果的に廃棄せざるを得なかったのも分かるような気持ちになります。なお、本ディスクには、ダーレが演奏するスロッテルを採譜することで「スロッテル」誕生の立役者でもあった、ハルヴェルセンがグリーグの他の作品を管弦楽版に編曲したものも収められています。先のエピソードを知ってから聴いてみると、また格別な味わいがあります。
口で真似するスロッテル ノルウェーの農民舞曲
・グームン・アイデにならったスプリンガル
・イーナのワルツ
・昔のスロット
・気だてのいい少年
・セヴェリン・シェルランにならったルドル
・アンナ・スカイエにならったスプリンガル
・セヴェリン・シェルランにならったルドル
・ティンのカーリ・ミティガール
・アンナ・スカイエにならったハリング
・トリグヴェ・ヘーヴェにならったルドル
・ビグダトローエン−シュール・ヘルゲランにならったリューダスロット
・エンドレ・ビョートヴァイトにならったルドル
・アンデシュ・サーゲンにならった結婚スロット
・オールドミス
・ラーシュ・フラーテンにならったスプリンガル
・グラウタトヴォロ
・ヨルンのメロディ
・シュール・エルデガールにならったスプリンガル
・ウーラ・ホスターボにならったスプリンガルベーリト・オプハイム・ヴェシュト ヴォーカル
録音:2007年6月、ノルウェー、ベールム、ヤール教会
欧2L(輸入盤 2L46SACD)農村の舞曲であるスロッテルは、歌詞は付かずハーディングフェーレで演奏される器楽曲です。しかし演奏家がいない場合は口まねにて歌われて踊られたと、このディスクの演奏家であるヴェシュトは解説しています。音声には意味のある言葉はなく、あくまでも器楽として声は参加しているようです。このディスクは、そうした伝承されてきた「口真似の」スロッテルを録音したものを調査し、SACDハイブリッド録音で世に出したものです。
ジャケットには4人の女性がいますが、すべてヴェシュト本人であり演奏でも多重録音を駆使してすべて一人で演奏しています。ヴェシュトはノルウェーでは有名なフォークシンガーで、クラシック音楽家との共演も多いそうです。ハーディングフェーレが重音と共鳴音を特徴とした複雑な響きが持ち味ですが、「口真似の」スロッテルでは多重録音を使っても4声が限界であり、むしろ簡明な旋律の歌い回しで、スロッテルの持つ素朴さを表現していると思いました。グリーグの「スロッテル」とは共通する曲はありませんが、そこに流れている空気は共通のものです。グリーグ、ダーレ、ハルヴォルセン、ニューフース一家、ソンメルフェルト、そしてヴェシュト自身も、いつかどこかで聞いたことがあるのかもしれない、これらスロッテルには尽きせぬ魅力が満ちているとのだと思います。
■ Acknowledgments
I thank Havard@dingsebomsen (http://twitter.com/dingsebomsen) very much for your helpful comments about Slatter and hardingfele.
Jeg takker Håvard @ dingsebomsen (http://twitter.com/dingsebomsen) veldig mye for dine nyttige kommentarer om slåtter og hardingfele.Also, I greatfully thank Mr.Hirata @kzhirata (http://twitter.com/kzhirata) for your kind cooperation in this respect.
そして、平田さまにはとても親切な対応をいただきましたことを、この場を借りて厚く御礼申し上げます。
2010年3月5日掲載、An die MusikクラシックCD試聴記