アルプス登山への招待
文:青木さん
春に『アルプス 天空の交響曲(シンフォニー)』というドイツ映画を観ました。アルプス山脈の空撮だけで構成されたドキュメンタリー作品で、登山好きとしては大いに楽しめる内容ではあったものの、タイトルから連想せずにはいられないリヒャルト・シュトラウスに無関係だったことはやはり残念。というわけで、今回採りあげることにいたしました。去年のはげ山の次はアルプス・・・・脈絡のないAn die Musik山岳部がご招待する登山の世界に、しばらくおつきあい願います。
■ 第一部 楽曲について
Eine Alpensinfonie、アルプス交響曲。交響曲を自称しながらも徹底した標題音楽であり、しかもその描写の写実性・具体性はシュトラウスの全作品中おそらく随一。ということはあらゆる音楽作品の中でも最高レベルのリアリズムということになるだろう。それゆえ「内容が空疎」「壮大なこけおどし」「肥大した管弦楽法」「まるで映画音楽」といった批判的な見方も多いようだ。実はニーチェの「アンチクリスト」に影響を受けた抽象的・思想的なテーマも内包しているそうだが、本稿では標題音楽としての側面のみを追求したい。というより、それしかできません。
もちろん作曲技法についての具体的な分析・解読も、素人のワタシにはまったく不可能だ。とてつもなく高度なテクニックが駆使されているらしい。芥川也寸志氏の著書から、この曲についてのコメントを引いておくと―――
『私も作曲家のはしくれとして、その技術にはただただ舌を巻き、腰の抜ける寸前で、もしこんなに思うがままに作曲というものができるのであったなら、たった一日でいいからそうなってみたい、もし本当になれたらすぐ次の日に河馬に食わせて死んだって本望だ、と思うくらいでうまいといったらこれほどうまい作曲はありません』(『音楽を愛する人に――私の名曲案内』,筑摩書房,1967)
さて、アルプスだ。アルプスといってもいささか広い。この曲の舞台はいったいどの山なのだろうか。ここでまずアルプス山脈の全体像について少々講釈させていただくと、
- アルプス・ヒマラヤ造山帯に属し、ヨーロッパ中央部を東西に横切る「山脈」である
- オーストリア、スロベニアを東端とし、イタリア、ドイツ、リヒテンシュタイン、スイス各国にまたがり、フランスを南西端とする多国にまたがっている
- 最高峰のモンブランは標高4810.9mで、フランスとイタリアの国境をなし、ヨーロッパの最高峰でもある
以上、Wikipediaからの抜粋おわり。なお映画のパンフレットには「東西約1000km、南北約150km」「4000m級の山高が連なっています」と紹介されていた。
話を戻して、またWikipediaで「アルプス交響曲」を見てみると『シュトラウスが14歳(15歳との説あり)の時に、ドイツ・アルプスのツークシュピッツェに向けて登山をしたときの体験が、この曲の元となっている』と書かれている。これを拡大解釈したものか、他の文献等には「ツークシュピッツェでの登山を描いた曲」とする解説も見られた。ツークシュピッツェといえば「禿山の四夜」にも登場したドイツ最高峰だ。今でこそ標高2962mの山頂の直下まで登山鉄道とロープウェイが通じているそうだが、150年前に生まれたリヒャルトくんがティーネイジャーの時分にそんなものはなかったはず。少年が歩いて一日で登れるような山なのか?
結論からいえばシュトラウスはツークシュピッツェ山に登ったわけではなく、残された彼の手紙によると実際の登山はムルナウ近郊の山、おそらく標高1790mのハイムガルテン山だろうと推測されているそうだ。ガルミッシュ=パルテンキルヒェンの山荘で作曲をしたのは1911〜1915年というから、その登山から30年以上も経過している。そしてハイムガルテン山もガルミッシュも「ツークシュピッツェ山をはじめとするアルプスを間近に眺望できるスポット」であって、アルプスそのものとはいいがたい。
こういったことを総合すると、少年期の体験と山荘からの眺めを素材にして想像を膨らませた「イメージとしてのアルプス登山」の曲ということになり、特定の山域が舞台となっているわけではなさそうだ。それならば、地理的にはどう考えても関係なさそうなマッターホルンがアルバム・ジャケットに頻出することについても、アルプスの象徴として登場しているに過ぎないと考えれば目くじらをたてることもないように思える。
■ 第二部 音盤について
この曲の最高の名盤は、ルドルフ・ケンペ指揮シュターツカペレ・ドレスデンのディスクだと思う。すべてが完璧というわけではないものの、全体を貫く剛毅な風格と管弦楽の渋い美音はまったくもって別格的存在というほかない。近年のリマスタリングによって劇的に改善された音質も最高レベル。しかし当An die Musikではこの名盤についてすでに語りつくされた感もあるので、ここでは別のディスクをいくつか採りあげたい。
■ルドルフ・ケンペ指揮 ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1966年4月26-27日 ロンドン、キングスウェイ・ホール
プロデューサー:チャールズ・ゲルハルト
エンジニア:ケネス・ウィルキンソン
RCA→テスタメント(国内盤CD:ユニバーサル JSBT8428)カペレ盤に先立つこと5年、このケンペの旧盤が「アルプス交響曲」の初ステレオ録音とされている。少し高音がきつい感じがするものの(テスタメントのリマスタリングのせいかも)、トータル的な音場の空気感・立体感と各楽器の生々しい実在感とが両立するサウンドが魅力的。良くも悪くも「時代」を感じさせるのだが、それも含めて当時のマーキュリー・リビング・プレゼンスにかなり肉薄しているのではないだろうか。
演奏のほうは、粗さが目立つほどの豪放磊落な「ザ・男の登山」ぶりが楽しく、このあたりも60年代ぽくてナイスだ。ところがその勢いも頂上あたりまで。登りでハリキリすぎて下りでヘロヘロになるという中高年登山の悪例を思わせる。特に嵐の表現が生ぬるく、サウンドに助けられている感じさえするほど。惜しい。このペース配分ミスがカペレ盤では是正されているわけなので、あの名盤誕生の一過程としても重要な記録かもしれない。
■ゲオルグ・ショルティ指揮 バイエルン放送交響楽団
録音:1979年9月9-10日 ミュンヘン、ヘラクレスザール
プロデューサー:トマス・モーリー
エンジニア:スタンリー・グッドール、デヴィッド・フロスト、ナイジェル・ゲイラー
デッカ(国内盤CD:F35L50303)デッカとショルティの双方にとって、バイエルン放送響を起用したセッション録音はきわめてレアだ。同オケの本拠地ミュンヘンはシュトラウスゆかりの地であり、アルプスの山並みを間近に臨む都市でもある。その意味ではこの曲にもっともふさわしい「ご当地オーケストラ」かもしれず、そういう趣旨の企画なのだろう。
さてこの演奏は「登り道」やそれに続く部分のテンポの速さで知られており、こんな慌ただしい山登りはダメ!という否定的な評価も散見する。でもワタシ個人の登山経験からすると、このテンポこそがリアルな感情の反映だ。天候悪化や何らかのトラブルに備えて余剰時間を確保しておきたい、最初のうちに距離を稼いで後半でラクをしたい、『山と高原地図』記載のコースタイムに負けたくない、といった邪念雑念がうず巻いて、ついせわしなく登ってしまう。未熟さの証以外のなにものでもないが、これが現時点での正直な登山実態。その気分にこれほどぴったりくる演奏はほかにない。
などといってもショルティがそんなことを表現しようとした結果ではもちろんないだろうし、そもそも楽曲の標題性自体をほとんど意識していないようだ。立派な「交響曲」の演奏だと思う。録音に関しては決して悪くないものの、こちらが勝手に期待する「典型的デッカ・サウンド」とは少し傾向が異なっている。
■ベルナルト・ハイティンク指揮 アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団
録音:1985年1月20-21日 アムステルダム、コンセルトヘボウ
フィリップス→デッカ(国内盤CD:日本フォノグラム 32CD389)高い山がない国の指揮者とオーケストラでもこのように充実した演奏ができるのだから、「ご当地オケの起用」はやはりイメージ優先という気もする。これは彼らにとって旧フィリップス最末期の録音で、これ以降はコンセルトヘボウ100周年記念盤であるベートーヴェン交響曲全集があるだけ。珠玉の九座が連なるベト全山脈と併せた「ドイツ十名山」でレコーディング・キャリアを締めくくったかのようだ。
当演奏は弾丸登山のショルティ盤とは対極のようでいて、描写があまり写実的ではないという面では共通しているように感じる。演奏とサウンドとが一体となって醸し出される、ずっしり重厚な安定感。その中で各場面を緻密に描くことが逆に矮小化につながるのを避けたというか、大山脈としてのアルプスの圧倒的威容を表現したような演奏だ。その意味で、マッターホルンを描いたジャケット・デザインは当盤に限ってふさわしくないかも。そして、コクのある音色の各楽器がほどよくブレンドされたオーケストラ総体としての美しさという点でも最高級のすばらしさ。ワタシのようなコンセルトヘボウ偏愛者にはたまらない。
■その他
・ベーム指揮シュターツカペレ・ドレスデン(1957年、DG)
ゴツゴツした古風な格調が感じられ、よい演奏だと思う。でもモノラルでダイナミックレンジが狭い録音というのは、この曲の場合さすがにつらい。
・メータ指揮ロスアンジェルス・フィル(1975年、デッカ)
当時のメータの長所が集約されているかのような快演。メリハリと推進力に満ち、それぞれの場面が実に鮮やかだ。やや軽めではあるもののサウンドのクオリティも高い。
・カラヤン指揮ベルリン・フィル(1980年、DG)
スケールの大きい立派な構え。磨き抜かれた流麗な響き。名盤として広く支持されるのもうなずける。「登り道」での金管が舞台裏ではなく舞台上にいるとしか聴こえない録音はいただけないけれども。
・シュタイン指揮バンベルク響(1988年、オイロディスク)
質実剛健、という言葉が似合う渋めの演奏。どこがどうとは言えないが、アルプス的雰囲気も濃く、まことに充実した音楽体験を得られる。サウンド面も含めて全体のバランスが絶妙だ。
・ブロムシュテット指揮サンフランシスコ響(1988年、デッカ)
明るめの響きで滑らかに進行し、独特の雰囲気がある。クリアだが近接気味の録音は好悪が分かれるかも。「危険な瞬間」と「頂上にて」を分割しないトラック設定は実に奇妙で、何か意図があるのだろうか(ショルティ盤も同様)。
・バレンボイム指揮シカゴ響(1992年、エラート)
オーケストラの剛毅なド迫力と完璧な技巧に圧倒される。すさまじく突き抜けた演奏だ。アルプス登山の情感やムードはほとんど感じられないものの、これはこれで大いに説得力に満ちた名演奏だと思う。そんな世評はついぞ聞かないけど。
・シノーポリ指揮シュターツカペレ・ドレスデン(1993年ライヴ、DG)
演奏は普通だと感じるのだが、サウンド面に癖があってあまり好みでない。1998年の「ドレスデン国立歌劇場管弦楽団450周年記念コンサート」を収録した映像作品(Arthaus→Euroarts)のほうが楽しめた。
・インバル指揮スイス・ロマンド管(1996年、DENON)
なんとなく線の細いソフトな演奏だろうという先入観をもって聴いたせいか、実に骨太でスケールが大きいように感じられた。金子建志氏の解説がたいへん充実しており、ライナーノート大賞を授与したい。
・マゼール指揮バイエルン放送響(1998年、RCA)
前半はあまり印象に残らないが、後半部、特に嵐の場面が出色。グローフェの『大峡谷』でよくあるように雷鳴の実音をダビングしているらしく、こういうディスクもあっていいと思う。
・ヤンソンス指揮コンセルトヘボウ管(2007年ライヴ、RCO)
実演で聴けば感動必至の演奏だろう。しかしこの「RCO Live」シリーズの多くがそうであるように、CD(SACDだけど)というパッケージ商品としての魅力に乏しく、単なる「実演の一記録」に過ぎないという印象だ。なにか大事なものが足りないのだがそれがなにかがよくわからず、実にもどかしい。
■ 第三部 個人的な覚書
いま再生されているのは全曲中のどの部分なのか――LPやテープでそれを確認するのは容易でなかったけれども、CDだと(トラック分けさえしてあれば)一目瞭然。デジタルならではのこの恩恵を最も受けている作品がアルプス交響曲ではなかろうか、と以前は思っていた。今はもうプレイヤーに表示されるトラックナンバーをいちいち見なくても、どこの場面かはほぼわかる。曲を聴きなれたことと自分の登山体験が増えたことによって、脳内映像付きの『ファンタジア』状態だというのがその理由。特定の山を描いたのでないとすれば、聴きながら想像したり思い出したりする光景や体験は、どの山のものでもいいわけだ。
まだまだ登山キャリアの乏しいワタクシではありますが、現時点ではこんなふうに聴いております。
1.夜 Nacht
山小屋では暗いうちに起床する。徹夜のクルマ移動で夜明け前に登山口へ着いたこともあった。空が白んでくるにつれ、周辺の山容が徐々に浮かび上がってくる。そういった雰囲気がよく出ていて、「ダフニスとクロエ」の夜明けと違いあくまでも写実性な描写だと感じる。
2.日の出 Sonnenaufgang
山頂で見る日の出は「御来光」だが、まだ登り始めていないので単に「日の出」となる。「太陽の動機」の曲調も、宗教的荘厳さよりは太陽の輝かしさをフルパワーで強調しているかのようだ。ところで御来光を拝んで拍手や万歳をする光景はヨーロッパ・アルプスでも見られるのだろうか。
3.登り道 Der Anstieg
低弦による「山登りの動機」やウルトラセブンな「岩壁の動機」は、登りはじめの高揚感をうまく表現した名旋律だ。北アルプスの燕岳に向かう合戦尾根や紅葉シーズンの谷川岳は登山道が渋滞していたので、こういう気分にはなれなかったけれど。舞台裏の金管によるファンファーレは、遠方での狩りの合図だろうか。燕岳の燕山荘では夕食後に小屋主がアルプホルンを演奏してくれたのだが、会場の食堂が混んでいて隣室で聴いたので、(高山病に苦しみつつ)この部分を連想した。
4.森への立ち入り Eintritt in den Wald
短調に転じることによって陽光が木々で遮られたことを表しているらしい。しかし夏山の場合は涼しくなるわけなので森はむしろ歓迎で、短調的な気分になったりはしない。高地でも暑い昨今の日本アルプスの気候が異常なのだろう。森、ということは高山帯よりもまだ下の位置ということになる。中央アルプスの森林限界は2500m、それがヨーロッパでは1800mだというから(これもWikipedia情報)さほどの高度でもない。全曲中この部分は比較的長く、鳥が啼いたりしたあとで編成が徐々に小さくなって、歩みもほとんど止まりかけてしまう。水分補給のための小休止を描写しているのだろうか。1時間歩いたら5分休めと登山の本には書いてあるのだ。
5.小川に沿っての歩み Wanderung neben dem Bache
渓流に沿って登るのは楽しい。福井県の夜叉ヶ池山に登った時は渡河点の橋が崩壊していたので靴を脱いで川に入ったら、雪渓を通って流れてきた水の冷たさに飛び上がった。そういうことは描かれていないものの、小川の流れの描写はなかなか涼しげで、ベートーヴェンの「田園」第2楽章とはまったく異なるのがおもしろい。
6.滝 Am Wasserfall
その清涼感が極まるのが、この滝の場面だ。最初に岩壁の動機を重ねることで滝の景観を表現している、というのは説明されてはじめて納得できたが、水が跳ねてきらめく様子は音を聴くだけですぐわかる。ちゃんと小川の滝らしい雰囲気になっていて、まったく見事な写実性だ。滝といえば高低差日本一を誇る立山の称名滝はすさまじい水量の大瀑布で、風にのって飛んでくる飛沫でびしょ濡れになってしまった。シュトラウスならどのように描写しただろうか。
7.幻影 Erscheinung
滝に見とれているうちに幻影が見えてくる――そういう経験はなく、ここは意味がよくわからない。新たに出てくる旋律は「感動の動機」または「アルプスの動機」とされるもの。あとで頂上の場面を盛り上げる重要素材なので、あえてここで頭出しをしたのかもしれない。
8.花咲く草原 Auf blumigen Wiesen
高山植物が咲き乱れる「お花畑」は、夏山登山の大いなる楽しみだ。木管等のポッ、ポッというフレーズが花のクローズアップ、低弦群のピチカートで花咲く草原の面的な景観を表現。なんという描写力かと唸ってしまう。とはいえ、「金のスプーンと銀のスプーンを音で描き分けられる」などと豪語したらしいシュトラウスも、アルペンローゼやエーデルワイスやエンツィアンといった花の種類までは表現しきれなかったようだ。かつてのワタシのように花には興味がなかったのだろうか。南アルプス悪沢岳のお花畑は、実に無粋な柵に囲われていた。鹿が喰い荒らすのだという。
9.山の牧場 Auf der Alm
鹿ではなく牛や羊が群れている山中の緑の牧場。実物を見たことはまだない。四阿山の登山口は牧場だったが、なぜか牛や馬の姿がまったく見られなかった。ここはカウベル、鳴き声、アルプホルンといった描写から想像してみるしかない。メータ指揮ロス・フィルによるマーラーの交響曲第3番のキングレコード国内盤が、ちょうどそんな光景のジャケット写真だった。
10.林で道に迷う Durch Dickicht und Gestrüpp auf Irrwegen
急に慌ただしい曲調になる。近場の低山で道に迷ったことがあって、そのときの軽いパニック感がまさにこういう気分だったことを思い出す。高山ともなればなおさらだろう。シュトラウス自身の体験が大いに反映されているようだ。
11.氷河 Auf dem Gletscher
日本に氷河は存在しないとされていたが、近年になって立山連峰のいくつかの雪渓が氷河に認定された。雪渓、といえば北アルプスの針ノ木雪渓をアイゼン装着で登ったときの爽快さと緊張感が強く印象に残っている。薄氷を踏み抜いて墜落したり斜面を滑落したりするのが雪渓での危険だが、トランペットで表現されているここでの危険はちょっとイメージが違うようだ。演奏上もトランペット奏者にとっての危険な難所だそうで、ケンペとロイヤル・フィルのテスタメント盤のライナーノートもそのことに言及している。本稿冒頭で触れたアルプスの映画では、氷河にまつわるエピソードが特に印象的だった。
12.危険な瞬間 Gefahrvolle Augenblicke
氷河に続いては岩壁での危険。本格的ロック・クライミングがあるようなバリエーション・ルートには当方無縁なので、一般登山道での経験でいえば、これはもう北アルプスの剱岳・別山尾根に止めをさす。垂直に近い岩壁をよじ登る「カニのたてばい」では、たまたま空いていて天候コンディションも良かったので危険は感じなかったが、雨で手足が滑ったり強風に煽られたり落石に見舞われたりするとたちまち深刻な状況に陥っただろう。ティンパニが聴こえてくるのはおそらく遠雷で、これが不安を増幅させる。
13.頂上にて Auf dem Gipfel
トロンボーンで盛り上がりかけたかと思うと、すぐまた静かになる。この流れの意味が分かったのは、北アルプスの常念岳など各地で何度もつらい経験をしたあとだった。頂上のように見えていた場所が実は「にせピーク」で、目指す頂上はまだ先だということがそこまで登って初めてわかる。このガッカリ感を表現しているのが哀愁を帯びたオーボエのフレーズなのだ(たぶん)。登山経験者ならではのリアリズムだと思う。そしていよいよ本物の頂上に立つ。山名や標高を記した標識前の記念撮影大会で大混雑、というケースが現実には多い。でも登山者が少ない南アルプスの赤石岳では、そこに至る長い道のりの苦労からくる達成感とあいまって、この部分のように荘厳なる気分を味わえた。
14.見えるもの Vision
頂上からの眺望にもいろいろある中、山々に囲まれた雄大きわまる大パノラマの感動――こればかりはやはり日本アルプスが格別だろう。頂上とは違うが尾根上にある船窪小屋からの展望は、剱岳から槍ヶ岳まで北アルプス・オールスターズで圧巻だった。というような「展望」を描いた部分だと思えばそう聴こえる一方で、もっと宗教的ななにか(=アルプス交響曲の別テーマ)も感じてしまう。山岳信仰が今も残る我が国では山頂に祠があることも多く、それは決して「別テーマ」ではないのだけれど。
15.霧が立ちのぼる Nebel steigen auf
山では霧(や雲)のことを「ガス」と呼ぶ。北アルプスの大天井岳や剱岳では、頂上に登ってしばらくすると下からガスが昇ってきて急になにも見えなくなった。登山者自身が霧の中に迷いこんだというよりは、そういう光景の描写なのだろう。ちなみに浅間山の噴火口付近(立入禁止エリア)に流れていたガスは毒ガスで、そちらに近づいた同行者はたちまち頭がクラクラしたそうだ。
16.しだいに日がかげる Die Sonne verdüstert sich allmählich
弱々しく奏でられる「太陽の動機」。山で天候が崩れはじめるときの不安な気分がよく出ている。
17.哀歌 Elegie
ここもちょっと意味不明。わざわざ哀しげな歌を歌わなくてもよさそうなものだが・・・。
18.嵐の前の静けさ Stille vor dem Sturm
遠雷が近づいてくる様子もリアルだが、聴きものは雨。最初はポツポツと、そして徐々に本降りになる。それ単独だと露骨で陳腐な表現になりかねないものを、写実的な雷や風と絶妙に重ねていくことで、効果的な音楽へと昇華させているように思う。北アルプスの蝶ヶ岳から徳澤園に下ったときが雨だった。嵐には至らず幸いだったが、濡れた木の根で足元が滑りまくるのには閉口した。
19.雷雨と嵐、下山 Gewitter und Sturm, Abstieg
白山では最終シャトルバスに遅れぬよう時間に追われる下山を余儀なくされたりしたものの、登山中にひどい嵐雨に遭遇した経験はまだない。おかげで、聴くべき要素がとりわけ多いこの部分では音楽に集中できる。まずは「下山の動機」、これは「登山の動機」を転回したものだというが、単純に音符を逆に配列したというわけでもないようだ。だがそれを分析をしている暇がないほど慌ただしい展開に入っていく。ここまでに出てきた動機を短縮・省略しながら逆順に出していくことで、急いで下山をしている様を描いている。最初はピンとこなかったけれども、聴きなれてくると本当にそのように聴こえてくるのがすごい。個人的にはA→B→C→という縦走が好みだが、それだとこの作曲技法を使えないのだから、A→B→Aのピストンルートでも仕方ないだろう。そして雨と雷が下山者に容赦なく襲いかかる。まずピカッと稲妻を光らせ、少し遅れて雷鳴を轟かせるという芸の細かさが憎い。さらにサンダーマシンとやらで表現される落雷、これが山ではたいへん危険だ。事前に天気予報を確認せずに登ったりするほうが悪いのだが、楽曲的には嵐が来ないと盛り上がらないので、これまた仕方ないのだった。
20.日没 Sonnenuntergang
「太陽の動機」の変奏によって日の入りを描く。いい雰囲気なのだが、急いで降りたのにすぐ日没というのでは、もし嵐が来なかったら暗くなる前に戻れなかったのではないか。小屋泊の予定だったのかどうか、登山計画書が気になるところだ。
21.終末 Ausklang
国内盤等ではたいてい「終末」と訳されているが、なんだかこの世の終わりみたいなので、「結末」「終わりに」「エピローグ」あたりでいいように思う。既出の動機がゆったりとした表情で出てくるという内容からして、今日の登山の回想場面らしい。すぶぬれになったはずだからゆったり温泉に浸かりながら、あるいはビールでも飲みながら、あれこれ思い出しているのかもしれない。下山後の愉しみは常にその二つなのだ! 」
22.夜 Nacht
最後の最後に、再び夜を迎える。盛り上がることなく静かに曲が終わり、シュトラウス作品によく見られる「尻すぼみ感」を抱いてしまうが、この作品の場合は一日の順序なのだからこの終結も当然といえば当然。最後まで徹底した描写音楽として幕を閉じ、同時にシュトラウスの純オーケストラ曲もこれが最後の作品となった。それにしてもよくぞこんな楽曲を作ってくれたものだと思う。本年(2015年)は完成・初演から100年のアニヴァーサリー・イヤー。これはもう本場のアルプスへ登りに行くしかない?
2015年9月27日掲載、An die MusikクラシックCD試聴記