ARCHIVE OF WHAT'S NEW ?
2000年8月

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CD8月31日:スカッとする音楽はないのか?

CDジャケットヴェルディ
歌劇「オテロ」
カラヤン指揮ウィーンフィル、ほか
録音:1961年5月、ウィーン・ゾフィエンザール
DECCA(輸入盤 411 618-2)

気象庁による3ヶ月予報では、9月以降も暑い日が続くといいます。昨年も暑かったのを記憶しています。10月の半ばまで半袖を着ていました。さすがに30度を超す気温が10月にも続くとは思えませんが、「汗ばむ陽気がこれからもしばらく続きます」などと言われると、がっくしきますね。そういうときこそスカッとした音楽を聴きたいものです。が、考えてみると、クラシック音楽って意外とスカッとしませんね。例えば、オペラではどうでしょうか? ワーグナーやR.シュトラウスは全くスカッとしません。「トリスタン」なぞ論外であります。あれは陶酔するものであって、溜飲を下げることができません。最もスカッとしそうなドラマティックなものはイタリア・オペラで、ヴェルディの「オテロ」だと思います。有名なカラヤン盤で「オテロ」を聴いていますと、やっぱりイタリア・オペラの方が声の扱いがダイナミックで華やかだなと思います。カラヤンはオケもバリバリ演奏させますし、声楽陣も最高の布陣でガンガン煽りまくりますから、大変イタリアっぽい雰囲気に満たされた格好いいCDができあがります。冒頭からドラマティック、強烈、迫力満点。カラヤンによるCDは馬鹿のひとつ覚えみたいに必ず名盤案内に登場しますが、ここまでかっこよく決められると、いかに名曲とはいえ、対抗するのは難しくなってきそうです。

さて、「これならスカッとするわい」となりそうですが、このCDを聴いても、必ずしも冒頭のかっこよさは最後まで続かないんですね。それはそうです。「オテロ」のストーリーはとてもジメジメしてます。大体、主人公が「女房が不義を犯しているのでは?」などと疑い始めるというオペラでは、スカッと爽やかというわけにはいきません。カラヤン、ウィーンフィル、デル・モナコなどが繰り広げる極彩色の音楽であってもやはり悲劇は悲劇ですから、スカッとしません。

オペラという大人が見て楽しむ世界だからかえってこういう状態になるのかもしれませんが、徹頭徹尾スカッとするような音楽はないのかしら? やはりクラシック音楽は暗い情念が渦巻く世界なんでしょうかねえ? 1年中暗い情念につきあっている私も相当暗い人間になってきますね。ううう、恐ろしい。


CD8月30日:納涼に最適?

CDジャケットシベリウスピアノ曲集
ピアノ演奏:田部京子
録音:1999年4月17-18日、マンチェスター
CHANDOS(輸入盤 CHAN 9833)

収録曲

CDショップでふと見かけたCD。私が好きなシベリウスのピアノ小品集です。正直に申しあげますと、私はこのCDを手にするまで、シベリウスのピアノ曲を聴いたことがありませんでした。シベリウスは作品番号100を超える大作曲家ですが、私が普段聴くのは交響曲と管弦楽曲で、ピアノ曲にどんなものがあるかさえ知らなかったのです。このCDでピアノを弾いているのが日本人の田部京子さんであることも手伝って、輸入盤のわりには少し高価だったのですが、このCDを買って聴いてみました。

この曲に収録されている曲はシベリウス中期以降のものばかりです。最も若い作品番号である作品75の「5つの小曲」が1914年に作曲されていますが、これは晦渋な交響曲である第4番(1911年作曲)と豪快な交響曲第5番(1915年作曲)の間に作曲されています。作品番号111の曲は、神秘的大交響詩「タピオラ」作品112(1926年作曲)の直前に書かれたことになります。交響曲作曲年次との関連を調べていきますと、いかにも神秘的な音楽を書いていたかのように思われるのですが、そうではないようです。大言壮語も華美さもありませんし、小品集の名にふさわしいピアノによる清楚な音楽が聴かれます。交響曲作曲家として森厳さを追求していたシベリウスも、こんな愛らしい曲を書いていたんですね。大きな特徴はあまりないのですが、暑っ苦しい夏場には一服の清涼剤になっています。我が家でこれを聴いていたところ、女房さんも気に入ってくれました。

さて、ここまで書いたところで、CHANDOSにひとつ注文したいことがあります。せっかく田部京子さんが弾いているのに、田部さんの顔写真はジャケットの裏にしか出てきません。ご覧のとおり、CDジャケットはものすごく恐い感じのシベリウスの写真があしらわれています。こんな恐いジャケットは、交響曲第7番あたりで使ってほしいところです(偏見かな?)。せっかくの小品集もこれではこわーい現代音楽の曲集だと思われてしまうんじゃないでしょうか。全くもったいない話だと思いませんか?


CD8月29日:Konzertplan 2000/2001

ホルンに囲まれてご満悦のペーター・ダム先生先日、ゼンパー・オパーから、シュターツカペレ・ドレスデンとオペラの公演予定を盛り込んだ2冊のヤールブーフ(独Jahrbuch、英Yearbook)が届きました。カペレのヤールブーフは昨年版よりずっとページ数が少なく、しかもカラー写真が激減していました(T_T)。昨年までは450周年記念事業の予算がまだ残っていたけど、今年はもう資金が払底したということでしょうか。でも、ダム先生のポートレイトがあったりして嬉しいですね(ダム先生は2001年1月9-11日、シノーポリ指揮でR.シュトラウスのホルン協奏曲を吹きます。メインプロは「英雄の生涯」)。

オペラも大量のレパートリーをこなします。今年最大の出し物はR.シュトラウスの「ばらの騎士」のようです。10月29日にプレミエが行われます。初演の地ですから、いい舞台が見られそうですね。ビシュコフの指揮ですが、行きたいなあ。

それはともかく、カペレのコンサート活動は今シーズンもとても活発に行われるようです。シノーポリはボンのベートーヴェン音楽祭で、ベートーヴェンの交響曲のうち、3番、4番、7番、8番、9番を振るなど、ドイツもので勝負に打って出たような観があります(ひえぇぇぇ、大丈夫だろうか?)。マーラーの交響曲第6番や第2番など、お得意の曲も積極的に公演にかけるようです。今のところそうした公演のCD化計画はないようですが、マーラーに関してはぜひ聴いてみたいものです(カペレのマーラー録音はほとんどないのです)。

客演にはハイティンクや名誉指揮者のデイヴィスが来るようです。ハイティンクは、モーツァルトの「プラハ」やブルックナーの交響曲第3番(2001年2月25-27日)、デイヴィスはモーツァルトのピアノ協奏曲第18番やハフナー・セレナーデ(9月10-12日)を振ることが決まっています。この方々はもはや常連ですね。一方、「おや」と思った客演指揮者はティーレマンです。彼は2001年4月1日から3日、ブラームスの交響曲第3番などを指揮します。最初はティーレマンに関する部分を読み飛ばしていたのですが、しばらくすると考え込みました。シノーポリの在任期間はまだまだあるとはいえ、当局がその後任を探すとしたら、こんなタイプなのではないかと私は思うのであります。ティーレマンは1959年に生まれたドイツ人の俊英であります。現在はベルリン・ドイツオペラの音楽総監督(1997年〜)という重責を担うほどの大器で、人気も実力も(多分。実は未聴なんです(T_T))十分あると思います。ティーレマンは若くしながらも、いわゆる伝統的なカペルマイスター(楽長)として売り込まれたと思います。昔どこかで読んだインタビュー記事でも、自分は伝統的なカペルマイスターの系譜にあると自負していたのを覚えています。「オペラもコンサートも両方こなし、人気もある。しかも若く、これからの成長株である」。こんな指揮者が客演とはいえ、カペレの指揮台に立つとなると、よけいな勘ぐりをしたくなるものです。まさか今後ブロムシュテットが戻ってくるわけではなし、他に名指揮者を探すとしたらこの人かな?と勝手に決めつけた私でした。いかがでしょう。


CD8月28日:どこまで許せる?

誰でも、一人で生活していたり、立派なリスニングルームをお持ちでない限り、家庭でクラシック音楽をかけるときには周囲に与える影響を考慮し、それなりに気を遣うでしょう。私もそうです。クラシック音楽といっても、いわゆる「ヒーリング・ミュージック」ばかりを聴いているわけではなく、かなりハードな音楽を聴く場合もありますから当然です。私の場合、結婚した当初はまだ女房さんに遠慮がありましたので、マーラーやブルックナー、R.シュトラウスを聴くことはほとんどありませんでした。マーラーの交響曲など、音響的にも激しいし、長大なのでしばらくはCDの購入さえ見合わせていました。しかし、日が経つにつれて私も図々しくなってきます。数年前からは第6番のような熱気ムンムンの激しい曲も何食わぬ顔でかけるようになりました(^^ゞ。ホームページを立ち上げた後は、チャンス!とばかりにアンプのボリュームを少し上げてしまいました。今や、「エレクトラ」も女房さんの許容範囲であります(そうかな?)。

しかし、和音を考えますと、R.シュトラウスやバルトークが限界かな、と思う時があります。我が家には1歳を過ぎたばかりの子供がおりますので、変な音楽を聴かせて精神に影響を与えてはまずいと考えるからであります。ですから、新ウィーン楽派(シェーンベルク、ベルク、ウェーベルン)のバリバリの12音主義音楽は恐ろしくて、とても子供には聴かせる気にはなりません。もしかしたら、12音主義の音楽を我が家のみずなが気に入ってしまうこともあるかもしれませんが、ちょっと危険だと思います。

子供に聴かせられる20世紀の音楽で、もうひとつの限界としては、アイブズが挙げられます。

CDジャケットアイブズ
ニューイングランドの3つの場所
マイケル・ティルソン・トーマス指揮ボストン響
録音:1970年
交響曲第4番
闇夜のセントラルパーク
小沢征爾指揮ボストン響
録音:1976年
DG(輸入盤 423 243-2)

アイブズ(1874-1954)の交響曲第4番(1916年作曲)はユニークな曲ですね。2群の管弦楽、合唱団を用いた傑作だと思います。壮大でも深刻でもありませんから、20世紀の音楽にしては、親近感を持てます。前衛的な曲なのですが、第3楽章を聴くと、アイブズはその気になりさえすれば、かなりメロウで抒情的な歌える旋律を書けたのではないかと思われます。アイブズはその才能があったにもかかわらず、あえて前衛に走った作曲家なのでしょう。第1楽章から第2楽章は、少し不安を感じさせますので戸惑うこともあるのですが、全体としてみれば、「これは聴いていられない」というひどい音響が続くわけではなく、けっこう茶目っ気があります。どこからともなく聞こえてくる町の喧噪が音楽に取り入れられているからでしょう。賛美歌の一節まで入っています。「闇夜のセントラル・パーク」は最初はひたすら恐い音楽で、周囲がゾンビーだらけになったような薄ら寒さです。ところが、「うっ、これは子供に聴かせられないな」と思っていると、ジャズ風の音楽が挿入されたりして俄然楽しくなってきます。全く油断も隙もない作曲家であります。


CD8月27日:本日は3部構成です。

その1:「私のカペレ」に投稿をいただきました。第4回、西間木さんの文章をご紹介します。

その2:リンクのページに「私は好きだ The Cleveland Orchestra」を追加しました。

私も大好きなセル&クリーブランド管を扱ったページ。どこかにこんなページがないかな、と思っていたが、やはりちゃんとしたページを作ってくれるファンはいるもの。「名曲名盤決定盤」では一般的なクラシックCD評があり、これも膨大な量になっている。カペレのペーター・ダム先生も登場しているぞ。私のページのように毎日更新されているので、ぜひ巡回コースに加えよう!

その3:新PC

昨日、女房さんが「新しいPCを買ってもよい」と言ってくれましたので、早速今日注文しました\(^o^)/。エプソンダイレクトにアクセスして、自分でスペックを選び、見積書を見て注文。簡単になりましたね。早ければ次の土曜日には我が家に着くでしょう。

今度のPCは本体と、キーボードだけの組み合わせです。ディスプレイは変える必要がないので、そのまま使います。本体のスペックはすごいですよ。OFFICE 2000をプリインストール、CPUは700MHz、メモリーは128MB、CD-ROMは40倍速、ハードディスク容量は20.5GB! これに109日本語キーボードとホイール付きマウスを含め、さらに消費税と送料を込みにして126,525円であります。今使っているPCのCPUは167MHzですから、差は歴然ですね。でも、あと半年もすれば、これと同じPCが6万円くらいで買えるかもしれません。こんな状況ではハードメーカーは儲からなくて泣いているんでしょうね。ユーザーの私は低価格化の恩恵を被るわけですが、少し気の毒であります。

というわけで、来週は多分PCデータの入れ替え作業を行います。夏バテ特別進行は8月中だけにしようかと思ったのですが、週末の作業が不安ですので、もう少し延長させて下さい。最悪あと2週間ほど特別進行したいと思います。何卒ご容赦下さいますよう、お願い申しあげますm(__)m。


CD8月26日:新ゲストブック

本日朝、新ゲストブックを導入しました。ホームページオーナーがURLを記入できるほか、最も気になっていた2000年問題が解決されています。旧ゲストブックでは1999年から2000年になる際、年号が「100」と表示されていたのでした。旧ゲストブックには多数の読者から、力作が寄せられていましたので、全部テキストファイルにして読めるようにしてあります。An die Musikの歴史を知るには旧ゲストブックにお立ち寄り下さい。新ゲストブックへのご参加もお願いします。


CD8月25日:フィボナッチの数列

またまたバルトーク関連の話です。バルトークは自作の中で、形式や和声の面で黄金分割を利用したことがよく知られています。さらに進んで、バルトークは数列まで利用していたといいます。数列ですよ! 高校の時にさんざんつき合わされたあの数列であります。数学的手法をこれほど具体的に自作に用いた作曲家は珍しいのではないでしょうか。バルトークが用いた数列はフィボナッチ数列といいます。あまり馴染みのない数列名だと思いますので、解説書から抜き書きしてご紹介いたしましょう。出典は、エルネ・レンドヴァイ著「バルトークの作曲技法」(全音楽譜出版社、谷本一之訳)であります。

<アレグロ・バルバロ>を弾いた人は、Fis mollの和音の連打が8小節,5小節、3小節さらに13小節といった小節の単位で現れるのに悩まされたことであろう。この3:5:8:13という比例関係は、自然数で近似的に表される黄金比による数列、いわゆる”フィボナッチの数列(Fibonacci)”を含んでいる。

この数列は、各項は先行する2つの項の和に等しいという特徴をもっている。2,3,5,8,13,24,34,55,89,.......の数列は項が後になるほど、連続する2項の比は無理数の黄金指数に近づいてゆく(55の黄金指数は34、89の黄金指数は55)。

p.34

この記述を読んで皆さんどう思われました?「何でこんな数列が音楽に必要なんだ?」と思いませんでしたか? 音楽理論は物理的、数学的理論が基礎としてあると私はある程度認識はしていますが、これを見たとき、「何か変だ」と思わずにはいられませんでした。バルトーク先生、一体何を考えていたんでしょうね。

ところが、「バルトークの作曲技法」を読んでいきますと、驚くべき記述に出会います。何とこの数列は自然の法則に基づいているのだそうな。再度引用します。

実際、フィボナッチの数列は自然界の成長の法則なのである。わかりやすい例をとってみよう。もし木の枝が1年で新しい枝を1本出すと、2年後には新しい枝が2倍になり、以下年毎に枝は次のような割合で増えてゆく。

2,3,5,8,13,21,34,.....、

バルトークはかつて”作曲は自然に規範をあおぐものだ”と述べた。バルトークが実際にこういった規則性を見出したのは、自然の現象の中からであった。彼は絶えず植物や昆虫、鉱物の標本を蒐め、コレクションを増やしていた。また好きな植物はひまわりであるとも言っていたし、机の上に松かさを置いて見るのを心から楽しんでいたのである。バルトークによれば、”民謡もまた1つの自然の現象であり、その構成は花や動物等の生きた有機体と同じように、自然に発展したもの(論文”民謡の源泉について”、1925年)”とされるのである。

これが、バルトークの音楽の形式世界が最も直接的に自然の形態や生成を思い起こさせる原因なのである。

p.36

うーん。やっぱりバルトーク先生、普通ではありませんね。自然の法則を音楽に取り入れたのであって、数学をそのまま取り入れたわけではなかったんですね。素人の浅知恵で、「何か変だ」などと言ってはいけないのでした。

ただし、私は頭が良くないのでまだ謎が残ります。著者は「わかりやすい例をとってみよう」と書いていますが、枝の数は本当にこのように増えるのでしょうか? 夫婦で考えてもわかりません。40歳近くになってなお数列に悩まされる私でした。なぜこのように枝が増えるのか、わかる方、ぜひ教えて下さい!


CD8月24日:バルトーク

昨日の続きです。「弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽」で、私の好きな演奏には以下のドラティ盤があります。

CDジャケットバルトーク
バレエ音楽「木製の王子」(録音:1964年6月)
弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽(録音:1960年6月)
アンタル・ドラティ指揮ロンドン響
MERCURY(国内盤 434 357-2)

このCDに聴く「弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽」はとても変わっています。どこが違うかというと、聴いていても寒くならないのであります。ドラティはバルトークの直門ですから、師の音楽に特別な愛情を持っていたのでしょう。いかにも無表情、冷血に開始される第1楽章でも人間の体温を感じさせます。第2楽章、第4楽章はドラティらしい見事な棒で、もともと隙がなく作られたバルトークの傑作が生き生きとそして熱烈に演奏されます。ライナー指揮シカゴ響でもショルティ指揮シカゴ響でも演奏は卓越しているのですが、ドラティ盤に見られる熱狂はあまりありません。ライナー盤を聴いても、ショルティ盤を聴いてもなお「弦チェレ」に馴染めない方がおられましたら、このCDをぜひお薦めします。国内盤もありますし、値段は1,500円です。買っても損はないでしょう。

しかも、このCDにはバレエ音楽「木製の王子」全曲が収録されていますから、なおさらお買い得であります。バルトークの作風は時代を追う毎に厳しさを増し、無駄がなくなってきますが、その分息苦しいところもあります。バルトークの絶頂期1936年に作曲された「弦チェレ」も、最初取っつき難いのはそのためだと私は考えています。ところが、初期の頃のバルトークは少し様子が違います。1916年に作曲された「木製の王子」は濃厚かつロマンチックな曲です。後期ロマン派風ですね。ワーグナーの影響から完全に抜け切れていないところがご愛嬌ですが、打楽器の巧みな使い方に既に晩年のバルトークが顔を覗かせています(打楽器の動きがユーモラスな「第4の踊り」を聴いて女房さんも喜んでいました)。「木製の王子」は約50分ほどのバレエです。バルトークが選んだ話ですから、とても風変わりなのですが、面白いですよ。ドラティの指揮はこれまた熱が入っており、全曲をまず飽きることなく堪能できるでしょう。録音もいいですし。そういえば、ジャケットの絵もかわいいですねo(^o^)o。


CD8月23日:夏の夜に聴く恐い音楽

7月下旬の猛烈な暑さはなくなりましたが、まだ暑いですね。暑い時にクラシックを聴くのであれば、背筋に寒気を覚えるような曲に限ります(^^ゞ。私の頭に真っ先に浮かんだのはバルトークの「弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽」でした。

CDジャケットバルトーク
管弦楽のための協奏曲
弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽
フリッツ・ライナー指揮シカゴ響
録音:1955年
BMG(国内盤 BVCC5045)

この曲は、バルトークの傑作として名高いのですが、私は長らく好きになれませんでした。なぜって、とても恐いからであります。寒いのを通り越して恐いのであります。第1楽章からお化けが出てきそうです。第1楽章後半にチェレスタが入ってくるところは思わず悪寒が走るほどです。神秘的ではあるのですが...。私は20代の頃までは、「バルトークさん、人を楽しませるつもりがあったのかな?」と真剣に考えていたものです。バルトークは独自の音楽理論を打ち立てて、それに従いつつこの大作を書いたわけですが、私は面白さより気味悪さばかり感じていました。

ところが、そういう曲をつい聴きたくなるのは人情というものです。何度も聴いているうちにバルトークの語法に親しんでしまい、「おっ、この曲はイカシテイルぞ」などと思い始めるのであります。特に打楽器の使い方が面白く、千変万化する表情を聴き取ってしまうのであります。そうこうしていると、第4楽章に第1楽章の主題が回帰してくるくだりに痺れるようになってきます。これはもう危険な兆候です。バルトークにはまったのであります。寒さを感じる曲ではあるのですが、第4楽章まで聴き終わった時、私は汗だく。かえって興奮してしまいました。こんなことではいけません。もっと寒い音楽は私のCD棚にはないのでしょうか?

なお、名盤の誉れ高いライナー盤は古い録音ですが、怖さは抜群。寒さも抜群。しかも聴いた後にかならず身体が火照る、とんでもない代物です。要注意ですね。


CD8月22日:複雑な気持ち

1年以上前に買ったCDにこんなものがあります。

CDジャケットブラームス
交響曲全曲及び「悲劇的序曲」
トーマス・ザンデルリンク指揮フィルハーモニア管
録音:1996年9月1/10日、ヘンリーウッド・ホール
DARPRO(輸入盤 RS 953-0041)

謎の紙ジャケットCDであります。ある日、秋葉原に立ち寄った際、このCDが売られているのを発見しました。指揮者は「ザンデルリンク」と書いてありました。「おおお、これは買わねば!」と思ってもう一度ジャケットをよく見ると、クルト・ザンデルリンクではなく、息子のトーマスさんの指揮ではないですか。値段も特に安くはなかったので、その際は購入を見送りました。その在庫分は完売したようで、すぐ見かけなくなりました。その後、「お待たせしました。再入荷です!」という表示とともに、またこのCDが店頭に並びました。今度は1,200円でした。4枚組で1,200円ですよ。しかもフィルハーモニア管の演奏で、ちゃんとしたデジタル最新録音です。

「まずこれ以上は安くならないだろう」と思った私は、内容を期待しないことにしてこのCDをレジに持っていきました。しかし、ブラームスの交響曲全集ともなると、おいそれと聴き始める気にもなれず、CD棚に突っ込まれたまま1年以上経過してしまったのです。廉価すぎることもあり、つい軽く見たと言えなくもありません。ところが、先週末にゆっくり聴いてみると、なかなかいいんです。私は第4番、第1番、第2番、第3番の順で聴きましたが、どれも立派な出来です。人によって好みはあると思いますが、現代の指揮者とも思えない重厚長大型演奏です。特に第1番は巨匠風の演奏で、その重厚さに驚きます。ゆったりしたテンポを設定し、明るい音色のフィルハーモニア管から実に暗い音色を引き出すあたり、凄みさえ感じさせます。こうした演奏スタイルは、何となくアナクロっぽい気もしますが、私はアナクロ大好き人間ですのでOKであります。

トーマス・ザンデルリンクは1942年生まれ。すなわち録音当時54歳です。年齢的には中堅どころですが、父クルト・ザンデルリンクは1912年生まれで、第1回目のブラームス全集は59歳から60歳の時にシュターツカペレ・ドレスデンと録音しています。父の第1回録音が生真面目な、悪く言えば無機的ともいえる演奏になっているのに対し、子トーマスがかなり自己主張した演奏を行っていることは注目に値します。もしかしたら父を超える指揮者になるかもしれませんね。

ただし、釈然としないのはこのCDの値段です。消費者としての立場からは安ければ安いほどいいのですが、4枚組で1,200円というのはちょっと行き過ぎではないでしょうか? これ以上安くはならないだろうと思っていたのに、この前980円で売られているのを目撃してしまいました。私が知らないレーベルによる発売ですから、特殊な流通経路があったのかもしれませんが、安すぎやしませんか? あまりに安すぎると、最初から演奏に期待が持てません(私だけでしょうか?)。CDが投げ売り状態になるのを目にするにつけ、クラシック音楽が商業ベースの波に飲み込まれ、荒廃していくような気がしてなりません。この立派な演奏のCDを手にして、複雑な気持ちになり、しばし考え込んだ私でした。

なお、録音は残響過多。良く言えばしっとりとした感じが出ていますが、第4番などお風呂場で聴いているよう。その録音を楽しむのも一興でしょうか。


CD8月21日:眠る

昨日の続きです。私は、ホフナング音楽祭におけるハイドンの「驚愕」を聴いて、心臓が止まるほど驚いたのですが、「驚愕」初演時のショックは大変なものだったといいます。私が所有する、とあるCDの解説で筆者は、当時コンサートの会場で眠りこける聴取が多かったことを述べた後、こう書いています。

...そこでハイドンは、通常おだやかな音楽の多い第2楽章を弱音器付きのささやくような音量で開始し、16小節目で弱音器をはずした全オーケストラに「ドン」と鳴らさせたのである。特にハイドンはティンパニ奏者に思い切り打ち込むようにと指示を与え、その望みは完全に実現された。眠っていた聴衆は飛び起きて事態を把みえないまま周囲を見回し、失神した女性もいたという。

解説 武石みどりさん

「失神した女性もいた」というのはおそらく本当のことなんでしょう。現代に生き、「驚愕」がどんな音楽であるかを知っているはずの私でさえ、肝をつぶすほどの衝撃を受けることがあるわけですから、古典派の時代では雷が落ちたような騒ぎになったに違いありません。

ところで、ハイドン時代における居眠り問題ですが、この話を読むたび、私は結構ニンマリしてしまいます。いくら同時代の人気作曲家の音楽だとはいえ、良い音楽を聴いてこっくりしてしまうのは人間の生理上やむを得ないのではないかと考えているからです。眠くなるのは、退屈である場合だけではなく、音楽の波長が身体にぴったり合って気持ちよくなるからではないでしょうか(全く逆だったりして?)。恥ずかしい話ですが、私だってクラシック音楽を聴いてぐうぐう寝てしまう時があります。例えば、上記ハイドンの解説書はアーノンクールがコンセルトヘボウ管を指揮したCDについていたものです(TELDEC、WPCS-21005)。このCDには、ハイドンの交響曲第94番「驚愕」と第101番「時計」が収録されているのですが、あろうことか、私はアーノンクールの攻撃的かつ先鋭なハイドンを耳にしながら熟睡モードに入ったのであります…(__).,oO。「う...」と思ってふと目を覚ましたら、「時計」の第4楽章が大音量で激烈に演奏されていたのであります。本当に恥ずかしいというか、情けないというか...。でも、そうした経験は皆様にもありませんか? 難しい顔をして聴き始めたワーグナーやR.シュトラウスのオペラの途中で眠りこけたことはありませんか?

音楽を聴いては眠ることは、意外と贅沢なことだと私は思います。CDを聴いている場合にはCD代というコストを支払っていますし、コンサートの場合は高い入場料を支払っているわけです。高い料金を払って眠りにつくというのは、これ以上ないほどの贅沢だと思いませんか? コンサートで寝ている人がいると、よほど鼾がうるさい人ならともかく、何だか( ̄ー ̄) ニヤリとしてしまうのは私だけでしょうか?


CD8月20日:音楽の冗談

たまにはふざけたCDでも聴いてみましょう。ご存知ホフナング音楽祭のCDなどはどうでしょうか?

CDジャケットThe Hoffnung Festival of Music
指揮者多数
フィルハーモニア管
録音:1988年2月12-13日、ロイヤル・フェスティヴァル・ホールにおけるライブ
DECCA(輸入盤 444 921-2)

ホフヌング音楽祭はユニークな才能を持ったジェラルド・ホフナング(1925-59)が企画した音楽祭です。第1回目の音楽祭は1956年に行われています。しかめっ面したクラシック音楽に笑いをもたらす奇想天外な演出・編曲が呼び物で、聴衆(観衆?)は毎回お腹をよじらせるほど笑い転げて家路についたことでしょう。

この2枚組CDには、1988年の音楽祭の模様が収録されています。どうやら視覚的にも聴衆を楽しませていた様子がよく分かります。というのは、音楽だけ聴いていると何でもないところで笑いが生じているからです。音だけのCDだけではこの音楽祭の面白さを伝えきれないのでしょう。しかし音だけでも相当イケテます。

例えば、1枚目には「レオノーレ序曲第4番」が収録されています。ベートーヴェンはオペラ「フィデリオ」のために序曲を全部で4つ作曲しましたが、「レオノーレ序曲」は第3番までしかありません。この「第4番」は最も有名な「第3番」を下敷きにした編曲ものであります。冒頭、異常なほど神妙に開始したかと思いきや、突然の大音響で聴衆の度肝を抜いたり、同じフレーズが延々と繰り返されて音楽を進行させなかったり、様々な手法を使って笑いを取っています。もっと面白いのは2枚目にあるハイドンの交響曲第94番「驚愕」です。これはこのCDの白眉でしょう。私は随分前にこのCDを聴いて演奏内容を知っているはずなのですが、久しぶりだったため、この曲に仕掛けに見事に引っかかりました。例の眠りを誘うアンダンテのメロディーが出てきて、原曲と同じタイミングで一発ぶちかますのですが、その音量が途方もなく、親子三人とも肝をつぶしてしまいました(みずなも目を丸くしていました(◎-◎))。心臓に悪いです。ところが、この演奏、大きな音で勝負するのはその部分だけで、あとは編曲の妙で聴衆を楽しませています。わざと音程をはずしたり、全く別の音楽が挿入されたりします。ステージはさぞかし微笑ましいものだったことでしょう。困るのは、あまりこのCDを聴きすぎると、原曲を忘れそうになることです。編曲には出来不出来がありますが、ハイドンの「驚愕」のように上手にできている場合、原曲のイメージを歪めかねません。危険であります。

なお、この音楽祭の模様はレーザーディスクでも見られるそうです。ご覧になった方、ぜひ感想をお寄せ下さい。


CD8月18日:わがラテンの魂

「わがラテンの魂」。何だか興味をそそられるタイトルですね。私は東北人ですから、ラテンとは縁もゆかりもありませんが、「ラテン」という言葉だけでぐっと胸に来るものがあります。これは一体どうしたことでしょうか。不思議なものです。実際、下記のようなCDを聴いていると、ラテンに思わず引き込まれますね。

CDジャケットわがラテンの魂
テノール:ドミンゴ
録音:1993年?
EMI(輸入盤 0777 7 54878 2 4)

ドミンゴは3大テノールの一角として押しも押されもせぬ偉大な存在です。オペラのレパートリーは膨大で、どんな役も見事に、しかも洗練されたスタイルでこなしてしまうという超人であり、売れっ子です。ですから、一頃はオペラのCDにはドミンゴの名前が氾濫していたように記憶しています。そのドミンゴはオペラだけの人ではなかったようですね。ドミンゴは1941年にスペインで生まれ、メキシコで育ちました。ラテンの音楽はドミンゴに染みついているようです。「わがラテンの魂」はメキシコからブエノスアイレスまでのラテンのメロディーをふんだんに盛り込んだ傑作CDであります。

このCDには全16曲が収録されていますが、どれも名曲で、人間の喜怒哀楽がそれぞれの歌に感じられます。踊れそうな曲があったかと思えば、まるで演歌調の曲もあり、ラテン音楽のすばらしさを味わわせてくれます。お酒を飲みながらこのCDを聴いたら、ほろりとしてしまうこと請け合いです。また、近現代のハードなクラシック音楽からは到底聞くことのできない歌心に、痺れてしまいます。このCDを聴くと、「音楽っていいなあ。いい音楽を聴いたなあ」と心から思います。こうしたポピュラーな曲には、オペラとはまた違った味があるものです。EMIもなかなかいいCDを作ります。私はいつもEMIを貶してばかりいますが、こんな企画力があったんですね。もしかしたらドミンゴ本人がこのCDの企画を思い立ったのかもしれません。そうでもなければ、こうまで切々とした歌を聴かせることはできないでしょう。それほどドミンゴの歌ははまっています。夏休みにハードなクラシック音楽ばかりを聴いて、家族に顰蹙を買っているお父さん方にお薦めのCDであります。

なお、このCDが成功したからだと思いますが、EMIとドミンゴは「わがラテンの魂 2」を2,3年前に発売しました。出来映えは第1作が圧倒的に上です。ドミンゴはこの1枚に思いの丈を込め切ったのかもしれませんね。


CD8月17日:オペラを聴く

あまりCD試聴記等で取りあげていないのですが、私もオペラが好きですo(^o^)o。イタリアオペラもドイツオペラも両方好きです。オペラは演出家が趣向を凝らした舞台が売り物ですから、舞台を見ることなにしに、CDだけで鑑賞するのではオペラをきちんと楽しんだとは言えません。それでも音楽だけで聴き手を陶酔させてくれるオペラは数知れませんね。夏バテではありますが、今日はオペラを聴いてみましょう。

CDジャケットボイト
歌劇「メフィストフェレ」
ムーティ指揮ミラノ・スカラ座管及び合唱団、ほか
録音:1995年3月3,5,8日 ミラノ・スカラ座におけるライブ
BMG(輸入盤 09026 68284 2)

アリーゴ・ボイト(1842-1918)のオペラ「メフィストフェレ」はドイツの文豪ゲーテによる戯曲「ファウスト」からインスピレーションを得て作曲された大作です。初演はミラノ・スカラ座で1868年3月5日に作曲家自身の指揮によって行われました。劇場に入れなかった群衆は、この大作の出来具合を知ろうとして、外で演奏が終わるまで待っていたそうです。期待された作品だったわけですね。が、初演時の評判は惨憺たるものだったようです。解説書によれば、劇場内ではブーイングの嵐が起き、外では群衆による論争や喧嘩が始まったとか。そのため、数日後に予定されていた再演は、警察の介入によって中止されたそうです。ボイトは1875年にはオペラに改訂を施し、何とか成功を掴みますが、初演時の不首尾に悩まされ、以後、オペラの作曲自体には注力しなくなります。しかし、台本作家として優れた才能を持つボイトは、後、ヴェルディにオペラ「オテロ」及び「ファルスタッフ」の台本を提供します。イタリアオペラの最高傑作ともいうべきこの二つのオペラにはボイトの名前がしっかり刻印されています。

ここまで書くと、ボイトには作曲家としての才能がなかったのかと思ってしまいますが、「メフィストフェレ」はCDで聴いてもすごいオペラですね。全4幕の前後にプロローグ及びエピローグを置くという特異な構成である上、ワーグナーばりの大管弦楽を使って荘厳な雰囲気を醸し出しています。CDをかけると、いきなり巨大な音響による天上でのプロローグが始まります。大管弦楽のおどろおどろしい音楽をバックにした、メフィストの独白・合唱に釘付けです。これはいわゆる一般的なオペラではありませんね。第1幕以降はやっとオペラらしくなりますが、全体を覆う悪魔的雰囲気が独特の香りを放っています。エピローグが終わるや、その壮大さにしばし呆然とします。可愛らしいアリアや切々としたアリアはありません(と言い切っていいかな? 不安(^^ゞ)。これだけ破天荒なスタイルでオペラを書いたら、ブーイングが起きても致し方ありません。が、全曲を通して聴くと、その迫力に打ちのめされますね。これだけのオペラであれば聴き応え満点です。

このオペラはその後ずっと忘れ去られていたそうですが、1995年にムーティがスカラ座で再演を果たしました。ムーティは上演に当たって大変な力の入れようだったと言います。上演を行った日付からして初演が行われた日と同じ3月5日です。味なことをするものです。

ところで、この曲の録音ですが、全曲盤ではムーティ盤の他、数種類出ています(EMI、ルーデル指揮ロンドン響など)。私が昔から気になっているのは、その全曲盤ではなく、バーンスタインが録音した「プロローグ」であります。LP時代にはリストの「ファウスト交響曲」とカップリングされていました。音楽評論家たちの評判もまずまずだったと思います。「ファウスト交響曲」の方はDGのOriginalsシリーズで復刻されましたが、どういうわけかボイトの「プロローグ」は割愛されています。「ファウスト交響曲」がCD化される際には、同時にCD化されるのを楽しみにしていたのですが...。もしかしたらどこかで密かにCD化されているのかもしれませんが、一体どこに消えてしまったんでしょうね。


CD8月16日:音楽は知識か

恥ずかしい話ですが、私もクラシック音楽をBGMとして聴く時があります。数日前は女房さんと紅茶を飲みながら、ビゼーの「アルルの女」組曲を聴いておりました。今さら「アルルの女」でもあるまいに、と思う読者もおられるでしょうが、やはり名曲です。第2組曲のフルートによる有名なメヌエットなど、何回聴いたか分からないほどなのに、やはり「ああ、音楽ってきれいだな」と心から思わずにはいられません。

しかし、この曲は中学校の音楽の時間に教材として使われたため、あまりいい想い出がありません。私が通った中学校の音楽教師は「アルルの女」を知識として教えたがりました。「試験に出しますよ」という決めの一言があると、音楽の授業は音楽を楽しむ時間ではなくなり、知識を習得する時間になってしまいました。例えば、「アルルの女」に関して言えば、知識としては以下の項目を覚えねばなりませんでした。

どうです? こんな項目が並ぶと、中学校の授業を思い出してしまいませんか? はっきり言ってバリバリのクラシックヲタクであるこのページ読者のあなたでも、中間試験にこの項目を全て答えられなかったりするのではないでしょうか? 私だって怪しいです(^^ゞ。でも、クラシック音楽を聴き続けてきて、このような知識があって良かった、などと思ったことは一度もありません。はっきり言いまして、ドーデの戯曲が原作であることなど、どうでもいいのであります(ちょっと寒いかな?)。ビゼーの「アルルの女」はまさに天才の音楽です。信じがたいほど美しい音楽ですから、わざわざ知識を詰め込まなくても楽しめるのです。もしこの曲が気に入れば、その時に初めて知識欲が出てきて、ドーデやら、ギローやらの名前を覚えるものであります(さらに一歩進んで、第2組曲の「メヌエット」がビゼーのオペラ「美しいパースの娘」第3幕から取られたことも)。

中学校では「これを教えなければいけない」という指導要領があるためか、音楽を楽しいものとしては教えてくれませんでした。私も音楽の時間は嫌いでした。音楽の授業が知識の詰め込みであることが明らかになったので、高校に入ると迷わずに音楽の授業を選択からはずし、美術を選びました。そんな私であるにもかかわらず、その後、クラシック音楽が好きになり、ホームページまで作るようになるわけですから世の中はおかしなものです。

何度も書きますが、私をクラシックファンにしたのは、15歳にしてウィーンフィルヲタクであったフォルカー氏でした。彼は子供のくせにスーパーヲタクでしたから、音楽を語る口吻が違います。好きなものを私に教えるために、本当に面白そうにクラシック音楽を語って聞かせるのであります。彼のお陰で、音楽の授業では全く興味を持つに至らなかったクラシック音楽が急に身近になり、いつのまにかクラシック音楽を聴き始めてしまったのであります。そういう意味で、彼こそ私の音楽の教師であります。そういえば、彼のような熱狂的なクラシック音楽ファンが音楽の教師にならなかったことも不思議であります。アマチュアだからこそ熱烈な音楽ファンになれるのかもしれませんが、音楽の先生が私の身の回りにはおられないので真相は不明です。音楽の先生方からの言い分も聞いてみたいものですね。


CD8月15日:夏向きの音楽

暑い日が続きますね。夏休みを取ってゆっくり音楽を楽しまれている方も多いでしょう。各地のBBSを覗いておりますと、夏休みも重厚なクラシック音楽を聴き続けておられる方が多いようですが、皆様もそうでしょうか? 最も重厚長大な音楽であるワーグナーの楽劇が、真夏のバイロイトで演奏されるわけですから、暑くたって、湿度が高くたって、重厚な音楽を楽しめることには変わりありません。が、「もう少し夏向きの曲はないのか?」と思ったりしませんか? え?「そんな曲などあるわけない?」 いえ、ありますよ。例えばこんな曲はどうでしょうか。

CDジャケットダンディ
フランスの山人の歌による交響曲 作品25
セルジュ・ボド指揮パリ管
ピアノ演奏:アルド・チッコリーニ
録音:1975年6月
サン・サーンス
ワルツ形式のエチュード 作品52-6
6つのエチュード(左手のための) 作品135
ピアノ演奏:アルド・チッコリーニ
録音:1971年1,2月
EMI(国内盤 TOCE-11404)

フランスの作曲家ダンディ(1851-1931)の「フランスの山人の歌による交響曲」(作曲:1886年)の録音は、大きなCDショップに行っても数種類しか見あたりません。少なくとも日本では目立った存在ではなさそうです。が、この曲はまさに夏向きの名曲ですね。交響曲というタイトルが付いていますから、ある程度壮大ではありますが、ドイツ音楽のような仰々しさはありません。むしろ、ピアノが縦横無尽に駆け巡っているので暑苦しさよりも清澄さが際立っています。ピアノには大変高度な技術が要求されているといいますが、おそらくそうでしょう。交響曲の中でオケの音量に負けないように響き、しかも清澄さを失わないように活躍するのですから。そのピアノに加え、この曲で活躍するのはイングリッシュ・ホルンであります。冒頭に現れる民謡風の美しくも懐かしさを感じさせるイングリッシュ・ホルンによる旋律は、ダンディが故郷であるフランス中部のセヴェンヌ地方で採取したといわれています。夏場の牧場かどこかで風に乗って流れてくる音楽があるとしたら、きっとこんな音楽でしょう。とてもすばらしい旋律です。そののどかな主題が交響曲の主題となっているうえ、ダンディは恩師フランクの循環手法を用いて全3楽章の中にその関連テーマをちりばめることに成功していますから、最後まで音楽の気分はのどかであります(第3楽章はそうでもないかな?)。

この曲の演奏にはミュンシュのように交響曲としての厳めしさを出すことに努めた録音もありますが、私はセルジュ・ボドのように爽やかで軽みのある演奏が大好きです。こんな清澄で爽やかな曲を聴いていたら、夏場の音楽鑑賞もとても楽しくなりますね。なかなかこういった音楽は見あたらないものです。余談ですが、ダンディの管弦楽曲「山の夏の日」作品61(作曲1905年)はタイトルほどに夏向きではありません。いかなフランク門下の作曲家としても「フランスの山人の歌による交響曲」のような名曲をいくつも作ることはできなかったのかもしれませんね。

さて、皆様にも夏場にお薦めの音楽はありますか?


CD8月14日:室内楽的なブルックナー?

しばらく前に発売されて話題を呼んだケンペ指揮チューリッヒ・トーンハレ管のブルックナー。皆様はどう聴かれましたか?

CDジャケットブルックナー
交響曲第8番ハ短調
ケンペ指揮チューリッヒ・トーンハレ管
録音:1971年11月12,13日
SOMM Celeste(輸入盤 SOMMCD 016-2)

この録音はかつてLPで登場したきり長い間CD化されなかった幻の名盤でした。ファンの間ではCD化が鶴首されていましたので、今年上半期の話題盤の一つになったはずです。あまりに待たされた後のCD化でしたので、私の知り合いの中には、「ちょっと期待はずれだった...」という人まで現れましたが、そういう方は期待が大きすぎたのでしょうね。私はケンペの芸風を伝える面白い演奏だと思っています。ケンペはこの大曲を大まかに把握して、とても太い線で描き切っています。楷書風でありながら、豪快な線が印象的です。特に、金管楽器があまり洗練されておらず、ゴツゴツしていますから、いかにも野暮ったい(ブルックナーに関しては褒め言葉です)野人的感じが出ていて好感が持てました。大音量で聴けば、重厚ですし、かなりの迫力があります。

ところで、この録音についての批評を私は20年前に読んだことがあります。私の記憶に間違いがなければ、「室内楽的」とされていたはずなのです。その一文を読んで以来、私はこのブルックナーを一度は聴いてみたいものだと思っていたのですが、どう聴いても、何度聴いても室内楽的には聞こえてきません(^^ゞ。聴き手の感受性は千差万別ですから、もしかしたら、ケンペ盤を聴いて「これは室内楽的だ!」と快哉を叫ぶ人もいるかもしれません。皆様、いかがでしょうか?

そこで私はふと考えてみたのですが、そもそも「室内楽的なブルックナー」は存在するのでしょうか? 今回、このCDこそきっとそうなのだと思って聴き始めた私は、全く予想とは逆の方向を向いているケンペの指揮ぶりに「うーむ」と考え込んでしまったのであります。私が聴いてきたブルックナーの交響曲第8番の中で、室内楽的と呼べるものはいまだかつてありません。強いていえば、セルが指揮したクリーブランド管の録音くらいでしょうか(1969年録音、SONY CLASSICAL)? あの録音で、セルは例のごとく緻密な演奏を繰り広げているのですが、その中にもセルは力感を忘れず、オケを最大限に鳴らしています。野暮ったくない、洗練されている、特に重厚でないという意味では室内楽的です。が、それでもちょっと違うと思うのです。あれは室内楽的というにはあまりにもパワフルな演奏であります。さて、交響曲第8番に限らず、室内楽的なブルックナーは存在するのでしょうか?


CD8月11日:昨日に引き続き、「フランクの交響曲ニ短調を聴く」後編を追加しました。

なお、明日から8月いっぱい、An die Musikは「What's New?」のみを更新します。実は、このところ夏バテ気味なのです。何卒ご容赦下さい。CD試聴記などは9月1日まで更新しない予定ですが、「What's New?」でもCD紹介などを鋭意続けて行いますので、今後ともご愛顧下さいますようお願い申しあげます。


CD8月10日:「シュターツカペレ・ドレスデンのページ」に「フランクの交響曲ニ短調」を追加しました。指揮はザンデルリンク。内容はCD試聴記風になりました。しかも今回のは前編で、後編もあります。

ところで、本日は我が家のみずなの1歳の誕生日であります。誕生日を祝いたいと思って帰ってきたら、既に熟睡中。仕方ないので明日から三日三晩お祝いをするのであります(^з^)゛。


CD8月9日:方言(駄文系)

「おらほのそばだば、まんずどこさもまげね」、というJR駅に掲げてあった広告の一文を、淀みなく読めるのはおそらく東北人だけでしょう。共通弁に訳しますと、「うちのそばは、まあどこにも負けないよ」。同じことを言っているようですが、共通弁に直してしまいますと、原文の持つ何ともいえない雰囲気が伝わりません。方言には独特のリズムもありますし、ほかに替えられないものだと思っています。

しかしながら、方言はそれを知っている人々にしか伝わりにくいという欠点もあります。それゆえどの世界に置いても、今や共通弁が支配することになりました。ちょっと前に話題になった高橋克彦さんの新作小説「火怨 北の耀星アテルイ」(講談社)も、舞台が現在の宮城県から岩手県あたりであるにもかかわらず、全員が綺麗な共通弁で話をします。「火怨」は力作で、とても感動的な物語なのですが、主人公をはじめ、全員が訛がないのには違和感を感じます。

一方で、少数ではありますが、努めて方言を取り入れて文章を書こうとする作家もいます。津本陽さんがその1人でしょう。津本さんの著作、例えば「武田信玄」(講談社文庫)を読んでいますと、「これはおえねえ。いったんは引き取とらざあ」などという表現がぞろぞろ出てきます。私は方言がない地方などつまらないと思っていますから、あの歴史的英雄武田信玄が方言丸出しで下知しているのをとても嬉しく思います。

津本さんの文章は悪文の典型とされているそうです。文章は切れ切れだし、難しい漢字がしょっちゅう出てきます。しかも何やら怪しげな方言まで使われています。それが悪評の原因でしょうが、私は津本さんの文体は迫真の情景を伝えると思っています。武田信玄が「これはおえねえ」と叫んだら、本当に撤退しなければ死んでしまいそうな気がします。方言なくてはこの臨場感はありません。

それにしても困るのは都会の人が真似をする東北弁ですね。どうしていつも間が抜けたような東北弁になるんでしょうね。東北弁がいかに軽快かご存知ないのかもしれません。もったいないことですね。え?そんなことはどうでもいい?あああああ、すみませんm(__)m。


CD8月8日:プーランク

昨日の続きです。「奇跡のホルン デニス・ブレインと英国楽壇」を読んでおりますと、時々プーランクの名前が出てきます。ブレインは室内楽を頻繁に演奏していたようで、取りあげた曲の中にプーランクの「六重奏曲」があったそうです。ところが、情けないことに、私はその曲を思い出せません。「おかしいな、プーランクはいろいろ集めたはずなのに」と思い、早速CD棚を探しました。するとこんなCDが出てきました。

CDジャケットプーランク
ピアノと木管のための作品集
録音:1988年2月、パリ、サル・ワグラム
DECCA(国内盤 POCL-5195)

収録曲

演奏者

六重奏曲は正確には、「ピアノ、フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット、ホルンのための六重奏曲」というそうです。作曲は1932年。フランスの奇才プーランク(1899-1963)の最もポピュラーな曲の一つ、と解説にあります。聴き直してみると、まさにプーランクの音楽です。非常に面白い曲ですね。しかめっ面を見せないプーランクが、諧謔的なフレーズを次から次へと繰り出します。こういう曲を聴いておりますと、プーランクというユニークな作曲家を持った20世紀も捨てたものではないな、などと感心してしまいます(私は20世紀のクラシック音楽に対して少し懐疑的なのです)。

しかし、この曲はどうも難曲らしいですね。ホルンの出番もたくさんあるのですが、ユーモラスで快活な音楽である分だけ、ホルンという楽器には負担がかかりそうです。ホルンは扱いにくい楽器のようですから、ノーミスで六重奏曲のホルンパートを吹ききるのは大変な技術を要すると思われます。残念ながらデニス・ブレインによるこの曲の録音はないようですが、あったらあったでデニス・ブレインのことですから、さぞかし痛快な演奏をしてくれたでしょうね。

何故私はこんな面白い曲を忘れていたのでしょうか。きっといい加減な聴き方をしていたからでしょう。せっかくの名曲・名演奏であってもダラダラ聴いていてはその価値を理解することはできません。女房さんの目を誤魔化してまで購入したCDがきちんと聴かれていないのではいけません。今回はこの曲を再発見できて良かったと思います。「奇跡のホルン」でプーランクを再発見ですね。ありがたいことです(なお、このCDに収録されている「フルート・ソナタ」はとびきりの名曲です)。

ところで、「奇跡のホルン」には気になる記述があります。「フランシス・プーランクはデニスの死の報せに激しく心を動かされ、直ちに筆を取ってホルンとピアノのための作品を書き始めた。こうして沈鬱な<エレジー>が書かれ、作曲者はこの音楽の中で自動車の衝突すら表現しようと試みている」(p.288)とあるのです。さて、私はこの曲が気になって仕方がないのですが、CD棚にはこの曲が収録されているCDはありませんでした(T_T)。一体どんな曲なんでしょうね。ご存知の方、是非教えて下さい。


CD8月7日:デニス・ブレイン

奇跡のホルン デニス・ブレインと英国楽壇」(スティーヴン・ペティット著、山田淳訳、春秋社)を先週読みました。有名な本ですので、もうとっくの昔に読み終わった方も多いでしょう。お薦めです。とにかく面白い本ですよ。音楽関係の本でこれほど面白く読めたのはレッグ・シュヴァルツコップ夫妻による「レコードうら・おもて」(音楽之友社)以来です。本文だけで313ページあるのですが、たちまち読破してしまいました。

「奇跡のホルン」は、ホルン界の大天才デニス・ブレインがどのような環境で育ち、そしてどのように活躍したかを克明に表しています。父オーブリーだけでなく、祖父A.E.ブレイン、叔父アルフレッドが、抜きんでた腕前のホルン奏者だったこともよく分かります。親子三代にわたる英国楽壇への貢献があったため、著作の副題は「デニス・ブレインと英国楽壇」となっているのですが、上手な副題だと思います。

さて、「奇跡のホルン」を呼んだ後には、すぐさまブレインのホルンを聴きたくなるのは人情ですね。CD棚からブレインのCDを探してみました。例のモーツァルトのホルン協奏曲集は有名すぎるでしょうから(^^ゞ、こんな曲はどうでしょうか。

CDジャケットR.シュトラウス
ホルン協奏曲第1番変ホ長調作品11
ホルン演奏:デニス・ブレイン
ガリエラ指揮フィルハーモニア管
録音:1947年5月21日、ロンドン
TESTAMENT(輸入盤 SBT 1009)

「奇跡のホルン」によれば、これは特筆されるべき録音だったようです。「彼はその後の生涯を通じ、この録音こそが自分の演奏を最も良く捉えたものであるとしていた。この曲自体も、彼のお気に入りの一つであった」(p.146)と書かれています。巻末のディスコグラフィーによれば、デニス・ブレインはイッセルシュテット指揮北ドイツ放送響(1954年)、サヴァリッシュ指揮フィルハーモニア管(1956年)とも録音しています。音はやや古さを感じさせるにしても、明快な輪郭を聴かせる当盤が、本人のお気に入りだったというのは頷ける気がします。私は必ずしもブレインの賛美者ではないのですが、このCDを聴いていると、確かに一つの時代を作った天才の音を感じざるを得ません。

ちなみに、私はR.シュトラウスのこの協奏曲が大好きです。夏山、それもアルプスを感じさせるからです。ゴテゴテしない清楚なオーケストレーションだし、夏場には打ってつけですね。

なお、このCDには同じくR.シュトラウスのオーボエ協奏曲ニ長調(オーボエ演奏グーセンス、ガリエラ指揮フィルハーモニア管)、ウェーバーのバスーン協奏曲ヘ長調作品75(バスーン演奏ブルッケ、サージェント指揮リヴァプールフィル)が収録されています。いずれも1947年の録音ですね。


CD8月6日:原典に当たる

前にも書いたことがありますが、私は古いものが好きです。まず、音楽はなんたってクラシック音楽です。スポーツはスキーにテニス。いずれもトラディッショナルであります。そして女房は古風です(^^ゞ。ついでに好きなものは歴史であります。「歴史をもっともっと詳しく知りたい」という欲求は、「クラシック音楽をもっと知りたい」という欲求と同じくらいあります。できれば、様々なテーマで、歴史的な古文書に当たりつつ実地調査をしたいと思っています。ただし、そのような道楽を始めると家庭が崩壊する可能性があるので、今のところ女房さんには内緒にしてあります(^з^)゛。

さて、歴史は書き替えられたり、作られたりするといいます。しかし、古文書などの原典に当たり、丁寧に読解していけば、ある程度正確な事実関係を知ることができるようです。歴史関係の本を読むときには、原資料が多数引用・紹介されているものがとてもためになります。読むのが鬱陶しい場合もありますが、後から調べものをする際には貴重この上ありません。

最近読んだ本に、童門冬二さんの最新作「田沼意次と松平定信」(時事通信社)があります。タイトルが示すとおり、江戸期の後半にさしかかったあたりで登場したお馴染みの政治家を扱った本です。童門さんはベストセラー作家だけに文章のわかりやすさは抜群です。誰にもすぐ読める文章を相当意識して書かれているはずです。類型化、図式化はその一手法でしょう。「田沼意次と松平定信」でも、かなりはっきりした図式化が行われています。例えば、152ページにはこのような記述があります。

「田沼意次と松平定信」の中で、田沼意次は「汚れた政治家」と断定され、あたかも枕詞のように「汚れた」という形容がされています。一方、松平定信に対しては、ほとんど礼賛に終始しています。1冊の本を書くくらいですから、童門冬二さんは江戸時代の文書をつぶさに調べ上げ、完全に裏をとっているとは思いますが、本当にそのとおりの2人だったのかという点について、私はまだ釈然としません。「田沼の政治」という言葉は江戸時代からあり、悪名が高いものでした。しかも、反田沼陣営(松平定信が旗頭)が田沼を徹底的に叩くために積極的に流布させた言葉だともいいます。ですから、現存する資料では、後に政権を担当した松平定信が一方的に有利に書かれている可能性が十分にあります。それでも、田沼意次が中立的な視点で評価されている文章もきっと残っているはずです。そうした資料などを洗い出したいものだと私はかねがね考えていました。残念ながら童門さんの著作には狂歌以外は原資料の引用はあまりありませんから、私にはどうしても物足りなく感じられます(読みやすさを優先しているからでしょう)。もっと時間があれば、私は調査に乗り出したいです。時間さえあれば、古文書の山に埋もれて楽しい時間を過ごせるのに、と地団駄を踏むことしきりであります。

ところで、「原典に当たる」というのはクラシック音楽にも言えることですね。実は昨日R.シュトラウスの「英雄の生涯」のスコアをやっと入手しました(音楽之友社、ミニチュア・スコア OGT230、2,200円)。え?今まで持っていなかったのかって?えへへ。そうなんです。平にご容赦をm(__)m。それはさておき、見てびっくり、あちらこちらで「えっ、スコアではこんな風になっていたんだ」と驚かされます。意外というべきか、やはりというべきか、指揮者たちは少しずつスコアをアレンジしていますね。聴き比べをする際に、基準となるものは本来スコアしかありません。今までスコアなしで「<英雄の生涯>を聴きまくる」などというシリーズを始めていたのですから、恥ずかしい限りです。歴史古文書に埋もれるより、スコアを研究するほうが優先順位としては高そうです。ああ、何と1日は短いことでしょうか。


CD8月4日:ベートーヴェンの神秘

昨日の更新において、ベートーヴェンの交響曲第4番について書きましたが、おそらく誰もがこう思ったことでしょう。「カルロス・クライバーのCDはどうした?」と。有名なCDですね。オケはバイエルン国立管、録音は82年(ORFEO 国内盤 C100841B)。もちろん、私もクライバーが好きですし、あの爆演は大変優れた演奏だと思っています。ORFEOも大人気商品であることを知っているため、CDが79分収録できるフォーマットでありながら、わずか30分の交響曲第4番だけで販売を続けています。最も贅沢なCDのひとつといえるでしょう。

ただ、あの演奏は、いわゆるスタンダードではない、と私は考えています。スタンダードの名にふさわしく、最も安心して聴けるのはやはりコンヴィチュニー、セル、クレンペラー(57年スタジオ)あたりだと私は思います。クライバー盤はある意味で突然変異的です。特に第4楽章の疾風のごときテンポはただごとではなく、それでなくても超絶技巧を要求されるファゴットの難所を聴くと、本当にハラハラさせられます。ライブの燃え上がる興奮がそのまま伝えられるという意味ではすばらしいのですが、あくまでも例外的な演奏だと思います。それはクレンペラー指揮バイエルン放送響による69年ライブ録音でも同様です。クレンペラーのライブ盤は、クライバー盤とは全く逆で、非常に遅いテンポを取りつつ、宇宙的スケールのベートーヴェンを聴かせます。私は「クレンペラーのページ」でやや大げさな表現を使っているように思われるでしょうが、いつ、何度聴いてもその途方もないスケールに圧倒されます。が、やはりこれも特殊な演奏かもしれません。クライバーにしても、クレンペラーにしても、「単に速い、単に遅い」というレベルの演奏ではありません。テンポを真似するだけでは同じ演奏は不可能なはずです。大指揮者による奇跡的録音ですね。

しかし、わずか30分程度の曲で、これほど極端な解釈の違いが現れるのは面白いことであります。だからこそクラシック音楽を聴く楽しみがあるのですが、様々な解釈ができるベートーヴェンの交響曲は本当に奥が深いと感心します。このところ、ロマン派の音楽を大量に聴き続けましたが、ふとベートーヴェンを聴き返すと、その音楽にのめり込みます。クラシック音楽を聴き始めた頃から、それこそ無数に聴いてきた音楽であるにもかかわらず、何度聴いても新たな感動を得ます。そして、相も変わらず、その精神性に打たれるのです。「精神性」などという言葉なくして、私はベートーヴェンを語ることはできません。こういう作曲家は音楽史上何人いるのでしょうか?読者の反発を買うかもしれませんが、私は10代の頃、既にマーラーの交響曲第2番「復活」に食傷していました。ベートーヴェンの交響曲は全曲ともマーラーに比べて遥かにシンプルであるにもかかわらず、聴けば聴くほど、飽きがこないどころか、その奥深さに驚かされるのです。一体この謎がどこにあるのか、私は知りたいと思います。多分一生かかっても分からないと思いますが...。


CD8月3日:CD試聴記に「ムラヴィンスキー 1973年初来日ライブ盤を聴く」(後編)を追加しました。昨日の続きです。え?ちまちま更新するな? すみませんね。余裕のない生活なものですから。何卒ご容赦下さいm(__)m。


CD8月2日:CD試聴記に「ムラヴィンスキー 1973年初来日ライブ盤を聴く」(中編)を追加しました。今回はベートーヴェンの交響曲第4番です。


CD8月1日:標題音楽

私は毎日ホームページの更新をしているので、とても暇人だと思われているかもしれません。私が暇人だと思っている最右翼は、もしかしたら女房さんでしょう。このホームページにはそれなりの時間を費やしていますから、女房さんは私に対する不満を隠しません。女房さんは非難の意味を込めて私を「暇人」呼ばわりしているのです。

ところが、私は本当に暇人かもしれないのです。昨日R.シュトラウスの交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」を聴いていた時に、「俺は三度この本を読んだことがある」と自慢したところ、「あなたは本当に暇人だ」と呆れられてしまいました。ふと我に返ってみると、あんな訳の分からない著作を三度も通読するというのは暇人以外の何ものでもないのでしょう。私は若い頃、有り余る時間を読書と音楽鑑賞に費やしましたので、そんなことになったのです。暇人と言われるのもごもっともであります。

ニーチェの哲学書(そうなのかな?)「ツァラトゥストラはかく語りき」は、正直言って一体何を言いたいのかよく分からない本でした。若かりし頃の私は、日本語訳が悪いから理解できないのだと勝手に解釈し、良訳を求めて三種類の訳書に挑戦、結果的に三度読むことになったのです。三種類目の訳書は岩波文庫の「ツァラ」でした。かなりこなれた訳で、おそらくこれ以上は望めまい、と思いました。しかし、それでも内容を完全に理解したなどとは言えません。ニーチェの著作は芸術的な高みにまで達した美しいドイツ語で書かれていると聞きますが、もしかしたら味わうべきなのは内容ではなく、そのドイツ語なのかもしれません。そうだとしたら、どんなに優れた日本語訳を求めたところで、得るものは少ないでしょう。

さて、このタイトルを持つR.シュトラウスの交響詩ですが、これもわかりにくい曲であります。標題が細かく記入されていますが、私はあの曲をいくら聴いてもニーチェの哲学を想起することはできません。それどころか、「ツァラトゥストラはかく語りき」を「これが有名な<英雄の生涯>だよ」と偽っても信じる人がいるのではないかとさえ思います。

音楽にはタイトルやニックネームは不要です。かえってタイトル、ニックネームがあるためにその曲に対する固定観念ができてしまい、幅広い想像力による解釈の余地が奪われてしまうという弊害すらあります。例えば、ブラームスの交響曲第4番ホ短調作品98という無機的な曲名ならば、どのような固定観念もできはしないと思いますが、これに「哀愁」とかいうニックネームが付いていたら、何となく鑑賞の幅が制限されてしまうような気がしませんか? 昨日取りあげたムラヴィンスキー指揮のショスタコーヴィッチ交響曲第5番もそうです。この曲はかつて、「革命」という名前で親しまれていました。しかし、それがかえって解釈を歪曲化する可能性を私は嘆いていたものです。今回発売されたCDのジャケットには「革命」という言葉は載っていませんでした。さすがにNHKのプロデューサーはその辺の事情をよく理解していたのでしょう。


(An die MusikクラシックCD試聴記)