短期集中連載  An die Musik初のピアニスト特集

アルフレッド・ブレンデル
ベートーヴェン「ハンマークラヴィーア」を聴く

第6部「ブレンデルの4回目で最後の録音」の試聴記

語り部:松本武巳

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■ すでにこの楽曲の「筆を折った」ブレンデル

CDジャケット

ベートーヴェン
ピアノソナタ第29番変ロ長調作品106「ハンマークラヴィーア」
アルフレッド・ブレンデル(ピアノ)
録音:1995年2月3日(ライヴ)
PHILIPS(国内盤 PHCP-5348)

 

■ 2年2ヶ月もの実質的休載期間を乗り超えて

 

 このブレンデル特集は、そもそも「短期集中連載」として開始されました。しかし開始からまもなく3年が経過しますが、今なお未完である上に、最終回の第3部掲載が2005年5月ですから、実質的休載期間がすでに2年2ヶ月に及びます。ここに、最終回の第6部を先に書くことにしました。この間、いろいろな出来事がありましたが、実質的休載の要因は、ブレンデルはもはや二度と来日しないであろうことを関係者から聞き及んだことが最大の要因で、2番目には下記に引用させて頂いた、伊東さんによる2000年年頭の試聴記を私が乗り超えられなかったことがあげられます。このような2つの大きな障害物を前に、私は一度も休載をしようと思ったわけでは決してないのですが、結果として徒にときが経過してしまったのです。

 

■ 伊東さんの試聴記をここに紹介します

 

一聴。とても端正な演奏です。ブレンデルはこのムジークフェラインザールにおけるライヴに全力を注ぎ込んだと思われます。ですから、ブレンデルにしても思い切った激しさでこの大曲を演奏しています。さらに、どの楽章にも破綻がなく、よくまとまっています。ライヴのわりには安心して聴ける演奏だと言えましょう。

でも、ブレンデル盤では、ベートーヴェンの息吹があまり感じられません。立派な演奏ではあるのですが、ベートーヴェンの逞しさや、深さ、輝き、どれも少しずつ不足しているように思えてなりません。ライヴでありながらキズのない演奏ではあるのですが、その分失ってしまったものが多いのかもしれません。ブレンデルのように長くベートーヴェンの音楽に接し、多くの演奏を行ってきたピアニストでも、この曲が難物であることを思い知らされます。

ただ、ライヴ録音を挙行したことは大いに評価したいところです。並のピアニストではとてもそんな恐ろしいことはできないでしょう。何しろ、曲は長大で、しかも技巧的にも高度ですから、ライヴ録音ではどうしても演奏上のキズができるはずです。また、肉体的にもピアニストには大きな負担があるでしょう。第1楽章が終わった後、精魂使い果たし、力尽きるなんてこともあるかもしれません。第3楽章はピアノの限界を超えるアダージョですし、並のピアニストでは歌い切ることが困難です。有名ピアニストのスタジオ録音盤でも悪戦苦闘している例があります。その地獄のような第3楽章をクリアすると、今度は長大なフーガです。これは重戦車を人力で動かさざるを得ないような、はなはだ重厚な曲です。これではピアニストもたまったものではないでしょう。よほど腕に覚えのあるピアニストでもなければ、ライヴ録音などできないと思います。これを果たしたブレンデルは、やはり大したものなのです。

しかし、どうなのでしょう、ブレンデルは「ハンマークラヴィーア」のライヴ録音という快挙を成し遂げましたが、他にもこうした例はあるのでしょうか。仮に他のピアニストがライヴ録音したら、「CDとして」良い結果が出たのでしょうか。というのは、ブレンデルの演奏は、部屋の中で冷静に聴いていると「少し物足りないな」と思いますが、ホールの聴衆を熱狂させてはいるのです。演奏終了後、盛大なブラボーが聞こえます。私はCDで音楽を聴く際の難しさがここにあると思います。コンサートホールの熱気を共有できないために、醒めた耳で聴いてしまうのです。「ハンマークラヴィーア」を演奏して、その醒めた耳を満足させるのは容易なことではないのでしょう。

もしかしたら、耳だけに頼る録音をする場合、この曲ばかりはライヴは御法度なのかもしれません。壮年期のゼルキンでさえ録音には5日かけているところを見ますと、この曲の録音は半端な労力ではとても成し得ないことがよく分かります。もしブレンデルが、1楽章ずつ丁寧にスタジオ録音していれば、もう少し良い録音になったのではないでしょうか。皆様のご意見をお窺いしたいところです。

(元の文章のごく一部分を、松本の責任で承諾を得ないまま改変させていただきました)

 

■ この伊東さんの評論の、重大な問題提起を前に・・・

 

 伊東さんがどのように意識されて書かれたかを考えることを抜きにしてもなお、彼の残された上記の文章は、弾き手の側から捉えるととても厳しい問題提起を多く投げかけられた評論となっているのです。そのような箇所を、まずは列挙してみたいと思います。

第一点:

立派な演奏ではあるのですが、ベートーヴェンの逞しさや、深さ、輝き、どれも少しずつ不足しているように思えてなりません。ライヴでありながらキズのない演奏ではあるのですが、その分失ってしまったものが多いのかもしれません。

第二点:

ライヴ録音を挙行したことは大いに評価したいところです。並のピアニストではとてもそんな恐ろしいことはできないでしょう。何しろ、曲は長大で、しかも技巧的にも高度ですから、ライヴ録音ではどうしても演奏上のキズができるはずです。また、肉体的にもピアニストには大きな負担があるでしょう。

第三点:

ブレンデルの演奏は、部屋の中で冷静に聴いていると「少し物足りないな」と思いますが、ホールの聴衆を熱狂させてはいるのです。演奏終了後、盛大なブラボーが聞こえます。私はCDで音楽を聴く際の難しさがここにあると思います。コンサートホールの熱気を共有できないために、醒めた耳で聴いてしまうのです。

第四点:

耳だけに頼る録音をする場合、この曲ばかりはライヴは御法度なのかもしれません。壮年期のゼルキンでさえ録音には5日かけているところを見ますと、この曲の録音は半端な労力ではとても成し得ないことがよく分かります。もしブレンデルが、1楽章ずつ丁寧にスタジオ録音していれば、もう少し良い録音になったのではないでしょうか。

 

■ 第一点の指摘に対して

 

  ベートーヴェンの持つ、そしてこの曲の持つ、聴き手が期待するものが不足しているとの指摘であると思います。しかし、そもそもブレンデルの残した3種類のソナタ全集は、VOXへの最初の全集は、自身で編集まで行ったマニアックさが売り物となっており、ベートーヴェンらしさはそもそも欠けていたであろうと思います。70年代の2度目の全集は、当初からベートーヴェンの優れた全集を目指して作られたためでしょうか、そこでは教条的に感じられるくらいに雁字搦めに録音され、しかも時間をかけて進められており、聴き手はある種の疲れを感じてしまう部分もあるのです。そして90年代の3度目の全集は、かなり叙情的な、あるいは主情的な演奏であり、ベートーヴェンらしさは後退していますが、全体の推進力と、ブレンデルの自己主張は明確になっており、続けて聴いても疲れることはあまりありません。

 そのためでもあるでしょう、皇帝協奏曲のところで書かせていただいたように、32曲のソナタのうち、若書きのソナタを中心に何曲かはVOXへの録音がもっとも優れた演奏となっており、またそもそも曲自体が堅苦しいソナタであると思われる曲を中心とした何曲かは、全集の制作意図と相俟って70年代の録音が最良のものとなっております。そして、90年代の全集は、ブレンデル自身も、評価が割れるであろうことを覚悟の上で、自己主張を表に出しているように思う録音もあり、私自身も90年代の全集は、絶賛に値するソナタと、過去の録音よりも劣ると思うソナタに二分されているように感じています。

 そして、私自身は、実はこの29番「ハンマークラヴィーア」こそが、90年代の全集でもっとも高く評価している中の1曲であるのです。第二点以下の指摘に答えながら、この私自身の評価について語ることにしたいと思います。

 

■ 第二点の指摘に対して

 

  この指摘は、割と簡単に答えられます。プロが対外的な場で演奏する場合には、ソナタの一部の楽章のみをプログラムに乗せることはほとんどあり得ません。特にブレンデルはそのこだわりがプロの中でもかなり強固な人物であろうと容易に想像できます。つまり、彼はライヴ録音をする場合に負担が大きい曲が仮にあるとすれば、そもそもスタジオ録音でも、その曲の録音を残さないであろうと思われます。実際に、彼は2000年ごろに、もうこのソナタを弾くことは無いと宣言したようです。しかし、スタジオ録音なら今後も論理的には可能だと思われますが、彼の演奏人生は、そもそも両者を切り離していない人生であるからこそ、結果として多くのディスクが残されたのだと信じます。

 

■ 第三点の指摘に対して

 

  この指摘は、ソロの演奏と、合奏による演奏の根源的な問題につながる指摘であると思います。そもそもオーケストラの演奏は、ホールで聴こうと、家で聴こうと、一人では演奏不可能であるという側面から見た場合、聴き手になるしかないのです。指揮者にしても、実際にすべての音を出さない以上、聴き手の側面があるわけです。ところが、ソロ演奏の場合は、状況が異なります。上手いか下手かを別とすれば、愛好家ならば、どの立場にも立ち得るのです。ソロ演奏を自宅で聴く難しさが、この指摘の裏に潜んでいると思うのです。

 

■ 第四点の指摘に対して

 

  私は、ルドルフ・ゼルキンとの比較は避けようと思います。しかし、ブレンデルがあえて全集の中のごく一部のソナタだけをライヴ録音しようとした意思を尊重したいと思っています。客観的に見て、どんなにスタジオ録音に分があるとしても、このソナタが持っている何かを考えたときに、結果としてライヴ録音を採用したと信じます。なぜならば、第三点の裏返しとして、ソロ演奏家のみが持つ特権は、自宅で一人だけで練習できる点に尽きるのです。一方で演奏家はホールでも演奏しています。その多くの経験則が、最終的に演奏家がライヴまたはスタジオ録音を、楽曲に合わせて採用しているのです。もちろん、そんな自由度は大家のみが許された自由ですが、ブレンデルは過去の二度の全集録音を経て、そんな選択肢が許される大家になってから残そうとした、3度目の全集でこの29番をライヴ録音で残すことを選択した以上、私たちは仮にスタジオ録音で収録されたとしたら、このライヴ録音以下のディスクになったであろうと思うしかないだろうと考えます。そして、この想像は、ハンマークラヴィーアソナタのみ、2度目と3度目の全集の間に1983年2月のライヴ録音がPHILIPSから正規に発売された過去が証明していると信じます(24番とのカップリング−412-723-2輸入盤) 。

 

■ ブレンデルのハンマークラヴィーアソナタ

 

 ソロの演奏活動は、とても孤独なものであるのです。本来音楽とは、弾き合い、聴き合い、そんな中から生ずるものであるはずです。ところが、ソロの演奏では、自分が出す音を、客観的に聴くという特殊な能力が要求されています。なぜならば、ソロの演奏も聴き手にどのように伝えるかを意識することなく演奏したとしたら、それは音楽のとても重要な側面を自己否定してしまうからです。しかし自分が弾いている音が、どのように聴き手に伝わっているかを判断する能力は、最終的にはソロの演奏家が、聴き手とともに共有する世界を作り出す能力につながりますから、その時点でソロ演奏家は、ようやく孤独との闘いから開放されるのです。

 そんなソロでの演奏の比率がもっとも高い楽器としてピアノが挙げられるのは間違いないでしょう。その裏返しとして、高価でかつ重い楽器であるにもかかわらず、お稽古としてピアノを始める人が、音楽のきっかけとしてはもっとも多数に上る事実ともつながっています。

 こんな視点から、ブレンデルのハンマークラヴィーアソナタの演奏を捉えてみると、ブレンデルはベートーヴェンとの相性や適性を超えて、ベートーヴェンにこだわりつづけた彼の演奏人生の総決算として、このソナタが存在したのだと思います。こんな思い入れが、ホールで彼と接した人には感じ取れ、ディスクのみで彼を聴くリスナーには感じ取りにくいのはやむを得ないことだと思います。なぜならディスクはそもそも出来上がった結果を問われます。そして結果だけを見つめると、そもそもブレンデルはベートーヴェン弾きではないと思います。もっと愛らしい小品に、彼の真骨頂が発揮されるのは、事実でしょう。

 ブレンデルは実演では、感情をむき出しに演奏することもありますし、どちらかといえば激情型の演奏家です。そしてこの事実こそが、この連載のサブタイトルが、『誤解を受け続けているロマンティスト』であることの真意でもあるのです。そんな彼が、ベートーヴェンと格闘し、受け入れられていくさまは、われわれ日本人が、西洋で音楽家として受け入れられるための諸条件が何であるかを教えてくれる生き証人でもあるのです。その意味でも、私はブレンデルが大好きだし、彼のベートーヴェンが好きだし、そしてハンマークラヴィーアソナタの演奏を愛するのです。ヨーロッパ本流でなくとも一流の音楽家として受け入れられた演奏家は意外なほど多く存在しますが、私にはブレンデルのこだわりがもっとも自分自身にしっくりするに過ぎません。しかし、音楽におけるファンとは、そもそもがそんなものなのではないでしょうか?

(2007年7月17日記す)

 

(2007年7月18日、An die MusikクラシックCD試聴記)