短期集中連載  An die Musik初のピアニスト特集

アルフレッド・ブレンデル
ベートーヴェン「ハンマークラヴィーア」を聴く

【第4部「ベートーヴェンのピアノソナタ」覚え書き】(その1)

語り部:松本武巳

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■ 本当に「前期」「中期」「後期」に明確に分類できるのか?

 

 ベートーヴェンのピアノソナタは、作曲時期と作風から、前期・中期・後期に分けられる…誰もが何度も目にし、耳にした有名な言葉です。しかし、どんな素人でも、少なくとも以下のような疑問を感じざるを得ないと思います。

  1. ベートーヴェンは大きく2回も、作風が変容した作曲家であったのか?
  2. 作品の間に断絶した時期が存在したり、連続して作曲したりしていたのか?

 また、少しベートーヴェンやピアノソナタをご存知の方ならば、以下のような疑問を感じるのでは、と思います。

  1. そもそも彼のピアノソナタは、きちんとしたソナタ形式に則って書かれていたのか?
  2. 明確に分けられるはずなのに、32曲のどこで前期・中期・後期に分けられるのか、書物やディスクによって、扱いが異なっているのはなぜなのか?
  3. 第一、明確に分類できるならば、なぜ32曲全曲を録音した全集がこれほど多く存在するのか? それ以前に、全集の意義自体も希薄になるのではないのか?

 これらは、すべてもっともな議論であると思われます。そこで、まず、ソナタ形式について復習してみましょう。ソナタ形式とは、『二つの主題を持ち、原則として第一主題が長調のときには、第二主題は属調で提示され、第一主題が短調のときには、第二主題は関係長調で提示される。主題の提示は、小さな結尾をもってしめくくり、その後に提示されるテーマを発展させることで、発展部をもたらす。なお、提示部では調性の変化が少ないものの、発展部では転調が多く見られる。さらに引き続いて再現部が現れ、再現部では二つの主題が同一の調性で再現された後、最後にコーダが置かれる形式である』。普通の理論書には、大要上記のように書いてあると思います。

 しかし、そもそも、ベートーヴェン以前のモーツァルトの時代でさえ、ソナタ形式を遵守してソナタを創作していたわけでは決してありません。主題が5つあったりすることも稀ではなかったのです。ベートーヴェンの場合は、主題の数は確かに2つであることが多いものの、第一主題と第二主題の切り替わる場面が、そもそもはっきりと判断できないような、ソナタをかなり多く残しています。

 では、なぜソナタ形式なるものが存在するのでしょうか? それは、私には美学や美意識の問題であると思われてなりません。話を変えますが、数学の問題を解くとき、答えが綺麗に収斂されていく、そんな過程が存在するはずだと思いますし、実際そのような過程が現れてくると、解答にたどり着けそうな気持ちが解き手に膨らんでくるとも思います。そもそも、数学も、そして物理学も、解く過程や結末が美しくなければ、単なる計算機に堕してしまうと考える、そんな学問の方向性を是とするところから、発したと考えております。当然のことながら、ソナタ形式と言う音楽理論または、音の構築も、同様に美学となり得るのだと信じています。そこから感動をもたらすのが芸術だと、ある時代までは信じられてきたわけですし、現在でも少なくとも聴衆は、こんな側面を期待されてコンサートホールに足を運ぶ方が、多数いらっしゃるのも間違いないと思っています。

 そのような側面を、少なくとも歴史上は是とした上で、ベートーヴェンのピアノソナタを、時代別に分類するとするならば、私は以下のように分類すべきではないかと、個人的に結論付けるに至りました。なお、この部分の思考をまとめるために、この数年間、ベートーヴェンのピアノソナタの構造に関する書物を、読まないでおりました。それ故、記憶違いで、内容が誤謬となってしまっている箇所が出ているかも知れませんが、事情をご推察の上、ご容赦くださると、とても幸甚です。

 前期は、ベートーヴェンの持っている、おおらかでなごやかな楽曲の部分が、彼特有の独特の和声法からもたらされた、そんな作曲技法を取っていた時代であると考えます。具体的には、通常の和声では、短調または短旋法が期待されるべきところで、長調または長旋法で提示される、こんな展開部や発展部をもたらす、いわば本来的にはすりかえとも取れる和声法(禁則ではありません、念のため)を多用し、聴き手に意外性を想起させた時代です。ピアノソナタで言えば、第1番から第7番までの7曲を指します。

 中期は、ベートーヴェンの持っている、前期からの特質をそのまま生かしつつ、一方では旋律よりも和音や転調の妙で、聴き手を惹きつける側面が強まった時代であると言えるでしょう。これは、ベートーヴェンの和声的側面が完成段階に至ったことを示しているのだと思います。少なくとも、和声上の技巧・技術面から捉えると、第8番「悲愴」と第23番「熱情」は、まるで双子のような和声上の楽曲構造を構成していると思われてなりません。したがって、中期のソナタは、第8番から第23番までの16曲となります。

 後期は、残された24番以後の9曲です。この時期の特徴は、ソナタとしての様式も、和声上の協和も、作曲者はほとんど省みることなく、内省的側面をひたすら強調すべく、非和声的側面まで現れてきます。これが端的に楽曲に現れるのは、属和音の取り扱いであるのは明らかで、極端な場合には、属和音がまったく現れないまま楽曲が進行して行くような場面も多く出てきます。しかし、きわめて繊細な旋律の動きによって、音楽が非常にデリケートであるにもかかわらず、一方で張り詰めた緊張した楽曲の小さな隙間に、聴き手がホッとするような旋律や、ちょっと息を抜けるような旋律がときおり現れてきます。要するに、この時期のベートーヴェンは、彼の初期に常套手段として用いていた、属和音の強調という技法を、ほとんど完全に捨て去った時代であるとも言い換えられるでしょう。また、楽章構成が特殊なソナタが、多々現れる時代でもあるのは、著名な事実だと思います。

 以上は、あくまでも、個人的見解に過ぎません。先人の業績を否定しようとか、批判しようとか、そのような意図はまったくありません。ただ、分類などと言うものは、視点を変えれば、変えた数だけ存在するものでもあることを、明らかにしたかっただけです。単なる、一人の意見として捉えていただけますと、助かります。と言いつつ、実は、ピアノソナタの前・中・後期の分類に関して、この数年間迷路に彷徨いこむほどにまで、悩み続けていたのです。変遷の結果として、ここにたどり着いたのですね。しかし、書き終えて、読み直してみると、理論の教えを受けた教授(別宮貞雄教授。メシアンの日本人最初の弟子としても著名で、存命です。)のお考えに、結果的に立ち戻ってしまったとも言えなくはありません。ここに事前に吐露しておきたいと思います。授業ノート(70年代末の2年分)を今再び紐解いてみると、あまりに近似した結末に、師の影響の大きさと、自身の創造性の欠如が、ともに眼前に迫ってくるような錯覚に捕らわれます。

(2008年10月23日記す)

 

 

 

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(2008年10月25日、An die MusikクラシックCD試聴記)