短期集中連載  An die Musik初のピアニスト特集

アルフレッド・ブレンデル
ベートーヴェン「ハンマークラヴィーア」を聴く

【第4部「ベートーヴェンのピアノソナタ」覚え書き】(その2)

語り部:松本武巳

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■ 《有名な「メトロノーム論争」に関する私見》

 

 ハンマークラヴィーア・ソナタの演奏で、その演奏の困難さの話題の一つに、ベートーヴェンによるテンポ指示があることは間違いないでしょう。

第1楽章 2分音符=138
第2楽章 2分音符=80

 少なくとも、以上の2箇所のメトロノ−ム指示には、難しいとかの議論を遥かに超えて、弾き手と聴き手の双方に、大いなる困惑をもたらず指示だと言わざるを得ません。そこで昔から繰り返し言われてきたことではありますが、ベートーヴェンはメトロノームなどの機械を正しく使えたのかどうか、という問題です。ベートーヴェンはその当時、すでにかなり耳が聞こえなくなっていて、当時彼の自宅に搬入されたブロードウッドの新しいピアノが、目茶目茶に調律が狂っていたにも関わらず、気にも留めずに喜んで弾いていたという事実すら残されているのです。

 まず前者の例として、第1楽章の冒頭を、実際にメトロノームをかけてみますと、第1主題の和音連打の動機は、このテンポ指示でもとりあえず肯けます。しかしその後、このテンポの指示を守ろうとすると、技術的困難が必ず生じてきます。そうしてみますと138という速度は、そもそも基本的には正しいと信じて良いのでしょうか。加えて、決定的に速すぎて上手く処理出来ないフレーズもそれこそ頻出してきます。ちなみに、ハンス・フォン・ビューローは彼が出版した校訂版で、この部分の速度を112に改めております。もっともそれでもかなり早めの指示であると思いますが、112ですと弾いても聴いていても、違和感までは持ちません。

 次に、第2楽章は、恐ろしく忙しいスケルツォとなってしまいます。主題は第1楽章の第1主題動機の3度音程を用いています。動機は上下行してひたすら飛び跳ねますし、エネルギーが激しく爆発した直後に、この楽章はあっという間に終わってしまいます。しかし、ただでさえ、短く早い楽章であるので、この指示どおりだとしますと、全体のバランスが崩れてしまうことは明らかではないでしょうか。

 しかし、私はそもそも、当時のメトロノームの精度がどうのと言う以前に、LPやCDの無い時代に、楽譜を売るために、作曲家や場合によると出版社が適当に、速度に関する指示を付けたに近いものであろうと思わざるを得ないのです。演奏時間の比率から云えば、このケース以上に極端なものとして、シューマンの有名なピアノ曲である「トロイメライ」の速度指定は、100と原典には記されていますが、クララ・シューマンによる校訂では64に変更されている例をあげておくことにしましょう。そして、この例は実際に弾いてみると明らかですが、原典どおり100の速度で弾くと、「トロイメライ」は、まったく無味乾燥な練習曲に堕してしまいます。

 要するに、メトロノーム論争は、そもそも論争するに値しない、当時の楽譜の中でもっとも無視しても差し支えない部分であるとすら、私は考えているのです。もっとも、発想記号や表情に関する指示記号は、演奏の根幹を左右する大事な楽譜上の指示であると思います。正確に時を刻む機械の無かった当時の、学習の指針として、あるいはとりあえず速度の指示が曲の冒頭にあると楽譜が良く売れるから、こんな程度に過ぎないと考えたほうが、賢明だと思います。そのくらい、速度に関する指示に関しては、当時の楽譜の中では、その他の部分とあまりにも作曲家の姿勢が異なる部分であると、そのように思えてならないのです。

(2008年12月7日記す)

 

 

 

《本当に「前期」「中期」「後期」に明確に分類できるのか?》

《そもそも「ベートーヴェン」の典型的な演奏は存在するのか?》

《シンドラーの伝記は「ウソ?」》

 

(2008年12月19日、An die MusikクラシックCD試聴記)