シューベルトを聴く ごく個人的な手記
■ シューベルトの歌曲
学生の頃、私はシューベルトの歌曲集「冬の旅」を初めて聴き、その女々しさにげんなりしたものだった。あのような曲を聴いていると自分までうじうじしてきそうでいやだった。調べてみると、名曲といわれる「美しき水車小屋の娘」も十分すぎるくらい女々しく、「白鳥の歌」は陰々滅々としていた。最初にそのような印象を持ってしまったため、私のシューベルト観は非常に歪曲したものになった。
シューベルトの歌曲の美しさを知り、その底知れぬ深さを理解できるようになったのは40代に入る頃である。このようなすばらしい世界に対して距離を置いてきた不明を恥じるばかりである。
ところが、シューベルトの音楽は、聞き手の心に直に訴えてくるために、いつも耳にできるわけではない。自分の気持ちが鬱いでいるときには聴けない。その音楽に押しつぶされ、奈落の底に突き落とされそうな気持ちになるからだ。シューベルトの音楽には歌曲に限らず、そのような傾向があると私は思う。逆に言えば、私の場合はシューベルトの音楽に接するだけで自分の精神状態を確認できてしまう。
さて、シューベルトは600曲もの歌曲を書いた。私が聞き覚えているのはそのうちのわずかでしかないと思うし、「冬の旅」や「美しき水車小屋の娘」のような歌曲集を除いては、シューベルトの歌曲だけを延々と聴いていたいと思ったことはない。短くても1曲ごとの密度が濃いためだと思う。それこそ数曲だけでも優れた曲の優れた演奏を聴きたい。
私が好きなシューベルトの歌曲は、このホームページのタイトルにもなっている「音楽に寄せて An die Musik」の他に、いくつかある。例えば、「水の上で歌う(Auf dem Wasser zu singen)」。この曲を私はボストリッジのCDで聴いている。
■ 水の上で歌う
シューベルト
収録曲名
- ます
- ガニュメート
- 春に
- 月に寄せて
- 野ばら
- 旅人の夜の歌2
- 最初の喪失
- 漁師
- 漁師のくらし
- 夜と夢
- こびと
- 音楽に寄せて
- 君はわがやすらい
- 水の上で歌う
- シルヴィアに
- 連祷
- 春のおもい
- 林の中で
- ミューズの子
- 旅人の夜の歌1
- 幸福
- 魔王
テノール:イアン・ボストリッジ
ピアノ:ジュリアス・ドレイク
録音:1996年2-3月、ロンドン
EMI(国内盤 TOCE-9874)「水の上で歌う」は1823年に作曲された(同年、「美しき水車小屋の娘」も完成)。詩は1782年にシュトルベルクが新妻アグネスに新婚旅行の際に贈ったものという。以下のような内容である。
鏡のような波のほのかな光のただ中を
白鳥のように、揺れる小舟が、滑りゆく。
あゝ、やわらかに微に輝く喜びの波の上を
魂がその小舟のように滑りゆく。
天空から波上に落ちてくる
夕陽が小舟の周りを踊る。西方の林の梢の上で
ほの赤い光が親しげに僕らに合図する。
東の林の枝の下で
ほの赤い光の中で菖蒲がざわめく、
天の喜びと林の安らぎを
魂が呼吸する。
赤く染まった光の中で。あゝ、露に濡れた翼を広げて消え去れたら
時が揺れる波の上に。
(時は)明日微に光る翼に乗って消えていく。
ふたたび昨日や今日と同じように。
自分自身がより高く、輝く翼で
移りゆくときから消え去るまで。「ドイツ・リートへの誘い」梶木喜代子著、音楽之友社 p.87
時の移ろい、しかも日没時を題材にしたこの詩を私はやや日本的だと感じている。「もののあはれ」に一脈通じるような気がするのである。この詩にシューベルトは見事な曲を付けた。この曲を聴くと、シューベルトの天才を感じずにはいられない。
ピアノが水の流れを表すように情景描写をする中で歌が始まる。ドイツ語では、
Mitten im Schimmer der spiegelnden Wellen
と始まる。実に美しいドイツ語がずっと続く。が、朗読するだけなら難しくないこの詩は、曲の流れに合わせようとすると非常に発音しにくい。上述した梶木さんの著書でも「何度も朗読しなさい」と書いてあるが、少なくとも日本人がこの曲を歌うときにはかなり難儀するようだ。
この美しいドイツ語をイギリス人テノール ボストリッジがこれ以上考えられないほど耽美的に歌い上げている。聴く度に切なくなるので、あまり頻繁に聴けない。伴奏のピアノも極上で、録音までよい。
この歌に批判があがるとすれば、感情移入が甚だしいということくらいだと思う。ボストリッジのドイツ語には、専門家からの厳しい注文がつけられている。どうやらボストリッジはウーウムラウトを完璧に発音できていないらしい。この曲にもウーウムラウトは「Fluegel」(翼)という言葉で出てくる。この言葉は3回登場するが、私はボストリッジの発音を奇異には感じなかった。それどころか、このCDを聴いてボストリッジのファンにならない人がいようか、とさえ私は思う。
■ アヴェ・マリア
現役の歌手の中で、私が密かにファンになっているのはバーバラ・ボニーである。全くミーハー的であり、おじさん的だとも思うのだが、この知的な女性は時に大変魅力的なCDを出す。以下のCDは1曲を聴くためだけに買っても損はしないだろう。
シューベルト
収録曲名
- アヴェ・マリア
- ガニュメデス
- ごぞんじですか、レモンの花咲く国
- 語らずともよい、黙っているがよい
- もうしばらくこのままの姿に
- ただ憧れを知るひとだけが
- 変貌自在な恋する男
- 野ばら
- 恋人のそばに
- ます
- 水の上で歌う
- 夕映えのなかで
- 聴け聴け、ひばり
- きみは憩い
- 糸を紡ぐグレートヒェン
- グレートヒェンの祈り
- 岩の上の羊飼い
ソプラノ:バーバラ・ボニー
ピアノ:ジェフリー・パーソンズ
録音:1994年4月、ベルリン
TELDEC(国内盤 WPCS-21241)冒頭に置かれた「アヴェ・マリア」、すなわち「エレンの歌V D.839」がすばらしい。有名であるだけに感銘を得にくい曲だと私はかねがね思っていたが、バーバラ・ボニーの歌声は清冽そのもので、6分17秒の間、私をスピーカーの前に釘付けにする。ちょっと大げさな表現かもしれないが、神々しい。CDを制作したプロデューサーがこの曲を最初に持ってきたのは当然で、全17曲中の白眉である。私はこの1曲だけで完全に満足する。これほどのドイツ・リートを歌うのがアメリカ人だとは信じられない。
(2004年10月9日、An die MusikクラシックCD試聴記)