シューベルトを聴く ごく個人的な手記
■ 「未完成」交響曲は交響曲の代表作か?
シューベルトの交響曲を好きな人でも、おそらく交響曲第8番「未完成」だけは別格の扱いをしているのではないかと私は予想している。例えば、交響曲第2番と同じような気持ちで「未完成」交響曲に接することができるものなのだろうか? 「未完成」交響曲は深刻な音楽だ。
シューベルトの「未完成」交響曲は、クラシック音楽の代名詞のようなものだ。子供の頃、音楽の授業でもこの曲を教材として、つまりクラシック音楽の代表作のひとつとして聴かされたように私は覚えている。録音の数も半端ではない。名のある指揮者による録音がおびただしく存在する。それだけこの曲を聴きたい、あるいは聴かせたいと考える人がこの世に多いのだと思う。
が、高い知名度や大量の録音とは裏腹に、この曲はそう頻繁には聴けない。少なくとも私の場合はそうだ。第1楽章のリピートを実施したとしても高々26、7分の曲であるが、その音楽的な密度は極めて高く、しかも、聞き手は人間の絶望の淵をのぞき込むことを強要されるのである。第1楽章の主題提示部が終わって、展開部に突入すると、そこは暗黒の世界の入り口である。
どうしてシューベルトはこのような曲を書いてしまったのか。作曲されたのは1822年とされている。シューベルトは1797年生まれだから、当時わずか25歳である。25歳でなぜこのような交響曲を作ってしまったのだろうか? いくら31歳で死んだからといって、25歳は「晩年」ではない。青年のはずである。
「未完成」交響曲は、シューベルトの他の交響曲と比べると全く異質で、ほとんど突然変異的に完成されたとしか考えようがない。ということであれば、この曲をもってシューベルトの交響曲を代表させるわけにはいかないのかもしれない。むしろ、歌謡的で明るい交響曲第9番(7番)ハ長調「グレイト」が代表作にふさわしいのかもしれない。しかし、シューベルトをシューベルトたらしめているのは、脳天気な明るさではなく、年齢には全く似つかわしくない、人生の深淵をのぞかせるその暗黒面なのではないかと私は考えている。
ある音楽は明るく楽しい。しかし、時として音楽には人間の恐るべき暗さが詰め込まれる場合がある。作曲家がそれを意識したかどうかは分からない。しかし、我々が作曲家から受け取った遺産である音楽には、それを如実に感じることができるのである。だからこそ、わずか20数分の音楽を聴いた後我々は大きなカタルシスを得ることができる。大音響で内容空虚な音楽を長時間聴いたところで、「未完成」交響曲と同じか、それ以上のカタルシスを得ることはできない。「未完成」交響曲をはじめ、クラシック音楽の名曲といわれる作品は多かれ少なかれそのようなものだと私は思っている。
■ ウィーンフィルの「未完成」交響曲 その1 ケルテス盤
私の気にしすぎなのかもしれないが、「未完成」交響曲の録音にはかなりの割合でウィーンフィルが使われているような気がする。まずはケルテス盤を聴いてみる。
国内盤CDジャケット。 輸入盤の交響曲全集 シューベルト
交響曲第8番 ロ短調 D.759「未完成」
交響曲第9番 ハ長調 D.944「ザ・グレート」
イシュトヴァン・ケルテス指揮ウィーンフィル
録音:1963年10月(「未完成」)、11月(「ザ・グレート」)
DECCA 国内盤(UCCD-7081)「未完成」交響曲は、チェロとコントラバスのppで始まる。バイオリンとビオラが入ってくるまで8小節。国内盤では、室内をよほど静かにしていないとこの8小節を聴き取ることが難しい。しかたなく、音量を上げて、できる限りチェロとコントラバスの音を知覚できるようにするのだが、こうして聴くことをプロデューサーが望んだのか、この演奏の効果がてきめんになる。
ケルテスはfz、f、ffでトロンボーンを含む金管楽器群、ティンパニに容赦なく強奏させる。特に頻出するfzでは、ぱぁーん、ぱぁーんと炸裂する。これはすさまじい。第1楽章はまるで「最後の審判」を思わせる。ウィーンフィルの音は洗練されてはいるものの、パワフルそのものであり、曲のクライマックスでは怒濤のような響きを表出する。それを騒音的な演奏にさせないところが、指揮者とオケの力なのだろう。
ケルテスは60年代初頭にこのような演奏をしているが、これは古楽器による演奏スタイルに一脈通じるものがある。古楽器奏法を取り入れた集団のCDでは、最初からそうなると予想できてしまうので驚きはしないし、その予想を大きくはずれる演奏を聴けないような気がする。ケルテスは1963年の時点で、大編成のオーケストラを使ってこのような演奏を成し遂げている。
ただし、この国内盤と輸入盤では若干音が違い、聴感上の差が出るので念のため書き添えておく。国内盤では、リマスタリングをし直したのかノイズがほとんど除去されていて、SN比が高く、上記の演奏効果がより明確に分かる。
ウィーンフィルを使った録音としては、クライバーによる有名なCDがある。追悼の意味を込めて久しぶりに聴いてみた。
■ ウィーンフィルの「未完成」交響曲 その2 クライバー盤
シューベルト
交響曲第3番ニ長調 D.200
交響曲第8番ロ短調 D.759「未完成」
クライバー指揮ウィーンフィル
録音:1978年9月、ウィーン、ムジークフェラインザール
DG(輸入盤 449 745-2)今は亡きカルロス・クライバー生前の貴重な録音。
ケルテス盤と違って冒頭の音が聞こえにくいということはない。音量を上げなくてもはっきり聞こえる。ただし、本来的にはppで演奏されるべきものだから、はっきり聞こえるのがよいのかどうかは、オーディオという媒体をどうとらえるかで違ってくる。家庭でクライバーの「未完成」を鑑賞するという意味ではこの上ないCDではあるが。
クライバーの演奏は、非常な集中力・緊張を感じさせる。さらさらスピーディに流れていくようでいて、その流れ方が張りつめているので、スピーカーに対峙せずにはいられない。それも緊張させっぱなしではなく、時々弛緩させるのである。それを弛緩と呼んでしまっていいのか、巧い表現が見つからないので恐縮だが、その瞬間にはウィーンフィルの歌があるのだ。この交替が計算されているようには感じられないところがすごい。
なお、同じウィーンフィルでも録音の年代とレーベルが違うので当然だろうが、ケルテス盤とクライバー盤では同じ団体の音とは俄に信じられない。クライバー盤の音は大変洗練されている。木管楽器やホルンの音を聴くと、「ああ、やはりウィーンフィルだ」と思うが、随分違うものだ。
なお、「未完成」交響曲のCDには、名演奏がいくつもあるだろう。別にウィーンフィルのお家芸だと決めつける必要はない。私が愛するシュターツカペレ・ドレスデンでもブロムシュテットの指揮による、オーケストラの響きを心ゆくまで味わえる演奏があるし、各人がマイブームCDを持っているだろう。アメリカのオケでもいい演奏はある。というより、腕前のしっかりしたオーケストラが、センチメンタリズムに陥らないまともな指揮者の棒でまじめに演奏すれば、立派な演奏が可能なようである。感傷やどろどろした感情移入を盛り込んだ演奏は、いくらオーケストラが優秀でも「未完成」交響曲の名演奏にはなりにくいと私は考えている。シューベルトはシューベルトであって、チャイコフスキーでもなければ、マーラーでもないのだ。
最後にボストン響の演奏を挙げておく。
■ ヨッフム指揮ボストン響盤
モーツァルト
交響曲第41番ハ長調 K.551「ジュピター」
シューベルト
交響曲第8番ロ短調 D.759「未完成」
ヨッフム指揮ボストン響
録音:1973年
DG(輸入盤 2530 357)虚飾のない美しい演奏である。商業ベースではいかにも地味そうな指揮者とオケの組み合わせだが、「未完成」交響曲だけを聴いても十分なカタルシスを味わうことができる。
ちなみにケルテス盤、クライバー盤との演奏時間を記載してみると以下のようになる。ケルテス盤、クライバー盤ともに第1楽章のリピートを行っている。
指揮者 第1楽章 第2楽章ケルテス盤 15:30 12:02クライバー盤 13:56 10:42ヨッフム盤 10:54 11:03
(2004年10月11日、An die MusikクラシックCD試聴記)