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ベルナルト・ハイティンク 前編

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ハイティンク コンセルトヘボウ管弦楽団を代表する指揮者といえば、これはもうハイティンクの名を挙げざるを得ません。彼が1999年に「名誉指揮者」の称号を受けたのはなぜか。その理由は、これを読むとなんとなく理解できる気がしてきます。これは<はじめに>で紹介した次のLPのライナーノーツです。

『シューベルト:交響曲第9番+チャイコフスキー:交響曲第5番/ハイティンク指揮コンセルトヘボウ管弦楽団』(フィリップス)

 1979年に二枚組限定盤として発売されたこのLPに付けられた大木正純氏の解説は、他からの流用ではなくこの限定盤LPのために書き下ろされたもののようでして、そうだとすればほとんどの人の目に触れないまま消え去ってしまう運命にあります。それではあまりに惜しい内容なので、ここに無断転載させていただくこととしました。タイトルは「ハイティンク〜コンセルトヘボウ管弦楽団の芸術」です。冒頭1/4ほどはハイティンクの略歴ですので割愛します。ではどうぞ。

《ところで、コンセルトヘボウ管弦楽団の常任に登用されたとき、ハイティンクはまだ30台を迎えたばかりの若さであった。いかに才能に恵まれていたとしても、経験が大きく物をいう指揮の世界で、そのキャリア不足が隠せなかったのはやむを得ないところであろう。ヨッフムとハイティンクの併用は、ぜがひでも自国の人間をという強い意志が一方にあり、さりとて若いハイティンクに全幅の信頼を置くには至らないコンセルトヘボウ側の苦肉の人選だったのかも知れない。しかもハイティンク自身にも、頭を悩まさなければならない問題が一つあった。コンセルトヘボウ管弦楽団には、50年の長きにわたってこのオーケストラを率いたウィレム・メンゲルベルクというすこぶる個性的な大指揮者が過去にあり、さらにそれを継いだベイヌムは、オーケストラをまた違った方向に導いた。しかもいまは大家ヨッフムが自分のかたわらにいる。このような歴史と現状の中で、みずからの進むべき道を一体どの方向に見定めたらよいのか。そんな難しい状況のまっただ中に一人の若手が放り出されたのである。オーケストラの掌握もさることながら、彼はまず自分自身の青写真を描くことから始めなければならない。

 果たせるかな、ハイティンク〜コンセルトヘボウ管弦楽団のスタートはすべてに順調というわけにはゆかなかった。1962年の来日公演も概して不評であったし、レコードの領域をみても少なくとも60年代前半にはこれといった成果がない。このオーケストラそのものの将来に不安を投げかける向きさえ当時は少なくなかったものである。だが、その危惧がただの取り越し苦労に終わったのはいまやまったく疑う余地がない。そして当時の「危機」を乗り越えたことが、ハイティンク〜コンセルトヘボウ管弦楽団のこんにちの充実の基盤になっていることを、われわれはつくづく感じないわけにはゆかないのである。

 当初コンセルトヘボウの面々が、新人ハイティンクをどのような気持で迎えたかは知る由もない。だが、ヨッフムの起用が一時的なものにすぎないことは、このオーケストラの伝統からみて彼らも予期していたであろう。自分たちの未来は、結果がどう出るにせよ、ハイティンクの存在を抜きにして思い描くことはできない。この指揮者が、深く信頼し得る自分たちのリーダーに成長することが、そのままオーケストラの輝かしい未来につながるのである。従って楽員たちのなすべきことはただひとつ、未熟なハイティンクに不満を唱えることではなく、彼を全面的にバックアップし、ともに努力することであった。そんな気持がハイティンクに伝わらないはずはなく、彼も、栄光のアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団にふさわしい指揮者像をみずからの目標として掲げ、その重荷を背負いながら長い道のりを歩き始めたのである。すぐれた伝統を持つ名オーケストラと非凡な指揮者にしても、それは決して生易しいことではなかった。だが彼らは遂にその困難な仕事をやり遂げる。

 このようにハイティンクは、終始強力な指導力をもってコンセルトヘボウ管弦楽団をリードしてきたわけではまったくなかった。むしろ彼は、楽員たちと手を取り合いながら少しずつ坂道を登ってきたのである。もって生まれた才能の豊かさはあったとしても、ハイティンクの芸術はあくまでこのオーケストラとの関わりの中でこそ形成され得たものであり、その意味でコンセルトヘボウは彼の恩人であるといってもよいだろう。だが、幸せなのは決してハイティンクばかりではない。なぜなら、そのことをオーケストラ側からみるならば、彼らには、ハイティンクはまさに自分たちが手塩にかけて育てた指揮者であるという無類の親近感、さらには、彼の成長にほとんどその第一歩から深くかかわり合ってきたという一種の満足感があるに違いないからである。

 指揮者とオーケストラとのこのような幸福な関係は、こんにちではきわめて異例なことであるといわなければならない。なるほどいまも世界には、一つのオーケストラに長年にわたって君臨する大指揮者がまったくいないわけではない。しかし、指揮者がほとんど無名に近い時代から大家の域に達するまで、それも名門と呼ばれるオーケストラと行動を共にするような例がほかにあるだろうか。しかもコンセルトヘボウ管弦楽団は、ハイティンクの個人的な成長にぴったり歩調を合わせるようにして絶えず前進を続け、低迷の時代を乗り越えて現在の充実を手にしたのである。このようにみてくると、このコンビの活動が他に類をみない強固な基盤の上に立っていることはもはや明らかであり、両者間の強いきずなが彼らの音楽の手ごたえをいやが上にも確かなものにしていることもまたあわせて理解されよう。苦渋に満ちた長い時間を共に過ごし、ついに自分たちの芸術を掘り当てた者たちだけの、それは本物の強みである。

 ハイティンク〜コンセルトヘボウ管弦楽団が明らかな上昇の兆しをみせ始めたのは1960年代の半ばであった。マーラーおよびブルックナーというこのオーケストラにゆかりの深い交響曲全集はそのころから吹き込みが開始され、長い時間をかけて完成されたレコード面での大仕事だが、概して録音があとのものほど演奏内容がすぐれているという事実に、このコンビの当時の状況がありありと映し出されている。さらに、それにも増して特筆すべきは1970〜73年録音のブラームスの交響曲全集で、最後にレコーディングされた第2番ニ長調が、ようやく自己の表現を確立するとともにオーケストラの特質を完全に把握したハイティンクが、その確信に満ちた棒さばきを繰り広げる名演であり、それが4曲の中でも出色の出来映えをみせているあたりに、彼らの急成長をまざまざとみることができるのである。

 だが、彼らはそこで歩みをとめたわけではまったくなく、よりいっそうの充実が待っていたのだった。1974〜75年の2年間になされた一連のレコーディングがその見事な証明で、ここにハイティンク〜コンセルトヘボウ管弦楽団の芸術はひとつの頂点に登りつめることになる。それらはまさしく手造りと呼ぶにふさわしい磨き抜かれた演奏であり、指揮者ハイティンクのさまざまの美質が余すところなく発揮されるとともに、オーケストラも、弦はいうに及ばず管もこの上なく充実して、全盛期の再来を実感せずにはいられないすばらしい仕上がりをみせている。このアルバムに収められたシューベルトおよびチャイコフスキーの交響曲2曲は、マーラーの「大地の歌」やシューベルトの交響曲第5番ならびに「未完成」とともに、いずれもそれら一連の録音の中の一つであり、ハイティンク〜コンセルトヘボウ管弦楽団が到達した孤高の高みを示す名演奏である。》

 いかがでしょうか。「ハイティンクは若いときから一流オケを与えられたラッキーな指揮者」みたいな安直なプロフィールをよく見かけますが、とんでもないことです。

ハイティンク読本 わたしはこのライナーノーツを繰り返し読みながら、このシューベルトとチャイコフスキーのレコードを何度も聴いてきました。そのような人間の手元には、例えば『ハイティンク読本』なる小冊子も、もちろん大事に保管されております(写真左)。これは文中に出てきたマーラー、ブルックナー、ブラームスを含むハイティンク/コンセルトヘボウ管弦楽団の「6大交響曲全集」の国内盤が1994年に発売された際、発売元の日本フォノグラム社が作成した宣伝材料です。評論家や音楽家が寄せたコメント、CDのカタログ等と共に、ハイティンクへのインタビューも掲載されていますので、関連する部分を抜粋してみましょう。

《私はまだ非常に若かったとき−若すぎたと言えるかもしれません−コンセルトヘボウ・オーケストラの音楽監督に就任したわけですが、私はレパートリーの幅を大きく広げました。それは生き方の問題でもあったのです。》

《もし私がマーラーの交響曲を手中に収めていると思われるなら、それはコンセルトヘボウとともに何年も苦労したおかげです》

《コンセルトヘボウを率いる立場に押し上げられてから最初の10年間は、私がオーケストラの指揮でどれほどのことが出来るか確信がもてませんでした。あまり若輩者の手にコンセルトヘボウのような楽器を託すのは間違いかもしれません。でも私は辛い修行時代があったおかげで現在評価されるようになったのだと感謝しています。それでなければ、いまの私は違っていたでしょう。私は何度かあやまちもおかしつつ、オーケストラに対する責任をゆっくり学び取りました。》

 このインタビューが行われた時期は記されていませんが、大木氏があの解説を執筆した1979年よりは後年と思われます。大木氏が書かれた内容を本人がそっくり裏付けている。なんとも感慨深いことです。

 そして修行時代に彼がコンセルトヘボウで積み重ねていた苦労の一端については、『クラシックCDの名盤 演奏家篇』(宇野功芳・中野雄・福島章恭著,文藝春秋,2000)で紹介されています。最近の本で入手は容易でしょうから引用はしません。ハイティンクの頁をご覧ください。ちなみにこの本のヨッフムの頁に登場するコンセルトヘボウ管弦楽団第一ヴァイオリンの岩田恵子氏が、楽団HPの現メンバー表で「空席」となっている一人です。

「ベルナルト・ハイティンク」後編はこちらです。


(An die MusikクラシックCD試聴記)