クーベリックの「我が祖国」

管理人:稲庭さん

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スメタナ
「我が祖国」
クーベリック指揮チェコ・フィル

CDジャケット CDジャケット

1990年(プラハ、スメタナ・ホールにおけるライブ

1991年(東京、サントリー・ホールにおけるライブ)

Supraphon(輸入盤 SU 1910-2 031)

Altus(国内盤 ALT098)

 

■ はじめに

 

 掲示板でも話題になりましたので、皆様ご存知かと思いますが、クーベリックがチェコ・フィルと1991年にサントリーホールで行ったスメタナの「我が祖国」の録音がAltusから発売されました。

 ところが、ご存知のように、クーベリックには1990年にプラハ音楽祭でチェコ・フィルと録音した同曲の録音がSupraphonにあります。

 ところで、上記AltusのCDのライナーノートは、許光俊氏が執筆されており、その演奏を激賞しているのですが、その中でSupraphonに収められた演奏についても触れられております。引用しますと、以下の通りです。

「けれども、プラハで行われたコンサートはわれわれが期待したほど素晴らしいものではなかった。CD化されたライヴ録音(スプラフォン原盤、コロムビア)を聴いても、表現の豊かさ、広がり、細やかさ、緊張感、いずれも今ひとつのように思われる。漏れ伝わってくるところによると、本番前の総練習がすさまじい演奏で、指揮者もオーケストラも疲労困憊してしまったとのことだった。」

 最後の、「疲労困憊」の件は私には知る由もないことですが、録音として残された二つを聞き比べることはできます。そこで、この二つを簡単に比べてみたいと思います。

 

 前提

 

 1991年のサントリーホールでの演奏を私は聞いておりません。当時まだ田舎の高校生だった私(今でも、田舎出身という事実は変わりませんが)はようやく音楽というものに興味を持ち始めた程度でした。当然のように、1990年のプラハの演奏も聞いておりません。

 プラハの演奏を聞いた、という方はさすがにあまりいらっしゃらないと思いますが、東京での演奏を聞かれた方はたくさんいらっしゃると思います。そういう方々にとっては、今回Altusから発売されたCDは、「あの演奏会」を回想させるものであると思います(許氏もそのスタンスで書いています)が、私にとっては、どちらの録音も聞いたことのない演奏会の録音に過ぎません。

 

■ 比較
(1)録音

 

 さて、某CDショップのオンライン・ショップでも、許氏の解説でも、プラハでの演奏の録音は褒められたものではないということが述べられておりました。そのことについては、以前に一度書いたことがあります(「あなたもCD試聴記を書いてみませんか?」にあります)。確かに、ここでのスプラフォンの録音も、「明瞭」と呼ばれる録音から比べれば、かなり「ぼやけた」録音です。これを「今ひとつ」というのであれば、確かに今ひとつでありますが、スプラフォンの録音の中ではかなりましなほうであると思います。しかし、確かに、DeccaやPhilipsの録音を比べると「今ひとつ」ではあります。また、Altusの物に比べると、弦楽器を主体にしたバランスのように思います。これは、私の好みではありますが、しかし、この「我が祖国」という曲はかなり金管楽器が活躍する曲です。金管楽器がフォルティッシモで吹いたときに果たしてこういうバランスになるのか、というのはAltusの録音を聞いて初めて出てきた疑問でした。

 これに対して、今回のAltusのCDは「録音がよい」ということが言われておりました(某CDショップ)。さて、どうでしょう?確かにスプラフォンの録音とは違い、高音楽器の高い方の音、低音楽器の低い方の音は明瞭に入っていますし、楽器ごとの音の輪郭がぼけるということも少ないように思います。しかし、やはり何か不自然なものを感じないわけではありません。例えば、モルダウの「聖ヨハネの急流」の場面では、大太鼓が出てきますが、いきなり他の楽器をほとんど圧して出てきます。これを聴いてしまうと、「はたして、チェコ・フィルの打楽器はこんなセンスの悪いことをするだろうか」と疑問を禁じえないのです。また、ヴァイオリンの音を例にとりますと、下の方の倍音が全く感じられない、非常にキンキンした、薄っぺらな音に感じることがあります(とりわけ、高音を弾いているとき)。また、全体的にいえるのですが、非常に低音が強調されているように思います。チェコ・フィルはシュターツカペレ・ドレスデンのような、重厚な低音を出すオーケストラではなかったのではないかなと思ってしまいます。また、これは、好みの問題になるのでしょうが、左右の広がりもあまりないように思います。

 結論から言えば、確かにスプラフォンの録音は(常に?)「今ひとつ」ですが、Altusの物も(録音の発売を意図していなかったのだから当然かもしれませんが)別の意味で「今ひとつ」です。

 しかし、完璧に近い録音とはなんなのでしょうか。私のように、現実のオーケストラの響きを、ホールごとに正確に記憶できないものにとっては、好み以上のものではないのかもしれません。しかし、まあ、ここではそういった原理的な問題は問わないことにしましょう。いずれにせよ、どちらの録音も「名録音」と呼ばれる録音からすれば劣ることは確かであると思います。

 

■ (2)演奏

 

 ほとんど同じ時期に、同じ指揮者と同じ楽団が同じ曲を演奏したのですから、天と地ほどの差があるとは初めから期待していませんでしたが、聴いた結果もそのように思いました。しかし、全体的な雰囲気の違いはあるように思います。

 さて、許氏は前述のように、プラハでの演奏は「表現の豊かさ、広がり、細やかさ、緊張感」のいずれも「今ひとつ」であったと述べていますが、私は違うように聞きました。この中で、もし許氏に同意する点があるとすると「緊張感」は東京での演奏の方が勝っている、という点です。

 プラハの演奏では、チェコ・フィルは東京での演奏よりもずっとくつろいで演奏しているように思われます。それだけに、何か一点に集約されていくような「すさまじいもの」を感じることはそれほどないのですが、ソロの一つ一つ、フレーズの一つ一つが余裕を持って演奏されているように思います。その結果、適度の「遊び」が出てきていることは確かで、私などはそういう「遊び」こそが「表現の豊かさ」とか「細やかさ」につながるものではないかと思ってしまいます。

 これに対して、東京での演奏は、がっしり固められた質実剛健な建築物のような演奏であるように思われます。そして、これは、当然のことながら、極めて「緊張感」の高い、立派な演奏です。しかし、こういう演奏の場合、聴くこちらもある一点からこの演奏を一生懸命聴くという鑑賞態度になってしまうせいか、「あれ?え?」といつの間にか引き込まれている自分に驚いている、という瞬間はプラハでの演奏の方に多かったように思います(例えば、「ブラニーク」で、弦楽器が延々と三連譜を演奏している中間の部分など)。

 

 まとめ

 

 さて、以上のようにまとめてみました。録音に関しては、どちらも完璧とはいえないし、それは、自らの記憶が正確ではないという原理的な問題でもあるのですが、それを度外視しても、「名録音」といわれる条件を、双方とも、備えているようには思われません。

 演奏に関して言えば、プラハでの演奏は多少の余裕の中での堂々たる演奏であると思います。それが東京での演奏に比べて多少緊張感に欠けると感じられる方がいらっしゃったとしても、それはそのとおりだと思います。これに対して、東京での演奏は高い緊張感の中で、無駄を排した圧倒的な演奏ということになるかと思います。

 ここから先は、好みの問題です。文章をお読みになった方は既にお分かりのように、私はプラハでの演奏の方により愛着を感じています。

 しかし、それは全て演奏のせいなのでしょうか?
それとも、その演奏のイメージそのものが録音の方向性が持つイメージに左右されているのでしょうか?
それとも、単に、今までチェコ・フィルを色々聞いてきて、そのイメージに近いものを好んでいるだけなのでしょうか?
それとも、「我が祖国」という曲の捉え方の問題?
さて、皆様は(とりわけ、東京での演奏を生でお聞きになられた方)は、これら二つの演奏にどのような印象をもたれましたでしょうか?

 

 

クーベリックのページにおける松本さんのレビューはこちらです

 

(2005年4月15日、An die MusikクラシックCD試聴記)