クーベリック最期の演奏会(東京ライヴ)を聴く
■スメタナ:交響詩「わが祖国」

文:松本武巳さん

ホームページ  WHAT'S NEW?  「クーベリックのページ」のトップ


 
クーベリック指揮チェコフィルによるスメタナ:わが祖国東京ライブCDジャケット

スメタナ
「わが祖国」全曲
ラファエル・クーベリック指揮チェコ・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1991年11月2日、東京サントリー・ホールライヴ
Altus(国内盤 ALT098)

 

■ まさに一期一会の演奏とされているが・・・

 

 クーベリック最期の演奏会である東京ライヴ(1991年11月2日)がついに正規発売された。今日そのCDを聴き、当日の記憶が甦り、今感動の最中にあるところである。私は普段あまり音質にはこだわらない方であるが、このCDは当日の雰囲気をまずまずうまく捉えており、14年前にホールで感涙に咽んだ実体験が眼前に浮かんでくる。再び今日感涙に咽び、ライヴ録音には、元来数多くの問題があるにもかかわらず、このCDへの感謝を私は捧げる次第である。

この日、私はあるピアニスト夫妻とともに会場に身をおいた。隣の女流ピアニストとその夫君の、演奏会後の独白に近い発言まで記憶に甦ってきた。彼女らが曰く「これは指揮でも、オーケストラ演奏でも、音楽でも、演奏でもない。セレモニーでも、ましてやイヴェントでもない。まさに無我の祈りの境地で、お遍路さんが旅をするように感じる。たまたまチェコのお遍路さんたちが、東京札所に参詣した際のお祈りの場に、偶然に邂逅したような摩訶不思議な気持ちでいっぱいだ。」と・・・

 

■ すべてが楽譜の指示どおり進行し、爆演と最も遠い演奏

 

 さて、少しは客観的な演奏の話をしておこう。このCDの演奏時間は、クーベリックのそれまでの「わが祖国」よりも少々長い演奏時間である。ところが、長い演奏時間の主因は、まさにインテンポで最初から最後まで押し通し、何一つとして変わったことは一切行わず、楽章後半のアッチェレランドもなく、ほぼ淡々と、楽譜の指示をそのまま守りつつ、最後まで進行していくことに尽きるのである。

その演奏スタイルは爆演とはもっとも対極にある、実に落ち着いて堂々とはしているが、一歩間違えるとライヴらしくない、聴かせどころもない、平凡に堕する危険すら孕んだ演奏である。楽章の後半までインテンポで押し通す分、いつものクーベリックよりも若干時間が余計にかかっているので、仮にこの演奏を、たとえば数小節ずつぶった切って聴いたとすると、まさに平凡な教科書的な演奏に感じるかも知れない。そんな演奏である。しかし、実際には演奏が始まってすぐに、「あぁ、あの日の演奏だ!」と察知できるのである。何がどう、いわゆる凡演と、この日の歴史的演奏は違っているのだろうか?

 

■ 私が神や愛を語るのと、ローマ教皇がそれを語ることの決定的相違

 

 私が今、皆さんに「神の存在」とか「人類愛」を突然語ったとすると、皆さんはどう思われるであろうか? 多分、発狂したと思い精神病院に収容するか、あるいはシタゴコロが何かあるに違いないと思われるか、どちらかであろう。しかし、好きか嫌いか、受容するか拒否するかは別として、ローマ教皇が「神」や「愛」を語ったときに、私に対する思いと同じように感じ、行動する方はいないであろう。それを語るローマ教皇その人の人格や精神自体を心配される方はいらっしゃらないであろう。二人の何がどう違うのであろうか?

 多分それは、正否はともかくローマ教皇の場合は、人生を「神への奉仕」に捧げていることを前提にして話を聞くのに対し、私は当然のことであるが俗世間に塗れている人間であり、あらゆる欲望や煩悩と何一つ決別することなく、むしろそれらを求めて日々を過ごしているから、私が「神」や「愛」を突然語ると全く似合わないのであろう。

 

■ すべての私利私欲から切り離された、献身的な演奏行為

 

 さて、この日のクーベリックとチェコ・フィルのメンバーは、神や愛は語っていないが、彼らは再び東京で邂逅し、「わが祖国」を共演することが叶い、時と場所その他の時空間をすべて超越した境地に至り、眼前の聴衆も脳裏からは消し去り、心よりチェコの国民的楽曲を、チェコ国民と、スメタナと、チェコ・フィルと、クーベリックがその思い(民族自決にとどまらず)のたけを、私利私欲から切り離し、献身的にぶつけたものであると感じる。彼らの共通言語である「チェコ語」以上の共通言語である、スメタナの「わが祖国」の楽曲に身を委ねて、民族の賛歌と国民の喜びをともに分かち合うグラゴル語のミサのように、お互いの心を共有するための方策として、この音楽を無我の境地で奏でたのであろう。

 

■ プラハの春との決定的な違い=奏者も聴衆も同罪である

 

 では、1990年5月の「プラハの春」の演奏会では、歴史的事件としての重要性は別とすると、演奏自体はさして優れたものにならなかったと云われていることと、この日の演奏会とは一体どこが違っているのであろうか? 私は以下のように思うのである。

 それは、1990年の再会は歴史的事件であることが全てで、残念ながら音楽上の再会ではなく、政治的なことを含む歴史的な「イヴェント」であるにとどまってしまったのではないだろうか? もちろん、その意義は世界史・音楽史の重要な1ページを飾るには違いないが、音楽としての演奏レベルそのものは、二の次とまでは言わないが、やはりそこまで達することが両者ともに、それ以外の諸々の思いが強すぎて達成できなかったのであろう。したがって「プラハの春」での「わが祖国」は、祝典音楽としての演奏にとどまった部分がないとは言えないのではなかろうかと、今私は思うのである。これは、奏者のみならず、歴史的なイヴェントと捉えたのは政治家も聴衆も同じであり、「プラハの春」が歴史的事件にとどまり、歴史的演奏レベルに至らなかったことは、すべての関係者の共同正犯であったと言えよう。

 

■ 捨我精進の鐘の音(ね)、または宗教心をも超越した無の境地

 

 さて、さきほど、ローマ教皇が語りかける「神」や「愛」の話をしたが、当日のクーベリックやチェコ・フィルのメンバーは、殉教者ではもちろんない。しかし、反対にこのことは私にはローマ教皇の発言をも超える、超人的な事件であったように感じる。捨我精進の鐘の音(ね)が私の心に鳴り響くのを感じるときに、もはや崇高な宗教をもはるかに踰越した、無の境地に彼らの演奏が達していたようにしか思えない。これは、宗教心といえども、何かを伝播しようとか、私利私欲ではないにしても、ある種の人間的な意欲的行為であると考えられるのに対し、この日のクーベリックとチェコ・フィルのメンバーは、何一つ見返りを求めてはいない、まさに「無償の愛」を、その存在すら問わない形で問うているように思われてくるのである。いったい彼らは、何を求めてこの日の演奏をしたのか?

 私には、ただ単にチェコ・フィルのメンバーが、クーベリックという大指揮者と、2時間足らずの時間を共有することのみに対する賛歌であったとしか思えない。しかもその賛歌はほとんど自発的演奏行為として、民族の象徴的作曲家の象徴的楽曲であるスメタナの「わが祖国」の世界で、両者の心が通い合ったのであろう。まさに極東の島国だからこそ、彼らが周囲の諸国を気遣うことなく心のたけをぶつけ合い、過ぎ去った過去をお互いに癒したのであろう。彼らにとっては、彼ら自身の心の隙間を癒す窮極の「ヒーリング・ミュージック」であったのかも知れない。

 

■ 狂信的になる一歩手前で踏みとどまった、奏者と聴衆の一体化の極致

 

 このような行為は、実は結構危険な行為でもある。それは、聴衆と一体化し、暴徒と化すとか、密教の世界に入り、ほとんど新興宗教の儀式のように、他人から見ると狂人集団と化す場合も多いのであるが、この日の聴衆はとても幸いなことに、民族的な共通項がまったくない「日本人」であったためか、そのような「興奮の坩堝」に陥ることもなく、世紀のコンサートとなったのであろう。

 

■ 好き嫌い以外の、客観的な演奏評論が無意味な歴史上の事件

 

 この演奏の分析をすることには、多分何の意味もないであろう。たとえば、第4曲「ボヘミアの牧場と森より」の後半部分の第1ヴァイオリンのアンサンブルではっきりとした乱れを見せる、云々・・・と言うことも不可能ではないが、これが戯言であると私が信じる理由について、以下のように言いたい。「ミロのビーナスに欠けている腕を、あなたは復元してつけたいと思いますか?」とだけ・・・好きか嫌いかの土俵にはもちろん乗せるべきであるし、意外に「嫌いだ」とか「とてもついていけない」との感想は多いと考える。

 

■ 14年の時が過ぎ去って、今私が思うこと

 

 私の人生において、かけがえのない2時間であったし、その感涙に咽んだ記憶を甦らせてくれた、このライヴCDの発売に心からの感謝を捧げる。ライヴ録音の問題点は多々あることは、承知しているし、個人的にもどちらかと言えば、普段は否定的な見地からライヴCDを捉えているが、この歴史的事件を発売してくれたことに対しては、私は本当に宝物を得たように感じ、感謝するものである。

 クーベリックが亡くなってすでに随分とときが経過した。その時系列を1991年当時に引き戻してくれたことに感謝しつつ、同時に自分の人生もすでに後半生に立ち入ったことへの感慨を覚える。私もいつかは生命体を終えるときがくるに違いない。それまでに、私が「後世への贈り物」を公的・私的を問わず他人に贈ることは可能であろうか? 無為な前半生を今一度繰り返すだけにならないようにとの自戒を、私に与えてくれた今回のライヴ録音の発売であった。これからも世間の批判に耐えて、元気に闘って生きて行こうという勇気と力を、私に再び与えてくれた。クーベリックよ、本当にありがとう!

(2005年4月14日記す) 

 

 

 

チェコフィルのページにおける稲庭さんのレビューはこちらです。

 

(文:松本武巳さん 2005年4月15日掲載、An die MusikクラシックCD試聴記)