ノイマン指揮によるスメタナの交響詩
管理人:稲庭さん
スメタナ
交響詩「リチャード三世」
交響詩「ワレンシュタインの陣営」
交響詩「ハコン・ヤール」
「シェイクスピア祭のための祝典行進曲」ヴァーツラフ・ノイマン指揮チェコ・フィル
録音:1974年、ドヴォルザーク・ホール、ルドルフィヌム
Supraphon(輸入盤 SU 0198-2 001)このCDにはその他にプラハ交響楽団の演奏で、「祝典序曲ハ長調」、ポルカ「田舎の少女」、ポルカ「われらの乙女たちに」(ヴァーレク指揮)、「プラハの謝肉祭」(ビエロフラーヴェク指揮)が収録されています。
■ はじめに
スメタナの交響詩?「我が祖国」でないの?と思われた方、いらっしゃったら、申し訳ありません。初めにどのCDを紹介しようかと考えていたのですが、考えていたようで、実は考える前から決まっていたのだと思います。そのくらい私はこのCDが好きです。というのは、このCDには、しばしば不安定な演奏が見られるようになる以前のノイマンとチェコ・フィルの充実した演奏が、それなりの録音で、収録されていると思われるからです。
■ 曲の紹介
スメタナは、ドヴォルザークなどと比べると、それほど多作であったとはいいがたい作曲家です。そして、最初ピアニストとして出発したこともあり、彼が書いた管弦楽曲はさらに少数です(『クラシック音楽作品名辞典』(三省堂)には20曲ほどが載っています)。そして、その中でよく演奏されるのは「我が祖国」だけといってもよいのではないかと思います。しかし、今回取り上げるのは、スメタナが「我が祖国」を作曲するおよそ20年前の1858年から61年にかけてスウェーデンで作曲した交響詩、「リチャード三世」、「ワレンシュタインの陣営」、「ハコン・ヤール」の3曲です。この時期のスメタナはリストを尊敬しており、これらの曲もリストの影響下にあったといわれています。また、スメタナがこれ以前に作曲した管弦楽曲は、「祝典序曲」(ニ長調)、「われらの乙女たちに」、「祝典交響曲」の3曲だけであり、また最初のオペラ「ボヘミアのブランデンブルク人」はまだ作曲されていません。つまり、これらの曲はスメタナが手がけた管弦楽曲としては初期のものに属するのです。
■ 曲の特徴
しかし、それでもこれらの曲から後年の傑作「我が祖国」につながる様々な要素を聞き取ることは非常に容易であると思います。
例えば、これらの曲の特徴としてまず挙げられるのは、同じリズムを徐々に音階を変えて延々と繰り返しながら、いつの間にかクライマックスに達するという手法です。「我が祖国」でもこのような手法がいたるところで見られるのは皆様ご存知のとおりです(例えば、逆に、徐々に静かになっていく例ですが「ボヘミアの森と草原から」の冒頭)。
また、「ワレンシュタインの陣営」は、他の2曲がいかにもリスト調という曲想であるのに対して、舞曲の要素を多く持っています。舞曲といえば、例えば、「モルダウ」(118小節から)にも見られますし、「シャールカ」(145小節から)、「ボヘミアの森と草原から」(234小節から)など枚挙に暇がありません。
そして、「ハコン・ヤール」にはスメタナらしい、甘すぎない叙情をただよわせた部分も見られます。これは「我が祖国」で言えば、「シャールカ」のシャールカとツティーラトの愛の部分に当たるでしょうか(103小節から)。余談ですが、「シャールカ」のこの部分は私が「我が祖国」の中でも最も好きな部分の一つです。
■ 二つの演奏
さて、この曲のCDは幾つぐらい出ているのでしょうか。チェコ・フィルの演奏したものは3つほど確認しています(クーベリック、シェイナ、ノイマン)が、それ以外のものとなるとクーベリックが指揮したバイエルン放送交響楽団のものしか聴いたことがありません。そこで、ここではノイマン、チェコ・フィルとクーベリック、バイエルン放送交響楽団のものを大雑把に比較し、さらに、比較によって浮かび上がるノイマン盤における印象的な場面をいくつか述べてみたいと思います。
■ 全体的な印象
クーベリック盤(左ジャケット写真、ボストン響との「我が祖国」を含む)のほうは、ノイマン盤よりも録音が良いことも手伝って、細かい音が良く聞き取れますし、演奏そのものも様々な指示を良く守っているように思います(「思います」というのは、スコアを持っていないので正確なところは分からないためです)。ノイマンと比べると、個々のブロックをきっちりと組み立てる演奏といえばよいでしょうか。
これに対して、ノイマン盤は、曲の始めのほうでは「あれ?ずいぶんおとなしいかもしれない」と思わせることが、クーベリック盤と比べれば、あるかもしれません。しかし、逆に、曲を大きく捉えていつの間にかクライマックスに持っていくという点に関してはこちらの方が上の様な気がしますし、上記の様な特徴を持つ曲ですから、こちらの方がこれらの曲にふさわしいように思います。
■ ノイマン盤おける印象的な場面
両方の演奏とも、それぞれ特徴のある良い演奏で、出来ればどちらも聞いていただきたいのですが、ノイマン盤にはクーベリックがいかに望もうとも手に入れることの出来なかったものがいくつか発見できるように思います。
一つは、「リズム」です。先にも書いたように、「ワレンシュタインの陣営」では舞曲的な要素が多く見られるのですが、一箇所、それまで盛り上がっていた音楽が、突然打ち切られ、それまでの動機が変形されてもはや舞曲以外の何物にも聞こえなくなる瞬間があります(ノイマン盤では6:44近辺、クーベリック盤では6:23近辺)。こういう音楽を演奏する瞬間のチェコ・フィルは本当に素晴らしい。それぞれの音符の長さ、アクセントの位置と程度、それらの全てが、重すぎず、かといってそっけないのでもない、そういう音楽を出現させています。こういう、「愉悦的な」とでも呼びたくなるリズムはノイマン時代のチェコ・フィルの特徴の一つだと思います。ノイマンの指揮姿をご覧になったことがある方には、あの、体をゆすりながら、打点にさっと向かっていって、ポンと打点を打ってからするっと戻っていく、あの一種不器用にも見える動作から出てくるリズム感、といえばご納得いただけるでしょうか。
次に「歌」です。それも、重くならず、甘くなりすぎない、きっぱりとした「歌」です。それは「ハコン・ヤール」の叙情的な主題(ノイマン盤では5:01近辺、クーベリック盤では4:48近辺)に聞かれます。ここでの、絶妙な楽器の重ね方(はじめはVn+Fl、次にVn+Vc)と歌い方を聞いてみてください。この、ヴァイオリンが高音でさりげなく、なおかつきっぱりと入ってくる瞬間から徐々に展開される「歌」は、チェコ・フィルの美質を十全に示しているように思います。そしてもう一箇所、同じ主題が再現される際の雄々しさをとの描き分けを聞いてください!(9:10近辺)。
そして、最後に、「歌」のところでも少し書きましたが、楽器の重ね方です。ここでは例として「ワレンシュタインの陣営」の冒頭の音を見てみましょう。クーベリック盤が、打楽器および高音の楽器がよく聞こえゴージャス(クーベリックの演奏に対してこういう表現は当てはまらないのかもしれませんが、あくまでも、ノイマン盤と比べた場合です)に聞こえるのに対して、ノイマン盤では、主体になるのはあくまでも弦楽器、かつ中音域が充実したそれであり、その周りに管楽器、打楽器が聞こえるという音になっていると思います。
実は、こういうオーケストラが一体となった響きに関して、弦楽器と管楽器がよく話題にされるのに対して、打楽器はあまり問題視されないように思います。しかし、チェコ・フィルの打楽器はこういうときに、全体のバランスの点から見て絶妙の音で入ってきます。余談ですが、このことに気が付いたのは、2000年の来日公演のときでした。そのとき、いずれかのコンサートのアンコールとして「スラヴ舞曲」の15番をやったのですが、それが直前に聞いたベルリン・フィルの同曲の演奏とあまりに違って非常に驚いたことがありました。というのも、ベルリン・フィルの演奏は「こりゃ、打楽器協奏曲だねえ」と思わせる「ド派手」な演奏だったのに対し、チェコ・フィルの打楽器は、あるときは他の楽器に寄り添い、あるときは引っ張り、実に音楽的な演奏をしたのです。それと同様の打楽器をこのCDでも味わうことができると思います。
■ まとめ
というわけで、スメタナの初期の交響詩のノイマンの演奏を紹介してみました。最初からマイナーな曲(ですよね?)で心苦しい面がなくはないと思うのですが、私のチェコ・フィル遍歴(そんな偉そうなものでもないのですが…高々数年の話です)の初期に聞いたもので、しかも現在でも聞くたびに「いい演奏だなあ」と思うもものです。もちろん、曲自体にもすごく惹かれるので、紹介させていただきました。是非、皆様聞いてみてくださいね。
■ 蛇足
皆さんは「モルダウ」を聞いていて、最後の二つの和音で「??」と思ったことはありませんか?その直前まで、延々と分散和音を続けながらディミヌエンドしてきた音楽が、突然、ジャン、ジャン、と二つのフォルティッシモの和音で終わるのです。私は、今でもときどき「この和音、なくてもいいのでは?」と思ってしまうことがあります。同じような、一種強引な終わり方が「ハコン・ヤール」にも見られます。この場合は、ジャン、だけで、さらに、直前が低音で落ち着いているだけに、余計に「??」となってしまうのですが。皆さんはどう思われるでしょうか。
(2004年6月4日、An die MusikクラシックCD試聴記)
伊東より:クーベリックのスメタナ交響詩録音についてはこちらもご参照下さい。