スメタナの「交響詩集」聴き比べ

文:松本武巳さん

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 チェコ・フィルを指揮したCD

 

交響詩「リチャード3世」
交響詩「ワレンシュタインの陣営」
交響詩「ハルコン・ヤルル」
クーベリック指揮チェコ・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1943年12月

 
CDジャケット
CDジャケット
CDジャケット

SUPRAPHON
国内盤
COCO-80362

SUPRAPHON
チェコ盤、ドイツプレス
SU 1911-2 001

SUPRAPHON
チェコ盤、2003年リマスター盤
SU 3710-2 001

 

 バイエルン放送響を指揮したCD

 

交響曲「リチャード3世」
交響詩「ワレンシュタインの陣営」
交響詩「ハルコン・ヤルル」
プラハの謝肉祭
クーベリック指揮バイエルン放送交響楽団
録音:
1971年12月

 

CDジャケット
CDジャケット

DG(輸入盤 437 254-2)

DG(輸入盤 459 418-2) (OIBP盤)

 

 今回の執筆動機

 

 多くを語る必要はないであろう。もちろんチェコ・フィルのページに応答させて頂くことが最大の意図である。しかし、マーラーとモーツァルトの続編を投げやってまで、なぜこのテーマに固執するのか? それはとても単純な動機で、私の最も愛するスメタナの曲は、何を隠そうこれらの一連の「交響詩」なのである。もちろん、「わが祖国」は本当に愛する楽曲であるが、私は「わが祖国」を聴くときは必ず全曲を通して聴く。ために80 分という時間の余裕がなければ「わが祖国」に手出しが出来ない。が「交響詩集」の方は連作ではないので、その日に聴きたい1曲を選ぶことが出来るのである。ところが、私は元来とても小心者で、稲庭さまのような「本音」から、クーベリックのページをスタートさせる勇気がなかったのである。稲庭さまには、ここに特記して私にもスメタナの「交響詩集」を評論させて頂く機会を与えて下さったことに感謝いたします。

 

 チェコ・フィルとのSP録音と、BRSOとの70年代初頭の録音

 

 クーベリックには、大要2つの「交響詩集」が存在する。亡命前の戦時中に録音されたスプラフォン盤は、一度CD化されたあと、リマスターCDが再発売されるなど、意外に現在も入手が容易な録音である。国内盤も一度発売されているほどである。

CDジャケット
交響詩「ハルコン・ヤルル」
クーベリック指揮チェコ・フィル
1945年録音、ライヴ
Classico Best
.ドイツ盤
Nr.1916-101

 その他、国内では「ヴルタヴァ」レーベルという、チェコの古いライヴ音源を専門に扱うことをうたい文句に、わずか数枚だけ発売された一連のCDが存在するが(発売は東芝EMI)、日本で発売されたCDの中に含まれていなかった1945年のライヴ録音で、「ハルコン・ヤルル」が存在する(ジャケット写真参照=オーケストラはチェコ・フィル)。非正規盤ではないかとの疑いを完全には払拭出来ないが、カップリングの諸曲が前述の国内正規盤で発売された経緯から推察するに、多分ライセンスを取得した物と解して、今回の俎上に載せることとしたい。もっともすでに著作権は消滅しているが…(なぜこの点にこだわるかと言うと、ドヴォルザークのピアノ協奏曲を競演したルドルフ・フィルクシュニーが、かつてインタビューで「クーベリックとの戦時中の録音を勝手に発売した」との発言をしていることが引っかかるためである=正規盤と合法の関係は「必要十分条件」を満たすが、非正規盤かつ合法な音源が存在しうることを強調したいのである)。ただし、聴いた感覚では、チェコ・フィルとのSP音源と同一ではないか? との思いもある。ただ、明らかに違った演奏に感じる部分もあるし、古い音源とはいえ、実演奏時間が15秒ほど違っている上に、ピッチのずれは両者ともにあまり感じ取れない。もしかすると、SPの原盤が複数ある部分が存在し、別テイクをそれぞれの復刻の際に使ったのかも知れない。話が逸れ過ぎたので元に戻したい。

 

 クーベリックの2つの録音について

 

 チェコ・フィルとのSP録音は、指揮者・オーケストラともに非常に気合の入った演奏で、稲庭さまがノイマン/チェコ・フィルの録音に対して書かれた「曲の後半にかけての盛り上がり」が、このクーベリック/チェコ・フィルでもはっきりと聴き取れる。『これがチェコ・フィルなのだ』という主張が感じ取れる。しかし、これをもってクーベリックのスメタナ交響詩集の代表とは到底言い難いと私は思う。その理由は以下の諸点である。

 第1:如何になんでも元の録音がSPでは、細部などは分析不可能である(稲庭さまと同じく、これほど好きな曲集ではあるが、スコアを持っていないので、明晰な録音であることは、この曲集の場合不可欠の要素となる)。リマスター盤の音質は、原盤がSPとは信じがたいクリアな物ではあるが、所詮、70年代のステレオ録音と同じ土俵で比較することは無理である。

 第2:クーベリックの指揮は30歳前後の若さゆえの、勢いが感じ取れるものの、やはり全体のまとまりや統一感において、後年のバイエルンとの録音に勝る点を見出すことは難しい。これは、若きクーベリックの一里塚としての良い意味での記録にすぎないであろう。チェコ・フィルもただの小僧指揮者でないためか、非常に敬意と熱意をもって演奏しているが、チェコ・フィルが真剣になればなるほど、クーベリックの若さが露呈しているような両者のバランスが崩れかかった箇所も何箇所か聴き取れ、これを「代表作」「名演奏」と私が強弁するなら、それは単なる「痘痕も笑窪」であり、正当な評論ではなくなってしまう。私の宝物ではあるが、他人にこの録音を強要するならば、もはやそれは「ペンの暴力」以外の何者でもない。この歴史的録音は、今後も私の内なる世界で留めることこそが、かえって大指揮者クーベリックへの私の敬愛の印となるであろう

 第3:稲庭さまもご指摘のとおり、クーベリックとバイエルン放送交響楽団の物は、録音も演奏内容も非の打ち所がないこと、確かに「グッ!」と来る盛り上がりに欠けるものの、この曲を広く読者に広めるための啓蒙と考えるならば、これ以上の演奏はちょっと考えられない。大学入試における『山川出版社の詳説日本史・詳説世界史』のような録音と言えよう。好悪は別にして、教科書として捉えたとき、ほとんど完全無欠な演奏と考える。

 

 お国ものとは?

 

 良く言われる、『お国もの』とは如何なる演奏を言うのであろうか。また、お国ものが好まれる事実と、その『国』以外の人間が『お国もの』に感動することとの関係は、本来的な矛盾であろうか? 私は以下のように考える。

 『お国もの』はどう考えても存在する。しかし、演奏行為と、聴き手としての『お国もの』ははっきりと区別が可能である。演奏者が、作曲家と同じ国の場合(特に指揮者もオーケストラも同じ場合)の、理屈を超えて、曲に共感し、没入していける、特別ななまりが存在することは否定しえない。一方、聴き手は、その曲(作曲家)と演奏者が太い絆で結ばれていることを察知することが出来るのも確かであろう。

 ところが、聴き手の中に、プロの演奏家がいたとして、彼がその際の聴後感をそのまま、みずからの演奏行為に取り込んだとしても、結果は惨憺たるものであろう。到底『お国もの』にはなりえない。ただの陳腐な『音』の羅列になるであろう。

 何故そのようなことになるのであろうか。それは形式的な演奏行為そのものは、音符を実際の音に変える行為に他ならない。しかし、演奏する際の、曲への言葉抜きの共感や、本能的な同化は、『お国』の演奏家しか享有出来えないと考える。ところが、聴き手の楽曲に対する共感は、演奏行為を結果として受容する行為であるがゆえに、その楽曲の脳への受動的な侵入段階で聴き手に求められる能力は、『音』としての結果であって、その前段階の『音符』では大抵の場合ないであろう、すなわち聴き手はどこの国の『お国もの』にも共感可能である。すなわち、『お国もの』をそのように演奏する特権が、『お国』の演奏家のみにある反面、聴き手は、どこの国の『お国もの』をも享有出来る特権を持っている。このように考えると、『お国もの』の演奏は限られるが、『お国もの』を味わうことは無限に可能であることになる。

 

 結局のところ言いたいこと

 

 私は、現時点での、スメタナの交響詩集の最高かつ絶対の名演は、クーベリック/バイエルンであると信じている。しかし、それは、『これらの楽曲の録音が、今後も数多く存在することなく、スコアの入手も困難な状況が続くならば』という留保がつく。すなわち、めったに聴けない楽曲の場合、正確に楽譜を音化している録音であることが、第一の要件として必須になる。よって『楷書体』の名演である「クーベリック/バイエルン」が、私の随一の録音となる。しかし、これが、同じスメタナでも「わが祖国」であれば、私は当然スコアを持っており、すでにCDを50種類ほど聴いているために、『楷書体』の演奏ではあまり満足できない。むしろ『草書体』『行書体』『隷書体』などの、色々な試みをしている録音に食指を動かすことになろう。従って、私は、稲庭さまと同旨の聴後感を感じ取った結果として、結論は、稲庭さまとは意見を異にする。それが、現状における、スメタナの交響詩集に対する私の評価である。この楽曲が好きなゆえに、いつの日か、クーベリックの録音が埃に塗れる日を心待ちにしようと思っている。

 

(文:松本武巳さん 2004年6月10日掲載、An die MusikクラシックCD試聴記)