クーベリックの「わが祖国」

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 クーベリックには正規盤だけで5種類の「わが祖国」がある。同じ指揮者が演奏しているのだから、どれも同じだろう、などと思ってはいけない。確かに、指揮者の「わが祖国」に寄せる熱い思いだけは同じだが、演奏時期もオケも違うために、全くといって良いほど違った演奏になっている。今回はその聴き比べをしよう。

 まずは1952年、シカゴ響との録音を聴いてみよう。

 

CDジャケット

スメタナ
連作交響詩「わが祖国」
クーベリック指揮シカゴ響
録音:1952年、シカゴ
MERCURY(国内盤 434 379-2)

 クーベリックは1950年から53年までシカゴ響の音楽監督を務めた。もし政治的理由によるクーベリックへの誹謗中傷がなければ、シカゴ響との関係は長期化し、名演が続々と録音されたと思われる。が、フルトヴェングラーに推薦されたという理由だけで、地元新聞の、しかも一音楽記者に振り回されたクーベリックは短期間でシカゴ響を後にする。まだナチスの記憶が生々しく残っていた時代だったことを考慮しても、憤懣やるかたない話である。

 閑話休題。クーベリックは1914年生まれだから、この録音当時はわずか38歳である。CDの解説には若々しいクーベリックの写真が掲載されていてまことに微笑ましい。そして、この録音で聴くクーベリックの演奏は、良い意味での「若さ」がそれこそ「もろ」に出ている。クーベリックがこれほど気負い立って演奏した「わが祖国」はCDでは他にない。有名な90年「プラハの春」におけるチェコフィルとの演奏と比べても、その差は歴然としている。この指揮者にしては珍しいことだが、クーベリックはスタジオにいることも忘れて、力んでしまったのではないだろうか。それも少し力んだのではなく、猛烈に力んでいる。若いということはそうした力みを作り出せる。

 さて、気負い立ち、力み、渾身の力でシカゴ響を指揮したらどうなるか。ここから先はもう説明の必要もないだろう。これは圧倒的パワーに満ち満ちた痛快な「わが祖国」で、「芸術は爆発だ」的演奏である。金管楽器は咆哮しまくり、シンバルの炸裂、ティンパニーの強打など打楽器は大暴れ、オケのトッティではあらん限りのフォルティッシモが聴ける。痛快でもある。

 その迫力は言語を絶している。この迫力を完全に理解するためには、もはや聴いていただくしかないのだが、これは最も劇的なアプローチをした「わが祖国」の例として語り継がれるべき演奏である。信じがたいのは、この録音がモノラルであることだ。52年の収録だからモノラルに決まっているのだが、とてもモノラルとは思えない音質である。MERCURYのワンポイント・マイクによるウルトラ・ハイファイ録音が、この爆発的演奏を克明に捉えている。さすがに最強音の音はマイクに入りきらなかったようだが、分厚い弦楽器の響きがすばらしい。潤いにも欠けることはないし、下手なステレオ録音をはるかに凌駕している。この録音を聴いて、迫力、量感に不足を感じる人はほとんどいないと思う。国内盤で1,500円と値段も手頃。大推薦のCDである。

 なお、とある名盤案内には、このCDの演奏について、こう書いてある。

 「ていねいな語り口で、各曲を無理なくまとめている。スケールは中型

 これを読んで私は文字通り絶句したのだが、同じ演奏を聴いてこれほど違った印象を受けるというのだからクラシックは面白い。

 

非推薦盤

スメタナ
連作交響詩「わが祖国」
クーベリック指揮ウィーンフィル
録音:1958年
DECCA(国内盤 KICC 8426)

 ステレオによる録音で、しかも、オケがウィーンフィルとくれば、「これはもう名盤間違いなし」と誰もが思うだろうが、必ずしもそうはいえない(関係者及びこのCDの愛好者の方々、以下の文章、何卒ご容赦下さい!)。

 クーベリックは52年録音では若さに任せた爆発的演奏を聴かせたのだが、こちらでは何とも煮え切らない演奏をしている。あまり大きな声では言いにくいのだが、聴いていて生気があまり感じられない。オケはウィーンフィルらしい音色を聴かせてくれてはいるものの、それだけなのである。盛り上がりに欠けるばかりか、全体的に平板な印象を拭えない。シカゴ響との旧盤から、わずか6年後の演奏だから、クーベリックはまだ44歳。枯れるには早すぎる。一体どうしたのだろうか。

 私なりの考えでは、...クーベリックはウィーンフィルとのセッションはあまり気が進まなかったのではないだろうか? というより、この曲に関する限りは、ウィーンフィルとの相性は今ひとつだったのではないだろうか。それしか考えられない。同じスタジオ録音でも、52年シカゴ響、71年ボストン響との演奏は指揮者の「わが祖国」に寄せる熱い思いがひしひしと伝わる熱演になっているから、「スタジオだったから駄目なのだ」とはいえない。考えられるのは、ウィーンフィルとの相性なのである。

 音楽雑誌などを見ると、どの曲の演奏に対しても「ウィーンフィルだからすばらしい...」というような論調が目につく。本当だろうか? ウィーンフィルだからといって、何でもよいわけがないではないか。気のない演奏をすることでも知られるウィーンフィルは指揮者にとって全く扱いにくいオケだろう。もしかしたらクーベリックはこの悍馬相手に四苦八苦し、「どうにもならん」という感じでセッションを終了したのではないか? さらに、ウィーンフィルとこの曲との相性もある。ウィーンフィルと他の有名指揮者による「わが祖国」には、最後まで聴いていられない録音だってある。ウィーンフィルがこの曲を演奏したがらないのだろうか。

 高音質が売り物のDECCAにしては、モノラルよりぱっとしない靄がかかったような録音状態も含め、クーベリックファンの私としてもあまりお勧めできないCDである。 

 

CDジャケット

スメタナ
連作交響詩「わが祖国」
クーベリック指揮ボストン響
録音:1971年、ボストン、シンフォニーホール
DG(国内盤 POCG-9268)

 何度も再発される「わが祖国」の定番。LP時代から「わが祖国」といえば、常にこの録音が引き合いに出されてきた。今後もそうだと思う。カタログ落ちしたことは、おそらくない。DGの隠れたロング・セラーのはずだ。私の手許にあるCDは92年発売の廉価盤であるが、その前にもその後にも別のジャケットで発売されている。よって、表記のCD番号は現在はあてにならない。なお、最近OIBPによる新リマスタリングでも発売されている。

 この演奏は永遠のスタンダードたりえるクーベリックの傑作である。さすが円熟期のクーベリックには妙な気負いや萎縮したような音楽作りは見られない。熱いパッションを秘めながらも、極端な表現に走らない指揮ぶりはまさにクーベリックの最良の姿である。どのような表現もただ流れることなく、深い情愛を感じさせながら聴き手に迫る。その表現はまっとう過ぎるほどまっとうで、どこといって他の演奏と違わないのに、全曲を聴き通したときの感動が非常に大きい。普遍的な演奏といえば分かりやすいかもしれない。また、語弊があることを承知の上であえていうならば、この演奏は刺激的ではなく、安定的である。ここまで安定的でありながら、クーベリックはやりたいことをすべてやり尽くしたような観がある。この録音の後、クーベリックは1984年まで再録音をしなかった。実際、する必要が感じられなかったのだと思う。今でもスタジオ録音によってはこれ以上優れた演奏を探すことは困難だ。この後に作られた2種類の録音が、いずれもライブであることが、スタジオ録音でのこの「わが祖国」の完成度を物語っていると思う。

 演奏を行っているのはクーベリックと親密な関係にあったボストン響である。ボストン響は最もヨーロッパ的サウンドを持つアメリカのオケとして知られるが、そのサウンドを得たこともこの録音の成功に大きく寄与していると思われる。クーベリックはベートーヴェンの交響曲全集を録音するに際して、第5番(1973年録音)にはボストン響を指名した。クーベリックはこのオケの特性を活かした曲目を上手に選んでいると思う。腕達者なボストン響のメンバーによる「モルダウ」はスタジオ録音の所産とはいえ、精緻な美しさに溢れている。また、「シャルカ」の狂乱、「タボール」から終曲「ブラニーク」に至る壮麗な音楽を支えたのはこのオケの類い希な技量とサウンドである。

 ボストン響は1972年にスタインバーグの後任としてクーベリックを音楽監督に迎えようとしていたらしい。もしそれが実現していたならば、我々音楽ファンはこの絶妙の組み合わせによる録音を多数楽しめたはずだ。また、小澤征爾の未来は全く別なものになっていただろう。今となってはこの「わが祖国」は、数少ないボストン響との録音になってしまったが、充実した音楽作りはあと何十年経ったとしても風化することなく、世代を越えて伝承されていくに違いない。

 録音状態は、さすがにわずかながら(本当にわずかである)奥行き感などに若干の不足を感じる部分もあるが、それを補って余りある立派な演奏である。「わが祖国」をこれから聴く、という人には第1枚目として最適であるばかりか、他の演奏を一巡した後でも必ず感動する。レコ芸ではないが、歴史的名盤とはまさにこのCDを指す

 

CDジャケット

スメタナ
連作交響詩「わが祖国」
クーベリック指揮バイエルン放送響
録音:1984年5月3,4日、ミュンヘン
ORFEO(輸入盤 C 115 841 A)

 非常に有名なライブ盤。71年にボストン響と録音したDGのスタジオ録音盤は、上記のとおり非常に完成度が高く、10年単位の鑑賞に十分耐える。クーベリックとしてもスタジオ録音では、もはややり残したことはなかったに違いない。だが、ライブでは、さらにひと味違った演奏が可能になる。ライブといっても、バイエルン放送響ほどのレベルになると、スタジオ録音並みの精度を誇る演奏をやってのけ、しかもプラスαがあるのだからすごい。

 この演奏はよく「重厚である」と評されている。確かにそうだ。オケの音色は重心が低く、色彩感は豊かだが、特に派手ではない。バイエルン放送響は、放送局のオケだから指揮者の望みどおり、いかなる音色でも産み出せただろう。そのオケが「わが祖国」を演奏するのに際して、クーベリックはどうやら渋めのトーンを要求していたように感じられる。演奏には巨匠の貫禄と熱意がにじみ出ており、オケはその指揮に見事に対応している。第1曲「高い城」から、ラッパの音は全開し、つんのめるようだし、「モルダウ」や「ボヘミアの森と草原から」では木管楽器が歌いに歌いまくる。興奮した空気の中でオケのパワーは炸裂し、音楽が見る見る高揚していく様は本当にすばらしい。クーベリックは一気呵成に音楽を作り上げており、例えば、「モルダウ」が終わると同時にまるで遮二無二「シャルカ」に突入する。そして、ライブらしい熱狂は「シャルカ」後半のオケが唸りをあげて演奏する殺戮シーンから終曲までとぎれることなく続くのである。

 特にすさまじいのは第5曲「ターボル」から終曲にかけてである。もしかすると、「ターボル」以降は別の日のテイクかもしれない。なんとなれば、ここからクーベリックは常軌を逸したような激しい指揮をするからだ。指揮者とオケのボルテージは極限に達していると思う。このCDの演奏が、「重厚である」といわれるのも、ここからが超重量級の演奏であるからだと思う。「ターボル」は、もともと迫力のある音楽なのだが、オケは最強音で鳴り響き、異常な興奮をもたらしている。その響きの分厚さは言葉に尽くし難く、重厚とか、壮麗とかいった言葉では物足りない。聴いていると音楽の迫力に飲み込まれて、こちらまで「ゼーゼーハーハー」言いたくなる。一体クーベリックはどうしてしまったんだろうか? 私は「ターボル」以降は動悸が止まらない。「ターボル」から怒濤のように雪崩れ込む終曲「ブラニーク」はいっそうの激しさだ。聴いていて感動するというより、打ちのめされるといった方がよい。全く心臓に良くないCDである。このようなCDは、体に悪いし、もったいないからあまり頻繁に聴くものではないだろう。

 なお、このCDをヘッドフォンで聴くと、この演奏の魅力が半減する。できればスピーカーを通して、できる限り大音量で聴くことをお薦めする。ただし、何度も繰り返すが、心臓に悪い。

 

CDジャケット

スメタナ
連作交響詩「わが祖国」
クーベリック指揮チェコフィル
録音:1990年5月12日、プラハ
SUPRAPHON(輸入盤 SU 1910-2 031)

 クーベリックの正規盤による「わが祖国」の最後を飾るのは1990年5月12日、「プラハの春」でのライブ録音である。クーベリックは1948年に亡命しているから、実に42年ぶりの里帰り公演である。テレビでもこの公演が放映されたが、それはそれは祝典的な雰囲気であった。無理もない。チェコは共産圏の中で自由化を推進しようとして徹底的に叩きのめされた歴史を持つ。穏便な「ビロード革命」によってスムーズな政権移行がなされたとしても、「春」の到来は祝典的にならざるを得ないだろう。

 私はこのCDを聴く前は、そうした歴史的背景ばかりを考えていたので、このライブ盤に勝手な幻想を抱いていた。即ち、「そうした空気の中でクーベリックがチェコフィルの指揮台に登ったのだから、大変激烈・熱烈なライブに違いない」と。完全に間違いな訳ではないが、そうした先入観を持って聴くと、がっかりするかもしれない。クーベリックは確かに熱く燃える演奏をしているのだが、極端なデフォルメを繰り出しているわけでもなく、演歌よろしくコブシ丸出しで演奏しているわけでもないのである。そうした演奏を求めるならば、52年・シカゴ響との演奏の方がよい。このようなことを書くのは私だけかもしれないが、歴史的ライブだからといってクーベリックが突然意味不明の激烈演奏をすることなどないのである。歴史的ライブであることを訴えかけすぎる演奏評を読むたび、私は首を傾げている。逆に、私は、これほどの歴史的・祝典的コンサートにおいても、自分の音楽を見失うことがなく、「わが祖国」を飾ることなく演奏しているクーベリックに最高のプロ精神を見る。クーベリックは長い指揮者生活の中で熟成されてきた自分の音楽を、そのままコンサートで出しているだけなのである。その意味で、クーベリックの「わが祖国」が、その生涯の最後の局面でこのようにライブ録音されたことは重要である。これはまさにクーベリックの芸術の集大成なのだ。「ライブで人が変わる」とかいうCD業界の売り文句は私はあまり感心しない。クーベリックはライブで燃えるのは事実だが、クーベリックは「中庸の美徳」を見失うことなく、安定的に良質の音楽を生み出し続けた指揮者だと私は思う。そんなクーベリックを再発見し、私はとても嬉しく思う。

 なお、チェコフィルはテレビで放映されたときにはミスが目立ったが、CDでは全く気にならなかった。普通は逆なのだが...。ライブといっても一部は編集されたのだろう。冒頭のハープの音が巨大すぎるアンバランスさがあるにしても、全体的には音質もよく、終曲に向かって大きく盛り上がる「わが祖国」を聴く際の代表盤であることは間違いないだろう。

 

CDジャケット

1991年のクーベリック来日コンサートの模様は以下の試聴記をご覧下さい。

松本さんのレビュー:クーベリックのページ(2005年4月15日掲載)

稲庭さんのレビュー:チェコフィルのページ(2005年4月15日掲載)

 

An die MusikクラシックCD試聴記