謎の指揮者ジークフリート・クルツを聴く
ジークフリート・クルツ。この名前をご存知であるなら、あなたはカペレマニアに違いない。ご存知なければ、それで構わない。この人自身、あまり表面に出たいとは思ってなかったかもしれないからだ。
この謎の指揮者は、知名度が低いわりに、カペレにとって極めて重要な役割を果たしているようだ。まずは、少し長いが、音楽之友社刊「指揮者のすべて」の解説に当たってみよう。
Siegfried Kurz 1930.7.18-
ドレスデン生まれ。1945年から生地のウェーバー音楽大学で本格的に音楽を学び、49年よりドレスデンを中心に指揮活動を開始。60年ドレスデン国立歌劇場指揮者、71〜75年同歌劇場音楽総監督、75〜83年音楽運営責任者、83〜88年ベルリン国立歌劇場首席指揮者を歴任した。一方作曲活動にも意を注ぎ、幅広いジャンルに作品を残した。これまでに、おびただしい数のドイツ・オペラ、20世紀音楽を指揮。得難いカペルマイスター(楽長)タイプの指揮者として賞賛を集めてきた。73年ドレスデン国立管を率いて初来日を飾り、80年には同歌劇場米国公演を成功させた。81年ドレスデン、87年ベルリン〜各日本公演でも実に手堅い指揮ぶりを披露した。(奥田)
音楽之友社はどうやってここまでジークフリート・クルツの履歴を調べ上げたのか、それさえも不思議なほど詳しく解説されている。これを読むと、ジークフリート・クルツがかなり深くカペレに関わってきたことが分かる。何といっても71〜75年にはドレスデン国立歌劇場の音楽総監督までやっているのである。
しかし、奇妙なことに、これだけのビッグ・ネームであったにも関わらず、カペレの資料では歴代カペルマイスターの表からははずされている。どのような資料によっても、ジークフリート・クルツが現れることはない。かといえば、完全に過去の人となったわけでもなく、98年のシーズンでもチャイコフスキーのバレエ「くるみ割り人形」などを指揮している。立派に現役を務めているのだ。
ここまで読むと、一体ジークフリート・クルツなる人物がどのような人であったのか分からなくなる。ところが、クルツが音楽総監督であった時代はカペレの最盛期といえるほどの充実ぶりであったのだから驚く。
もしかしたら、この人の本領は政治力にあったのかもしれない。自分が表面に出るよりも、有力な音楽家達を集め、カペレの最高水準を築き上げることを目指していたのではないかと私は密かに勘ぐっている。事実、この時期のカペレは最高の演奏をしているのだ。ベームとのザルツブルク音楽祭におけるライブなどその一例である。他にも、ケンペのR.シュトラウス管弦楽曲録音をはじめ、カペレの重要録音はこの時期に計画、実行されている。サヴァリッシュによるシューマンの交響曲全集(72年)、カルロス・クライバー指揮によるウェーバーの「魔弾の射手」(73年)や、ヨッフムによるブルックナー交響曲全集など、目白押しだ。どうも、有力指揮者、演奏家を招きながら、カペレの力を上げ、世界的にその比類なき実力を認めさせたのはこの人の功績なのではないか。
そんなクルツが残したCDは残念ながら極めて少ない。ペーター・ダムをソリストにしたホルン協奏曲集もあるが、ここではチャイコフスキーの交響曲第5番を取り上げてみよう。
チャイコフスキー
交響曲第5番ホ短調
ジークフリート・クルツ指揮シュターツカペレ・ドレスデン
録音:1978年 ルカ教会
BERLIN Classics(輸入盤 0093302BC)これは私にとってはカペレの音を知るうえで欠かせない重要録音である。しかし、演奏自体は一般受けしないと思う。しかも、誤解を招くことを恐れずに書けば、私はこの演奏をチャイコの5番の推薦盤にするつもりさえないのである。超マイナーなCDだし、おそらく今後とも名盤案内に載ることもないだろう。なぜなら、熱く燃え上がるロシア臭さというものがここには皆目現れてこないからである。熱血演奏が好きなクラシックファンには、この演奏はとても受けつけてはもらえないだろう。そうした演奏をクルツは全くしていない。にもかかわらず私はこのCDを取り上げる。なぜか。
実は、これはスルメなのだ。聴けば聴くほど味があり、感心させられる。大見得を切るような派手なシーンはないが、味わい深さの点で天下一品。カペレの音色を知り尽くしたクルツが、カペレの首席奏者達の最高の音色を引き出している。その響きは実にまろやかで、録音のよさも相俟って、惚れ惚れするほど美しい。これほど美しいチャイコフスキーの5番は、宇野功芳の大げさな表現を借りれば、「他に皆無」だろう。
どう聴いても、この録音には当時の名人プレーヤー達が勢揃いしている。木管、金管、打楽器と、「これはあの人だ」と想像できるのである。第2楽章のホルンがペーター・ダムであるのはもちろん、木管楽器のすばらしい音色が次から次へと聴ける第1楽章は首席奏者の饗宴という感じがする。それを聴くだけでも十分価値のあるCDだ。ヒステリックな表現は微塵もない。そのかわり暖かく、潤いのある音色が聴き手を包み込む。オケの強奏でもうるさく感じられる場所はない。アンサンブルは非常に緻密で、隙がない。時に78年。クルツは歌劇場音楽総監督の地位は退いているが、彼の元でカペレは最高の力を発揮している。この演奏を聴くたび、すばらしいと思う。私はできれば人にこの演奏を教えたくはない。この演奏のまろやかさを味わいつつ、その中に浸れるのは隠れた最高の喜びであるからだ。
このCDについては、カペレの演奏に詳しいスシ桃さんが「クラシック招き猫」に発表している文章があるので、ぜひご一読いただきたい。以下に「クラシック招き猫」に掲載されているものとほぼ同一の文章を掲載しておく。この文章はクルツに関してだけでなく、カペレに関する非常に的確な解説となっていることを付記したい。
KURZ, Siegfried ジークフリート・クルツ (指揮)
■コメント
世界一流の歌劇場のオケは概してリズムが良いが、シュターツカペレ・ドレスデンはその中でも、固有の素晴らしいリズムを有するオケである。付点音符の弾みが軽やかで、決して引きずらない。そして各パートがバランス感に優れ、総奏での木質感は他に例を見ない。そのようなシュターツカペレ・ドレスデン(以下SD)と名演を残した指揮者は数多い。スウィトナー、サヴァリッシュ、ベーム、クライバーなどの名前がすぐに思い浮かぶが、ここでは誰よりも素晴らしい演奏をしていたある演奏家を紹介したい。
ジークフリート・クルツ。おそらくは政治家型の人間だったのであろう。当時の東ドイツにおける経歴を見ても、とても名演を期待したくなるタイプではない。しかしSDのあらゆる録音の中で一番SDの音を無理なく引き出し、彼らがいかにも気持ちよく演奏しているのが感じられる録音は上に挙げたクルツの演奏なのだ。最初に挙げたモーツァルト、カップリングは替わっているが、まだ輸入盤では1000円前後で入手可能だろう、是非聴いていただきたい。特にクラリネット協奏曲の伴奏など奇跡的とも言えるようなオケの音である。全体の柔らかい音、そして各パートが絶妙のバランスで鳴っている。そしてリズムの良いこと、彼の演奏の最大の特徴はSDの持つリズムと指揮者のリズムが見事に一致していることなのだ。独奏もやや高音が苦しそうだが、2楽章再現部のピアニッシモなど印象的だ。最高のモーツァルトのひとつといって良いだろう。またファゴット協奏曲もSDの首席ファゴットが独奏者となっており、この曲屈指の楽しい演奏だ。3楽章のメヌエットリズムなどあまりに軽やかで聴いているこちらまで体が動いてしまう。
次は録音の存在すらCD化されるまで知らなかったチャイ5である。チャイ5のあらゆる録音の中でも、山田一雄、シルヴェストリと並ぶ私のお気に入りである。80年代までのSDの全盛期を支えたのはホルンのペーター・ダム、フルートのヨハネス・ワルター、オーボエのクルト・マーン、ティンパニのペーター・ゾンダーマンらであるが、この録音では彼ら全員の音が最高に引き出されている。2楽章のホルンは言わずもがな、実はこの曲はティンパニが非常に重要で、元ミュンヘンフィルのザードロ、50年代フィルハーモニアのブラッドショーなど名手の参加している録音はいずれも見事だ。中でもゾンダーマンはうるさすぎず、決め所を心得ていて見事だ。彼は一時N響にも在籍していたので白髪の上品なドイツ人をご記憶の皆様もいるのでは?
ペーター・ダムのホルンは言わずもがな、と書いたがあまりに見事なので一言。ここでもあのブレインに並ぶ演奏だ。極言すればSDの音を作っていたのはダムのホルンなのである。あの木質感は彼の音と一致している。彼が参加しない近年のSDの来日公演の出来はどうだ。またオケだけ楽しめるヤノフスキの「リング」でも、音だけで判断するに「ジークフリート」では別の首席が吹いているようだが、音が少し固い。話はそれるが、「たそがれ」2幕の幕切れ、復讐の3重唱で「血の誓いの動機」が高らかに、そして悲劇的にホルンのffで鳴るが、ここがダムの最高の音を聴くことの出来る箇所であろう。
話をチャイコに戻せば、クルツの指揮は、慣習的にテンポを落としたり(1楽章第3主題、コバケンのトレードマーク)、ルバートを掛けたり(2楽章第2主題の再現部、終楽章コーダの入り)、といった部分にはこだわらない、むしろすっと過ぎる。しかし第1楽章第1主題が木管から始まり、次第に盛り上がってトランペットのffに至る構成などきっちりと描き出している。曲の構成を分かるように演奏しながら、決してこちこちの演奏にはならない。またせかせかもしない。金管がこれほど迫力ある鳴り方をしていることも少ない。SDの音が好きな人はこれを聞かずしてSDを語ることは出来ないであろう。
最後に来日公演をLD化した「魔弾の射手」についても簡単に触れておく。クルツの指揮を見ることの出来る唯一の資料だろう。風貌は丸顔のテンシュテットという感、指揮ぶりは堅実、音の最後をきっちりと締めているのが印象的だ。同年のブロムシュテットの未完成とブル4も来日公演がLD化されているが、オケの音は数段クルツのほうが上だ。オケピットの中に入っているのに、である。魔弾といえばSDの専売特許のようなもの、クライバーの強烈な演奏も凄いが、本当に音楽の楽しさを味わわせてくれるのはクルツの演奏だ。ただし、歌手陣については触れないでおこう。クルツの指揮とSDを楽しむためのLDである。
クルツの録音はあまりに少ない。他にはボワエルデユーとヒナステラのハープ協奏曲だけである。しかし録音の少なさを嘆く前に、これだけでも彼の演奏が後世に残った事を喜ぼう。彼の監督時代、SDが最高の音を有していたということがクルツの一番の功績なのだ。
■代表盤
- モーツァルト:クラリネット・ファゴット協奏曲
cl:オスカー・ミヒャリク、fg:ギュンター・クリエール(徳間25TC-309 82年録音)- チャイコフスキー:交響曲第5番(BC 009330BC 78年録音)
- ウェーバー 歌劇「魔弾の射手」全曲(LD)(パイオニアMC43-35NH 81年録音)
- ペーター・ダム:ホルン協奏曲集(徳間TKCC-30623 83年録音)
- シュライヤー:オペラアリア集(徳間TKCC-70108 66年録音)
以上オーケストラはすべてシュターツカペレ・ドレスデン
990109 スシ屋の桃ちゃん
注)スシ桃さんはこの文章の中で、
『ヤノフスキの「リング」でも、音だけで判断するに「ジークフリート」では別の首席が吹いているようだが...』
と書いておられます。すなわち、「ジークフリート」の首席ホルンはペーター・ダムではないと主張されておられるのです。この非常に興味深い問題につきましては、「ジークフリート」を取り上げる際に、別途議論したいと思います。
1999年11月24日、An die MusikクラシックCD試聴記