An die Musik 開設11周年記念 「名盤を探る」
第3回 ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲に見る新旧交代
文:伊東
「名盤を探る」第3回は、前回の協奏曲の流れに従い、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲を取り上げることにします。
■ 旧時代の録音
最初に白状します。CDラックを見回してみると、旧時代の録音の中には、私が特別な思いをもって聴いてきたものがありませんでした。1940年のトスカニーニ/ハイフェッツ盤をはじめ、往年の巨匠たちによる録音がいくつもあるのですが、チャイコフスキーにおけるホロヴィッツ盤のように、私の中で突出した録音はありません。逆に言うと、私が普段好んで聴いてきたベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲は、チョン・キョンファの新旧両盤のように今も現役で活躍している演奏家のものばかりだということになります。
そうなるとここに記載するCDがなくなってしまいますので、1枚だけサンプルとして掲載します。シェリング盤です。
ベートーヴェン
ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品61
ヴァイオリン:ヘンリク・シェリング
ハンス・シュミット=イッセルシュテット指揮ロンドン交響楽団
録音:1965年7月、ロンドン
PHILIPS(国内盤 UCCP-9067)
モーツァルトのヴァイオリン協奏曲第5番イ長調「トルコ風」を収録シェリングは1973年録音もありますが、一般的にはこちらが有名でしょう。名曲・名演奏・名録音と三拍子が揃っています。冒頭のティンパニの音からして魅力的です。シュミット=イッセルシュテットの質実剛健な指揮も極端に力が入る訳ではないのですが、高揚感があり、「これこそベートーヴェンだと」認識させられます。そこにシェリングのソロが入ってきて、堂々たる演奏をしていきます。第2楽章は深い瞑想の中に沈潜していきます。静かな祈りの時間です。第3楽章でもヴァイオリンの名技が堪能できます。ヴァイオリンもオーケストラも名人であり、それぞれが持てる最高の音を出していることと、ヴァイオリンがオーケストラと非常に調和していていることがこの演奏の美点だと思います。かなり良好なステレオ録音であるために、オーケストラの重厚な響きやヴァイオリンソロの張り詰めた演奏の隅々までが臨場感抜群で楽しめます。どこかに欠点を探そうにも探せない、隙のない演奏と言えます。
多分これが一般的なこの曲の演奏スタイルでしょう。もともと華々しい技巧で聴衆を幻惑するような曲ではなく、歌が中心であり、第2楽章には「祈り」までが盛り込まれている曲ですから、奇道を用いようとも用い切れないと思います。往年の巨匠指揮者が伴奏をした場合、ベートーヴェンに対する敬意からかとてつもなく重厚なオーケストラ演奏を聴かせる場合がありましたが、それとてヴァイオリンとの釣り合いがありましたから、限度があったように感じられます。
私としてはどれだけヴァイオリンがオーケストラと渡り合えるか、どれだけ美しくベートーヴェンの歌を奏でられるかという観点でしかこの曲に接してきませんでした。ところが、この曲の演奏も1990年代に入って変わってきます。新時代が到来してきたのですね。
■ 新時代の録音
最初のショックはクレーメルの登場でした。
ベートーヴェン
ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品61
ヴァイオリン:ギドン・クレーメル
ピアノ:ヴァディム・サハロフ
ティンパニ:ジェフリー・プレンティス
アーノンクール指揮ヨーロッパ室内管弦楽団
録音:1992年7月、グラーツにおけるライブ
TELDEC(国内盤 WPCS-21052)私が生で初めてベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲を聴いたのは1980年代前半、まだ学生の頃で、NHKホールにおいてでした。ソリストはギドン・クレーメル、オーケストラはNHK交響楽団でした。その日、第1楽章の終盤になるとクレーメルはシュニトケのカデンツァを使って演奏を始めました。ティンパニとの掛け合いがある非常に風変わりなカデンツァでした。周りの聴衆の戸惑いを隠せない雰囲気を今も忘れられません。若気の至りから私は「奇道を用いるなあ」と思ったものです。
その後、クレーメルはアーノンクールと組んで上記CDを発表しました。今度はピリオド・アプローチを取り入れたヨーロッパ室内管弦楽団がバックに入りました。強力なラインナップです。こうなるとクレーメル・アーノンクールによる好き放題の演奏になります。私は衝撃的というか、呆れて聴きました。
クレーメルはカデンツァにまたも凝っています。クライスラーでもヨアヒムでもなく、ベートーヴェンが、このヴァイオリン協奏曲をピアノ協奏曲用に編曲したカデンツァをさらにクレーメル自身が編曲しています。ヴァイオリン協奏曲なのに、ピアニストの名前が記載されているのはそのためです。ここにもティンパニが出てきます。
私はアーノンクール/クレーメル盤を呆気にとられて聴いた後、しばらくこれを放置していました。ピリオド・アプローチに対する強い反感もありました。ノン・ビブラート、細切れのフレージング、乾ききった音響。どれも耐えられませんでした。安堵したのは、さすがにこうした演奏スタイルが一気に広まらなかったことです。
もっとも、クレーメル盤を呆気にとられて聴いたのも過去の話です。今ではほとんど何の抵抗もなく受け入れている自分がいます。加齢によって、感覚が鈍ったわけではなく、いろいろなものを受容できるようになったからだとポジティブにとらえています。
今でもごく普通のアプローチによるCDがリリースされ続けています。しかし、アーノンクールたちの試みはその後着実にクラシック音楽界に浸透していきました。そのひとつの成果とも言えるCDが先頃登場しています。リサ・バティアシュヴィリというグルジア出身のバイオリニストがドイツ・カンマ−フィルハーモニー・ブレーメンをバックに演奏したベートーヴェンです。
ベートーヴェン
ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品61
ヴァイオリン:リサ・バティアシュヴィリ
リサ・バティアシュヴィリ指揮ドイツ・カンマ-フィルハーモニー・ブレーメン
録音:2007年11月5-7日、ブレーメン
SONY(輸入盤 88697334002)
ツィンツァーゼの「6つの小品」を収録CDジャケットにはうら若い女性の写真があります。このCDの音を実際に耳にするまで、私は最近よくありがちな、若い女性奏者をアイドルに仕立て上げて作ったいい加減なCDであろうと高をくくっていました。そのCDを試しにかけてみてびっくり。今までのピリオド・アプローチとは一線を画した生き生きとしたベートーヴェンが聴けるではありませんか。
もう20年か30年くらいの時間をかけてピリオド・アプローチがクラシック音楽の中に浸透してきました。その理屈は十分に理解できます。しかし、それを聴くという行為は長い間半ば拷問でもありました。理屈は理解できても身体が拒絶するためです。その理由は、おそらくはピリオド・アプローチがまだ演奏者の血肉となっておらず、頭の中で構築したものであるために、生気が入り込む余地が乏しかったためではないかと私は考えています。誰が好きこのんで枯れた、生気のない演奏を聴くのか。その演奏のあり方が歴史的にも、理論的にも正しいと分かってはいても楽しめませんでした。
ところが、バティアシュヴィリ盤ではそうしたマイナス要素がどこにもありません。少人数のオーケストラでありながら、重量感があり、生々しくも思い切りの良い音が耳に飛び込んできます。ピリオド・アプローチでは、強弱が明確につけられていることが普通ですが、意外に単調で先が読めてしまうため、かえって退屈な場合がありますが、ドイツ・カンマ−フィルハーモニー・ブレーメンの場合、単調どころか、先が読めません。金管楽器の力強いアタック、ティンパニの豪快な響き。かっこいいです! これをベートーヴェンが聴いたら、感涙にむせぶに違いありません。私もドイツ・カンマ−フィルハーモニー・ブレーメンの中に入って一緒に演奏したくなります。
肝心のヴァイオリンは、これまた飛び跳ねるようです。バティアシュヴィリご本人は写真で見ると澄ました顔をしていますが、実際はとても面白い人なのかもしれません。演奏がピチピチしています。漫画「のだめカンタービレ」の「のだめ」がもしピアニストではなく、ヴァイオリニストであれば、こういうヴァイオリンを弾いたのではないかと思います。
私が最も気になったのは、このベートーヴェンでは、バティアシュヴィリが指揮をしていることでした。本当でしょうか。これほどの大曲を指揮しながら、しかもこれだけ思い切りの良い演奏をオーケストラにさせておいて、ヴァイオリンに集中できるのでしょうか。私はこのオーケストラの音楽監督であるパーヴォ・ヤルヴィがこっそり指揮台に上っているのではないかと疑いました。
気がついてみると、私の手元には、そのパーヴォ・ヤルヴィがドイツ・カンマ−フィルハーモニー・ブレーメンを指揮をしたベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲のCDがちゃんとあるではないですか。今人気のジャニーヌ・ヤンセンがソリストです。
ベートーヴェン
ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品61
ヴァイオリン:ジャニーヌ・ヤンセン
パーヴォ・ヤルヴィ指揮ドイツ・カンマ-フィルハーモニー・ブレーメン
録音:2009年7月18,19日、ハンブルク
DECCA(輸入盤 B0013281-02)
ブリテンのヴァイオリン協奏曲を収録これを聴いてまたびっくりです。同じオーケストラが伴奏をしているのでしょうか。パーヴォ・ヤルヴィが指揮台に立っているのに、こちらのオーケストラ演奏はバティアシュヴィリ盤に比べて遙かに穏健です。鮮烈・斬新なベートーヴェンの交響曲演奏を我々に届けてくれたパーヴォ・ヤルヴィでも、協奏曲の伴奏をする際には、完全に自分の思い通りにはしていないのでしょう。これなら徹底的にやり尽くした感のあるバティアシュヴィリ盤の方が面白いです。
バティアシュヴィリ盤に戻ります。パーヴォ・ヤルヴィがいないにもかかわらず、なぜここまで徹底した演奏ができたのか。バティアシュヴィリがそのように指揮をしたというのが当然ながら最大の理由でしょう。もうひとつは、その意を汲んだオーケストラがやりたい放題やらせてもらえたということがあり得ると思います。パーヴォ・ヤルヴィがいなくてもこのような演奏ができるというのは驚きです。演奏スタイルがいかに彼らの血肉となっているのかが如実に分かります。
いよいよピリオド・アプローチも新たな局面を迎えました。過去のオーソドックスなスタイルがなくなるとも思えませんが、選択の幅は広がってきました。昔の録音ばかりが優れているわけでもなく、新たに優れた演奏が生まれていると思うと嬉しくなります。
2010年3月18日掲載、An die MusikクラシックCD試聴記