An die Musik 開設11周年記念 「名盤を探る」

第2回 ホロヴィッツのチャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番

文:伊東

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 「名盤を探る」第1回目にムラヴィンスキーのチャイコフスキーを取り上げたので、その流れのまま第2回目もチャイコフスキーについて述べます。交響曲ではなく、ピアノ協奏曲第1番です。この曲の場合も、私にとっては特殊な録音があります。1941年のホロヴィッツ盤です。

 

■ 旧時代の録音:ホロヴィッツ

CDジャケット

チャイコフスキー
ピアノ協奏曲第1番 変ロ短調 作品23
ピアノ:ホロヴィッツ
トスカニーニ指揮NBC交響楽団
録音:1941年5月6日、14日、カーネギーホール
RCA(=BMG)(国内盤 BVCC-38036)
ブラームス:ピアノ協奏曲第2番も収録(1940年録音)

 ムラヴィンスキーのチャイコフスキーは50年前の録音でしたが、これは70年前の録音です。70年前! 当然モノラルで、オーディオ的にはその後に登場した数々の録音には遠く及びません。であるにもかかわらず、この演奏を知っているがために、私はどのような名人の演奏を聴いても満足できなくなってしましました。ほかのピアニストの演奏でもある程度のカタルシスが得られますが、70年も前の録音から得られるカタルシスは比類がありません。ある意味では不幸な出会いなのですが、この演奏を知らないより知っていた方が良かったと思います。

 そもそもこれほどのピアノの巨人がこの世に実在したこと自体が驚異です。ここではその絶頂期の演奏にノックアウトされます。冒頭から圧倒的なパワーによる雷鳴のような音、華麗で目も眩むほど鮮やかなタッチ。文字通り度肝を抜かれます。演奏は協奏曲というよりひとり舞台に近いものがあります。ホロヴィッツのピアノはそれこそ自由奔放、唯我独尊、傍若無人です。ちょっと自由奔放・・・・というのでもなく、激しく自由奔放、激しく唯我独尊、激しく傍若無人です。こんな演奏はほかにありません。第3楽章の最後の最後までホロヴィッツ節のオンパレードで、私は興奮を抑えきれません。スピーカーに向き合って聴いていてなお、立ち上がって拍手したくなります。何という臨場感でしょうか。

 伴奏をつけている指揮者とオーケストラも凄い。本気でぶつからなければたったひとりのピアニストに押しつぶされてしまいます。そのため、オーケストラからも切迫感のある猛烈な音が聴けます。それでもなお、ホロヴィッツはオーケストラを威圧し、完全にリードしています。トスカニーニ指揮のNBC交響楽団だからついて行けたのでしょうが、普通のオーケストラでは途中で崩壊していたでしょう。

 ホロヴィッツは晩年には晩年の良さがありますが、ここに聴くホロヴィッツは圧倒的な輝きを放っている大スターです。こうした演奏だと、演奏を耳にできるだけでありがたいと思います。録音の古さなど全く気になりません。名盤の条件に、音質の良さ、例えば良好なステレオ録音でなければならない、などということは不要です。

 また、ライブ録音でなければ熱い演奏が聴けないということもありません。ムラヴィンスキーのチャイコフスキーもそうでしたが、ホロヴィッツの録音もいわゆるスタジオ録音に分類されます。「ライブならでは」というのは使い勝手が良い都合のいい言葉ですが、経費を節減するためのライブより、しっかりとしたスタジオ録音の方がよほど充実した演奏が聴けると思います。もっとも、1941年当時、演奏家たちは録音という行為に対して現代とは比較にならないほど真剣であったと考えられます。それが演奏にも色濃く反映されていると考えて差し支えないでしょう。

 チャイコフスキーのピアノ協奏曲に関しては、この1枚があれば足りると言いたいところですが、そうはいきません。ホロヴィッツには同じ組み合わせによるライブ録音があるからです。

CDジャケット

チャイコフスキー
ピアノ協奏曲第1番 変ロ短調 作品23
ピアノ:ホロヴィッツ
トスカニーニ指揮NBC交響楽団
録音:1943年4月25日、カーネギーホールにおけるライブ
RCA(=BMG)(国内盤 60321-2-RC)
ムソルグスキー:「展覧会の絵」を収録(1951年録音)

 これは「アルトゥーロ・トスカニーニ・コレクション」の第44巻としてCD化されたものです。1941年盤同様自由奔放、唯我独尊、傍若無人なピアノです。聴衆は第1楽章から熱狂していて(当然です)、第1楽章が終わるやいなや激しい拍手が待っています。

 RCAは放送した録音を元にマスターテープを作って商品化したようですが、その過程でかなり苦労をしたらしく、ライブであるにもかかわらず1941年の録音と音質的に大きく遜色がない点もすばらしいです(好き嫌いの差はあるでしょうが)。国内盤が入手しやすいであろう1941年盤とこの43年盤があればホロヴィッツのチャイコフスキーは堪能できるでしょう。

 参考に、もう1枚挙げておきます。MUSIC & ARTSの1948年盤です。

CDジャケット

チャイコフスキー
ピアノ協奏曲第1番 変ロ短調 作品23
ピアノ:ホロヴィッツ
ワルター指揮ニューヨークフィルハーモニー管弦楽団
録音:1948年4月11日、ライブ
MUSIC & ARTS(輸入盤 CD-810)
ブラームス:ピアノ協奏曲第1番を収録(1936年録音)

 これは最も新しい録音である割に、音は最も貧弱です。しかし、これまた聴き始めると音質など気にならなくなります。超絶的に優れた演奏を前にすると、音質のことなどどうでも良くなるのですね。第1楽章の後、盛大な拍手が入るのは1943年盤と同様です。この演奏で拍手がない方がどうかしていると私は思いますが。第3楽章の終わり方は凄すぎて何回聴いても笑いがこみ上げてきます。

 この圧倒的な才能、それこそ太陽のような輝きを持つピアニストがいなくなった後、我々にはどのような演奏が選択肢として残されているのでしょうか。

 

■ 新時代の録音

 

 世評が高いのは2枚のアルゲリッチ盤です。アルゲリッチは1980年及び1994年に、いずれもライブ録音しています。まず、1994年盤から見ていきます。

CDジャケット

チャイコフスキー
ピアノ協奏曲第1番 変ロ短調 作品23
ピアノ:アルゲリッチ
アバド指揮ベルリンフィルハーモニー管弦楽団
録音:1994年12月、ベルリン、フィルハーモニーにおけるライブ
DG(輸入盤 449 816-2)

 アルゲリッチはこの曲をいったい何度演奏してきたのでしょうか。ピアニストとして世界中で何度も何度も演奏してきたことでしょう。それこそ飽きるほど、嫌になるほど演奏しているはずです。しかし、この演奏を聴く限りそうしたことは微塵も感じられません。ホロヴィッツほどではないにせよ、自由奔放な、というより自由闊達な演奏を繰り広げています。録音も新しめであるため、現時点における決定盤と考えられなくもありません。

 ・・・と、回りくどい表現をしたのは、アバド指揮ベルリンフィルの伴奏がマッチョ風で私はあまり好きになれないためです。あくまでも私の好みですが、「僕って怪力なんだよねえ」という感じが当時のアバド・ベルリンフィルの録音にはあって、硬めの録音までがそれを助長しています。そのため、私の場合、アルゲリッチを取るならば1980年盤の方です。

CDジャケット

チャイコフスキー
ピアノ協奏曲第1番 変ロ短調 作品23
ピアノ:アルゲリッチ
コンドラシン指揮バイエルン放送交響楽団
録音:1980年、ミュンヘンにおけるライブ
PHILIPS(輸入盤 411 057-2)

 カップリング曲がない豪華なCDです。これもライブ録音ですが、1994年のDG盤がライブと銘打ちながら聴衆の気配がないのに対し、こちらは会場ノイズも収録され、ライブの雰囲気が満点です。アルゲリッチの自由奔放さも際立っており、第3楽章は何度聴いても小気味いいです。思う存分に暴れたという演奏でしょう。オーケストラとの釣り合いも良く、録音もまずまずです。

 ただし、これはもう30年も前の録音です。私はこの録音をリアルタイムで聴いてきたのですが、30年も経ってしまったのかと思うとやや寂しい気がします。これを新時代の録音と呼べるかどうか。アルゲリッチはさらに新録音をするでしょうか?

 さて、2000年以降の録音もあります。例えば、北京オリンピックの開会式でも注目を集めたランラン。

CDジャケット

チャイコフスキー
ピアノ協奏曲第1番 変ロ短調 作品23
ピアノ:ランラン
バレンボイム指揮シカゴ交響楽団
録音:2003年2月、シカゴ
DG(輸入盤 477 8409)
メンデルスゾーン:ピアノ協奏曲第1番を収録

 バレンボイム指揮シカゴ響という強力なバックで登場です。しかもきちんとセッション録音をしていて、音質面でも万全。現代風のスポーティな爽快演奏を楽しめます。豪快にピアノを鳴らすランランはとてもかっこよく、我々の時代における若きヒーローが出現したようにも感じられます。ただし、かっこいいとは思いますが、残念ながら私は圧倒はされません。

 最後にもう1枚だけ。ホロヴィッツの再来とまで謳われたアルカディ・ヴォロドス盤です。

CDジャケット

チャイコフスキー
ピアノ協奏曲第1番 変ロ短調 作品23
ピアノ:ヴォロドス
小澤征爾指揮ベルリンフィルハーモニー管弦楽団
録音:2002年6月12-14日、ベルリン、フィルハーモニーにおけるライブ
SONY(国内盤 SICC 312)

 小澤征爾指揮ベルリンフィルという、これまた豪華な組み合わせです。ヴォロドスにとっても不足はなかったでしょう。オーケストラと堂々の対決ぶりです。ベルリンのフィルハーモニーでライブ録音されたと記載がありますが、全曲終了後に熱狂的な拍手が出てくるまで会場ノイズがありません。

 ヴォロドスはさすがに豪腕らしく、この曲をいとも簡単に弾いてのけます。余裕を持って弾いているようにすら思えます。本当にそうだったのかどうか知るよしもないのですが、その、余裕がありそうな点のみが不満です。ホロヴィッツは人間の限界を超えていると聴衆に思わせるものを持っていました。人智を超えた才能がホロヴィッツにはあると聴衆は(少なくとも私は)思い込んでいたはずです。ヴォロドスも並外れた才能を持っているので、今後を期待したいです。

 

2010年3月16日掲載、An die MusikクラシックCD試聴記