An die Musik 開設11周年記念 「名盤を探る」

第15回 ブルックナー/第5を聴きながら思うこと

文:ゆきのじょうさん

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 前稿の「運命」では臆面もなく小賢しいことを書き連ねましたが、今回採り上げる名盤の条件はとても単純なものです。すなわち、「自分の人生で最初に出会った演奏が名盤である」という命題です。

 以前、当サイトの掲示板で一番目に聴いた演奏は?」という趣旨での書き込みをさせていただいたことがあります。(私も含めて)よく覚えていないという方もいらっしゃいましたし、すらすらと書き出した方もいました。ある曲で一番目に聴いた演奏はその人にとっての初期値みたいな存在ですから、影響を受けないというのは困難かと思います。

 今回、採り上げるブルックナー/交響曲第5番は、私にとってまさに典型的な事例でありました。私が初めてこの曲を聴いたのは当然ながら(?)以下のディスクです。

 

■ ケンペ盤  

CDジャケット
テイチク盤
 
CDジャケット
ACANTA/PILZ盤
 
CDジャケット
Scribendum盤
 
CDジャケット
JVC盤

ブルックナー
交響曲第5番変ロ長調
ルドルフ・ケンペ指揮ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1975年5月25-27日、ミュンヘン、ビュルガーブロイケラー
テイチク(国内盤 36CT-96)
独ACANTA/PILZ(輸入盤 44 2188-2)
欧Scribendum(輸入盤 SC 003)
JVC(国内盤 JM XR24211)

 このディスクがLPとして日本で発売されたのが1976年5月のことでしたから、もう30年以上も前のことになります。いったい何度聴いたのか、数えきれません。当時私はブルックナーの交響曲は、フルトヴェングラー指揮の「ロマンティック」しか聴いていませんでした。初心者にもわかりやすいと言われていた「ロマンティック」でさえ「茫洋とつかみ所のない音が延々と続いて突如大音量になる変な曲」という印象でした。それゆえ、ルドルフ・ケンペに突如傾倒した直後に出た「第5」を手に取ったときに、正直買おうかどうかためらい、一度聴き通してみてもやっぱり分からないという思いでもありました。

 それでも根気よく聴き続けて、曲全体の見通しがつくと、これはとんでもない演奏なのだと思うようになるから不思議です。その後、ブルックナー演奏ならこの指揮者と言われているディスクも(エアチェックも含めて)古今東西聴いていきましたが、ケンペ盤が私に与えた感動の大きさは変わりません。これは、やはり最初に聴いた演奏だから、なのでしょう。

 聴き比べて初めて分かったことですが、冒頭のチェロとコントラバスのピチカートからの序奏を、ケンペはとても遅いテンポで始めています。アダージョという速度指定から考えれば本来ケンペ盤が異質であって、もっと速いテンポで進めていくのが「正しい」のでしょう。私は最初に聴いてしまったこの遅いテンポでないと満足できなくなってしまいました。すべての「第5」を聴いたわけではありませんが、序奏の遅さでは、かなり上位に入るのだろうと思います。そのまま遅いのかと言えばそうではなく、主部になると妥当な速さになりますから、あくまでも冒頭ならではのテンポ設定なのでしょう。

 さて、そのゆったりとしたピチカートにヴィオラ、第二ヴァイオリンが両翼配置で右側から、そして分割された第一ヴァイオリンが加わって音を積み上げていくのですが、私は今なお分からないことがあります。それは、この遅いテンポでほとんどビブラートも控えめでありながら、ここまで豊かで、かつこれからの演奏全体を流れる侘びしさを引き出すことができているのかということです。何気なくやっているようで、このようなことはできるものではありません。奏者の呼吸や弓の返しでのちょっとした力の入れ方などの一つ一つが徹底されないと生み出せない至芸だと思います。この侘びしさに浸りきったところで、不意にはっとさせられるアクセントが入ります。これはスコア(私が所持しているのは1951年国際ブルックナー協会ノヴァーク版です。ケンペがこの版を使っているかどうかは確認できないことを付記いたします)を読むと、確かに7小節目に明確にアクセントが入っているのです。このアクセントの有無をケンペはきちんと描き分けているだけなのだと思いました。

 ケンペの演奏について、当時ミュンヘン・フィルのコンサートマスターであったクルト・グントナー氏がインタビュー(ドリームライフ国内盤 DLCA7024の解説書 クルト・グントナー、ルドルフ・ケンペを語る(2)より、以下引用時には「インタビュー」と表記)で以下のように述べています。ちなみにグントナー氏はわずか18歳でバイエルン国立歌劇場管弦楽団のコンサートマスターとなり、10年後の1967年、音楽監督に就任したケンペからの要請でミュンヘン・フィルに移籍して、ケンペが死ぬまで務めていたそうです。すなわち、ケンペ時代のミュンヘン・フィルを支えた人だと言えると思います 。

 「(ケンペは)作曲家が書いていないことは、しない。それでいて、なにか図式にはめこんだように堅くはならないんですね。書いてあることは、すべて見出せる。書かれていないことは、何も見出せない。それがケンペであって、そのさまは、なにか優れた弦楽四重奏に接しているようなところがあります。(中略)ケンペが自分のスコアを見せてくれたことがありましてね。なんにも書き込みがないのですよ。ちょっとした線すら書かれていない。『全部ここに揃っていますから。ここにある通りにやればいいんです。』と言っていましたよ。スコアが真っ白であることに、彼はとても誇りを持っていましたね。」

 そして金管が森の奥底から響き渡るように咆哮します。この立体感が鮮やかで、かつ適切です。このディスクが世に出た当時、評論家諸氏は「ベートーヴェンや(当時ブルックナーと同時進行中であった)ブラームスではこぢんまりとしているのに、いきなりブルックナーではスケールの大きい演奏をした」「ブルックナーでやったことを、ベートーヴェンやブラームスでもやればもっと良いのに」という論調がありました。この評論家諸氏の論調は、やはりグントナー氏の「インタビュー」から否定されます。

 「ケンペは、ベートーヴェンやブラームスのフォルテを、マーラーのそれと同列に扱うというようなことは絶対にしませんでした。それぞれの作曲法に従うわけです。マーラーでは、所に応じて非常に強烈なことをやりましたが、ベートーヴェンやブラームスでは、極端な、ドカーンというような音を絶対に避けました。」

 ケンペはブルックナーだから、そのようにしたに過ぎないわけです。第一楽章はその強弱や曲想の移り変わりでテンポは実に細かく変わっています。特に全体のほぼ中程、ホルンで序奏が回帰されて強奏された後、オーボエが一節寂しげに歌ってから、弦の伸びやかな響きをバックにフルートとクラリネットが何気ない下行音階を刻みます。ここもよく聴くと細かくテンポが動くのですが、実に自然に感じさせています。そして実に侘びしく美しい瞬間です。

 第二楽章では、冒頭からのオーボエの名演が心に染み渡ります。おそらく吹いているのは当時の首席のゲルノート・シュマルフスであったと思います。ケンペのベートーヴェン全集でもここぞというところで、惚れ惚れする演奏を聴かせてくれています。特にベートーヴェン/第7番第一楽章再現部のオーボエソロでは、他のディスクでは決して真似の出来ない至芸をやっています。さて、オーボエソロで侘びしさが満ちたところで一瞬の静寂、そして弦楽器群による第二主題が始まります。この部分を越える演奏を私はまだ出会ったことがありません。これに続く後半、管弦楽の複雑な絡み合いがあるのですが、ここを実に自然に演奏していくのです。その理由をグントナーは「インタビュー」で次のように回想しています。

 第2楽章で、違うリズムが同時に鳴っているでしょう、4分割と6分割の。ケンペはあそこを、左手で6分割、右手で4分割を振ったんですよ。それもメトロノームみたいにね! 楽員は100%それに頼ることができました。ケンペはこういったことを、じつにさりげなく、完璧にやってみせたものです。

 さて、まだまだ言いたいことは山ほどあります。例えば第四楽章冒頭の、第一楽章序奏が回想されるときの強弱記号の違いを鮮明にしていることなど、こんな調子で書き連ねていけば紙数がいくらあっても足りません。そこでいきなり、ケンペ盤はどのように位置づけられるのかということを考えてみたいと思います。

 シュターツカペレ・ドレスデン来日公演2004 5月21日(金)サントリーホール:神を畏怖するブルックナーと、神をも恐れぬブルックナーにおいて、松本さんはブルックナー演奏について以下の通り明快に著述されています。

 実は、私はブルックナーを演奏するときに、個人的なスタンスが明白に晒されてしまう最も重要なことがらは、「演奏家の個人的な宗教心」であると考えている。これは特定の宗教を信仰することでは決してないが、「信心するこころ」が人生を送る上での重要な要素として心の拠り所の一つであることが、許容できる人間か否かで、ブルックナーを演奏する行為の、根本的な方向性が支配されるものと信じている。繰り返すが、宗教心がなければ、良い演奏が出来ないのでは絶対にない。しかしながら、その人の心のありようが、演奏の方向性を支配する楽曲は、ブルックナーの交響曲をおいて他には無いと考え、またその様に信じている。真の宗教音楽の方がむしろその様な枠を持っていない。つまり、ブルックナーの交響曲を演奏するスタンスは、この観点からのみ分析すると、

1.絶対音楽として捉え、宗教的な志向も排除する演奏スタイル
2.絶対音楽ではあるが、個人の宗教心の吐露なくしては成り立たない演奏スタイル
3.宗教音楽と捉え、キリスト教の信仰告白の一形態として演奏するスタイル
4.宗教音楽と捉えるが、キリスト教とは切り離して演奏するスタイル
以上に分類できると考える。

 さて、このケンペの演奏が上記のどこに分類されるのだろうかと、実は2004年にこの文章を目にしてからずっと考え続けているのですが、結論が出ていません。ケンペの宗教曲の録音は極めて少なく、しかもモノラル録音でのモーツァルト/レクイエムや、ブラームス/ドイツレクイエムなどの初期に限られます。そして、これは機会があれば書きたいのですが、モーツァルトは明らかに異形の演奏になっています。実演ではバッハのマタイ受難曲も指揮していますから、ケンペがまったくキリスト教とは縁がないわけでもないのは明白ですが、正規録音はとても少ないのです。

 個人的には松本分類の2に近いと感じるのですが、方向性が異質です。ブルックナーの音楽をスコアから読み取り形を為していく上で、ケンペはスコアが語りかけることを徹底的にあぶり出して一つも手を抜かずに音楽を創り上げています。この点では絶対音楽重視型とは言えます。しかし、ケンペに特徴的なのは、その中でブルックナーの音楽に不可分な宗教性が「必然的に」具備されて「しまっている」ということです。その「宗教性」はケンペ個人の発露なのか、ブルックナー音楽の宗教性なのか、分割することが困難なほどに堅牢にそして渾然一体となっていると思うのです。したがって松本分類の4の要素もあるのではないかとも考えます。

 ケンペ盤は最初BASFのLPにて発売され、日本ではテイチクレコードから出ました。CDとしては上述の4種を所有しています。BASFが倒産してACANTAレーベルに音源が移りその後30年間転々としたため、CDとして復刻されることは希でした。最近日本ビクターから出たXRCD盤は、音質も素晴らしくこの名盤の魅力をよく伝えていることを付記させていただきます。

 

 

SACDジャケット

ブルックナー
交響曲第5番変ロ長調
飯森範親指揮山形交響楽団
録音:2009年1月20-21日、山形テルサ
YSOlive(国内盤 OVCX-00048)

 山形交響楽団の団員数は50名程度とのことであり、きっとケンペ/ミュンヘン・フィルと比べれば小振りだと思います。そのオーケストラで増員なしで録音したブルックナーです。当然ながらスケール感は小さいです。

 しかし、だからこの演奏はだめなのか?というと、そうは思えない力が冒頭の序奏から存在します。弦のビブラートは最小限度ですが音色は貧弱どころか芳醇です。主部になっても管弦のバランスはとても整っていて金管もがなり立てることなく弦の音がかき消されません。スケールでは勝負にならないからこそ透明感で勝負しているので、音楽は全体の大きさを拘泥せずに無理なく調和して美しく響いていきます。その後もテンポも大きく動かすこともなく、声部のバランスを変えて気を引こうとすることもありません。第一楽章の最後も、大オーケストラならここぞとばかり大音響で耳をつんざくほど演奏するのに、山形交響楽団は開放感はありますが、わめき立ていることはしません。首尾一貫して自分たちの音楽を信じ、どこまで究めることができるのかという視点で演奏しているのだな、と思います。

 第二楽章もケンペ盤よりは早めのテンポで進めます。オーボエ奏者は好演していると思います。そして弦楽器による第二主題になります。そこでの間の取り方、テンポこそ違えど弦楽器の呼吸の合わせ方はケンペ盤とよく似ている風情を醸し出しているのは、驚きでした。その後も速めのテンポで進みますが弓の返しがもたつかないので、聴いているとあくせくした印象はありません。第三楽章は他の楽章に比べてテンポの振幅は大きく、とても快活で躍動感に満ちあふれています。第四楽章まで聴き進めればオーケストラの響きにすっかり親しんでいる自分に気がつきます。「室内楽的」などという凡庸な形容は到底当てはまりません。これは立派な管弦楽であり、ブルックナー音楽なのだと断言できる充実した演奏です。

 「YSOライヴ」というレーベルですが、このディスクはセッション録音だそうです。ある程度の微調整はしているのかもしれませんが、真剣に音楽と向き合い、解釈を徹底させて、自分たちのベストを刻印しようという気概は横溢しています。このコンビと言えば「マエストロ、それは、ムリですよ・・・」(ヤマハミュージックメディア、2009)という本を思い出されるでしょう。私は当盤を聴いてから読み、あくまでも顧客の立場で考えてビジョンを出す指揮者だけではなく、それをどう具体化するか奔走する事務局、団員の双方が賞賛されるべきだと思いました。諸氏が指摘されているように音楽、というよりはマーケティングとかブランディングという視点で興味深い書籍だと思いました。そして、聴衆を(媚びを売るのではなく)大事にするという姿勢がそのままブルックナーの音楽にも表出しているのだと思います。

 さて、この飯森/YSO盤は上述の松本分類ではどこに位置づけられるのでしょうか? 宗教的な志向を排除した絶対音楽という1のカテゴリーのように、まずは思います。しかし、宗教を「何かを無批判に正しいものとして受け入れ」、さらに「何かを求めたり究めるのではなく、それとの関係性を行為として具現化すること」と乱暴に定義させていただければ、飯森/YSO盤の根底に流れていて、この曲に盛り込んでいることは、キリスト教ではないとしても、やっぱり宗教音楽となって響いてきていると考えます。それゆえ松本分類の4の要素もあるのではないかと、今は思っています。

 

 

 

 ある楽曲に初めて巡り会ったとき、その曲の印象は演奏家の解釈とともに入ってきます。それゆえ、名盤と言う際には楽曲と演奏(解釈)は不可分であり最初の演奏が規範となることも避けては通れないでしょう。それが自分にとって絶対的な規範となってしまえば、他のすべての演奏は「絶対的な規範」ではないもの、という否定形で捉えられてしまいます。ブルックナー/第5において、ケンペ盤は私にとっては当初「絶対的な規範」でありました。他のどんな「名盤」を聴いてみても「この部分をケンペはこうは指揮しなかった」という比較をしていました。それだけの名盤としての力をケンペ盤は持っていると、今も私は考えています。

 一方で、飯持/YSO盤を聴いてみて、私は違った視点を持つことができるようになりました。大げさに言ってしまえば、ブルックナーの音楽を響かせるとはどういうことなのか、という命題に対してより深く考える機会を与えてくれたと思います。その意味で飯森/YSO盤も私にとっては名盤であるのです。

 

2010年4月27日掲載、An die MusikクラシックCD試聴記