An die Musik 開設11周年記念 「名盤を探る」

第6回 モーツァルトのピアノ・ソナタ第11番「トルコ行進曲付き」

文:伊東

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 ヴァイオリン協奏曲、ピアノ協奏曲と続いたので「名盤を探る」第6回はピアノ・ソナタを取り上げます。モーツァルトの「トルコ行進曲付き」です。

 

■ 旧時代の録音

 

 思い起こしてみると、極端なこだわりがある旧時代の録音はありませんでした。ご多分に漏れず、私もギーゼキング盤(EMI、1953年録音)以降多数の録音を今まで聴いてきたのですが、どの録音にもそれなりに満足しています。

 満足する、しないという次元を超えて、「このような演奏スタイルもあるのか」と私を驚かせた演奏もあります。ひとつはグレン・グールド盤です(SONY、1965,70年録音)。本人は大まじめにやっているのでしょうが、いつ聴いても奇妙な演奏です。グールドが、いわゆる常識的なテンポを取っていないためです。家族がいるときにグールド盤をかけると、必ず笑われます。もうひとつはフリードリッヒ・グルダ盤です(amadeo、1977年録音)。自由自在な装飾音の付加、テンポ設定など、グルダの面目躍如です。

 このソナタが有名すぎるために、グールドもグルダも悪戯心を抑えきれないのでしょう。とはいえ、グールド盤もグルダ盤もこの曲の多種多様な演奏のひとつです。

 ですが、この曲はごくオーソドックスな演奏によって楽しみたいと思います。そうした意味でイングリット・ヘブラー盤を代表例として挙げておきます。

CDジャケット

モーツァルト
ピアノ・ソナタ第11番 イ長調 K.331「トルコ行進曲付き」
ピアノ:イングリット・ヘブラー
録音:1963年
PHILIPS(国内盤 PHCP-10134)

ピアノ・ソナタ第8番、第10番、第15番を収録

 ヘブラーの旧盤です。演奏はオーソドックスそのもので、安心して身を任せていられます。真剣にというか、ひたすら真面目にモーツァルトに向き合って演奏したのでしょう、こうした演奏を聴いていると良い演奏を残そうとした音楽家の意欲がひしひしと伝わってきます。1963年の録音であるために、大音量で聴くとさすがにテープのノイズが若干聞こえますが、そんな不毛な鑑賞さえしなければ音質的にも古さを感じさせません。ヘブラーの紡ぎ出すピアノの柔らかい響きで部屋が満たされます。音楽を安らぎのために聴くのであれば、私は十分満足します。

 さらに、ヘブラーは1980年代にモーツァルトのピアノ・ソナタ全集を再録音しました。今度はDENONからです。

CDジャケット

モーツァルト
ピアノ・ソナタ第11番 イ長調 K.331「トルコ行進曲付き」
ピアノ:イングリット・ヘブラー
録音:1986年8月1-8日、ドイツ、ノイマルクト、レジデンツプラッツ
DENON(国内盤 COCO-70445)

ピアノ・ソナタ第8番、第15番を収録

 新録音は、ピンと張り詰めた緊張感も加わって、演奏家のさらに真摯な姿勢が伝わってきます。ヘブラーの演奏は、感情移入がありません。それでいてドライでは全くなく、音楽として大変高貴な雰囲気を醸し出しています。こういう演奏スタイルはもう古いのかもしれませんが、新しい方が良いわけでもないだろうと言いたくなります。

 私はヘブラー盤をまず全集で購入し、演奏・録音ともあまりに素晴らしいので携帯用に別途この抜粋盤を購入しました。オーディオ装置の購入したりする際にはチェック用に必ずこのCDを使っています。

 

■ 新時代の録音

 

 新時代にも、真剣にモーツァルトに向き合った演奏はいくつもあります。ヘブラーの1986年録音盤を旧時代の演奏として記載してしまいましたので録音年を若干遡ります。まずは一世を風靡した内田光子盤についてです。

CDジャケット

モーツァルト
ピアノ・ソナタ第11番 イ長調 K.331「トルコ行進曲付き」
ピアノ:内田光子
録音:1983年10月8-14日、ロンドン、ヘンリー・ウッド・ホール
PHILIPS(国内盤 412 123-2)

ピアノ・ソナタ第12番、幻想曲 ニ短調 K.397を収録

 ヘブラーの新盤と内田光子のこの録音が、同じピアノという楽器を使って録音されていることには驚きを禁じ得ません。レーベル、録音スタッフ、もちろん楽器自体も異なりますが、ピアノという楽器の音色の多彩さが分かります。ヘブラーのピアノがきらきら輝くのに対し、内田光子のピアノはややくぐもった感じがあります。この音色が殊の外味わい深いのが特徴で、音だけで聴かせる魅力を備えています。ただし、演奏はその音色も相まって陰影が深く、聴けば聴くほど悲しさがこみ上げてきます。内田光子は、この曲のすべての音を何らかの理由・こだわりをもって弾いています。時間をかけ、かなり理詰めの検証もしているようですが、理詰めの結果ウェットなモーツァルトになるというのは不思議です。その意味ではモーツァルトの真に迫った演奏なのかもしれませんが。

 次はバレンボイムです。

CDジャケット

モーツァルト
ピアノ・ソナタ第11番 イ長調 K.331「トルコ行進曲付き」
ピアノ:ダニエル・バレンボイム
録音:1984年12月、パリ
EMI(輸入盤 CDZE 7 67294 2)

ピアノ・ソナタ全集

 バレンボイムはベートーヴェンとモーツァルトのピアノ・ソナタ全集をほぼ同時期に録音しています。ベートーヴェンは1981年から84年にかけて録音しましたが、このモーツァルト全集は第1番から第14番までを1984年12月に一挙に録音し、次いで第15番から第18番までを翌1985年8月に録音しています。信じられないような仕事ぶりです。にもかかわらず、この「トルコ行進曲付き」ひとつを聴いてみても演奏は極めて丁寧であり、決してやっつけ仕事ではなかったことが分かります。

 全集の中の1曲としてこの曲は埋もれている感がありますが、これは実に立派で堂々とした演奏です。感情移入を排しながらも音楽としての高貴さがあるのはヘブラー盤と同様ですが、例えば圧倒的なテクニックとパワーで弾き切った第3楽章を聴くと、バレンボイムはヴィルトゥォーゾ・ピアニストとしての刻印を残したかったのだろうと思います。

 その後大人気となったのはピリスです。ピレシュと発音するのが正しいようですが。

CDジャケット

モーツァルト
ピアノ・ソナタ第11番 イ長調 K.331「トルコ行進曲付き」
ピアノ:マリア・ジョアン・ピリス(ピレシュ)
録音:1990年4月、ハンブルク
DG(輸入盤 429 739-2)

幻想曲 ハ短調 K.475、ピアノ・ソナタ第14番、幻想曲 ニ短調 K.397を収録

 内田光子盤なみに陰影が深い演奏です。ただし、感情過多にならず、絶妙のバランスでとどまっています。その繊細な点が、異例とも思えるほどの名録音で収録されています。これで人気を呼ばないわけがありません。極めて美しい演奏ですが、第3楽章はふらふら・よたよたとしたテンポで始まり、意表を突きます。ピリスさん、ちょっと悪戯をしましたね。

 その翌年にはペライアが録音しました。

CDジャケット

モーツァルト
ピアノ・ソナタ第11番 イ長調 K.331「トルコ行進曲付き」
ピアノ:マレイ・ペライア
録音:1991年11月25-28日、ウィーン、ゾフィエンザール
SONY(国内盤 SRCR 9026)

ピアノ・ソナタ第8番、第18番を収録

 このCDを初めて聴いたとき、声も出ないほど感動しました。演奏家は、モーツァルトの演奏をCDという媒体を通して他人に間接的にしか聴かせられないというのに、襟を正したくなるほどの品位をもった音がスピーカーから流れてきたためです。

 ペライアは「ピアノで歌うこと、すなわち、本来歌わない楽器であるピアノに歌わせること、それがモーツァルトの抱いていた根源的な野心であった」と述べ、また、「モーツァルトは、オルガンや種々の管楽器の多彩な響きとニュアンスを、ピアノの音の中に刻み込んだ」としています。そうしたモーツァルトの考えを現実の音にするために取り組んだ成果がこの録音というわけです。

 モーツァルトの意図の完璧な再現は誰にとっても不可能です。しかし、ペライアは努力し、ある程度実現したと思います。悪戯心などどこにもない録音ですが、生真面目な音楽家の徹底的に生真面目な演奏がここにあると言えます。

 ペライアはモーツァルトのピアノ協奏曲全集を作ったとはいえ、モーツァルト弾きというイメージが日本ではあまりありません。モーツァルトのピアノ・ソナタのCDもこれ1枚しかありません。私もペライアを追いかけていて偶然出会ったCDです。このCDが名盤として取り上げられることがないのは、「ペライアのモーツァルトなんて」という先入観があるためでしょう。実にもったいないことです。音質も素晴らしい。意外なことに録音会場がウィーンのゾフィエンザールです。彼のバッハ同様、メーカーは何とかこれもSACD化してくれないでしょうか。

 その後に奇抜なCDが出ました。ファジル・サイの登場です。

CDジャケット

モーツァルト
ピアノ・ソナタ第11番 イ長調 K.331「トルコ行進曲付き」
ピアノ:ファジル・サイ
録音:1997年9月27-29日、パリ
WARNER(国内盤 WPCS-11742)

ピアノ・ソナタ第13番、キラキラ星変奏曲、第10番を収録

 全く破天荒なCDです。というのも、サイが弾くのはモーツァルトそのものではなくて、サイの編曲版と言って良いほどデフォルメされているものだからです。これを聴いていない人に文字面で演奏を説明するのは、楽しみを半減させてしまうので最小限にしたいのですが、グールドとグルダを足して2で割らないような演奏だとしておきます。テンポも強弱も好き放題。演奏しながらずっと歌っていて十分うるさいのに、時々足を踏みならしているようで、バタバタという音が聞こえます。強弱の差は極端で、第3楽章では爆雷のような音を鳴り響かせています。全くすさまじい演奏です。悪戯心がちょっとあるなどという生やさしいものではありません。真面目にこの曲に取り組んでいる演奏家は顔を真っ赤にしてこの演奏に抗議しそうです。ただし、リスナーからしてみれば、面白すぎてたまりません。日本語解説のタイトルには「21世紀のアマデウスはキミだ!」とあるほどです。将来は名盤になるかもしれませんが、今のところ珍盤です(私は好きですが)。

 最後はブレンデルです。

CDジャケット

モーツァルト
ピアノ・ソナタ第11番 イ長調 K.331「トルコ行進曲付き」
ピアノ:アルフレート・ブレンデル
録音:1999年6月14日、スネイプにおけるライブ
PHILIPS(輸入盤 289 462 903-2)

ロンド イ短調 K.511、ピアノ・ソナタ第16番、第10番を収録

 2008年12月に引退したブレンデルは、引退まで計画性をもって演奏活動を行っていたに違いありません。録音を行った1999年時点では、私もブレンデルが引退するなどとは思っていませんでしたが、今この録音を振り返って聴いてみると、これがブレンデルの弾くモーツァルトの集大成であったという事実が厳然としてあるために、感慨深いものがあります。

 既にモーツァルトのピアノソナタ第11番 K.331には多様な演奏スタイルが登場しています。ファジル・サイのCDが出るに及んで、ついに行き着くところまで行ったように感じられます。しかし、ブレンデルは周りの動きを気にもとめる風がありません。王道を歩む人なので完全にオーソドックスな演奏スタイルを究め、それをライブで収録しています。ライブだというのに、完璧な演奏で、迷いも、わずかな破綻もありません。知・情・意のバランスよく演奏されていて、これこそが王者の弾くモーツァルトだと認識させられます。ブレンデルの長い研鑽の答えがこれなのですね。この演奏は今後も規範となるでしょう。


 さて、ここでまた問題です。このブレンデル盤が新時代の録音の最後なのです。2000年以降、めぼしい録音が出ていないようです。ブレンデル盤以降、シュタイアー盤(harmonia mundi、2004年録音)が登場しましたが、いくら面白い演奏だとしてもそれが後世に残る名盤だとはいいにくいです。私としてはペライアやブレンデルのように真正面からモーツァルトに向き合い、心から「これは名盤だ」と思える録音に出会いたいところです。内田光子、バレンボイム、ピリスは現役のピアニストであり、上記録音からは20年以上の時間が経っていますので再録音はあるかもしれませんが、そこまで彼らがモーツァルト演奏に執着するかどうか、それを各レーベルがどう判断するかという課題があります。ペライアはバッハに夢中で、ブレンデルは引退しました。今後が不安でもあります。我々がまだ知らない演奏家が素晴らしいモーツァルトを聴かせてくれることを期待して待つしかなさそうです。

 皆様がご存じの新時代録音があれば、是非推薦をお願いします。

 

2010年3月26日掲載、An die MusikクラシックCD試聴記