クレンペラーのバッハ

ホームページ WHAT'S NEW? クレンペラーのページインデックス


 
CDジャケット

バッハ
マタイ受難曲 BWV.244
録音:1961年
クレンペラー指揮フィルハーモニア管
EMI(輸入盤 CMS 7 63058 2)

 クレンペラーは大規模な声楽曲をいくつも録音している。バッハのマタイ受難曲、ミサ曲ロ短調、ヘンデルのメサイア、ベートーヴェンのミサ・ソレムニスなど、どれもクラシック音楽の巨峰ばかりだ。これだけの大曲を次から次へと録音したことはEMIがいかにこの大指揮者を買っていたかを如実に示している。実際に出来上がった録音はその期待を裏切ることはなかった。それどころか、録音から30年以上たった現在でもその録音の存在感は群小指揮者のちっぽけな音楽づくりを寄せ付けない。この圧倒的な存在感はいったい他に何と表現したらいいのだろうか? クレンペラーは指揮をすることによって自らの音楽観を明らかにしているのだが、これを言葉で表現するのはどのようにしたって無理が伴う。要は聴いてみて、実感するしかないのだ。それも恐るべき密度で演奏されている長大な曲ばかりだから、聴く方も適当な姿勢では臨めない。いやはや、恐ろしいことだ。しかし、実際にこの巨大な音楽に接すればヨーロッパの音楽が到達した最高の芸術を味わえることは間違いなく保証できる。

 マタイ受難曲はそうしたクレンペラーの残した声楽曲の中でも特筆すべき演奏だ。名曲だけに古来メンゲルベルク盤やリヒター盤など、名盤に事欠かない。クレンペラー盤はそれらと比べても全く引けを取らないばかりか、別の次元の世界を切り開いてしまっている。クレンペラーの必聴盤だ。

 このマタイ、一言でいえば「恐い」演奏だ。「恐い」というのは軽い意味で言っているのではない。本当に恐い。恐ろしい。第1曲のひきつるような凄みのある合唱を聴けば、その意味が分かるはずだ。まるでせっぱ詰まった恐怖の中で歌われているような雰囲気。人間は極端な恐怖や苦悩に陥ると歌を歌い始めるというが、このマタイはまさにそんな雰囲気だ。どうしてこんな緊張感がスタジオの中で生まれたのだろうか。CDを聴いているだけでも、スタジオの雰囲気が異常に緊張し、クレンペラーが真摯な表情でバッハの滔々たる厳しい音楽を作り上げているのがよくわかる。合唱団の歌うドイツ語は突き刺さるように響いてくるし、とても息苦しい。逃げ出したくなる。それでも余りに高い音楽性が聴き手を放さない。すごいのは3時間40分もあるこの曲の雰囲気が終始変わらないことだ。つまり、「恐い」まま。異常な緊張感を持ったまま集結合唱に至るのだが、そこで目頭が熱くなるのはおそらく私だけではないだろう。

 なおこのCD、信じがたいことに国内盤はカタログ落ちしているようだ。どういうことなのだろうか?(その後、再発された模様)

 
 CDジャケット

バッハ
ミサ曲ロ短調 BWV.232
録音:1967年10,11月

ソプラノ1:アグネス・ギーベル
ソプラノ2及びアルト:ジャネット・ベイカー
テノール:ニコライ・ゲッダ
バス1:ヘルマン・プライ
バス2:フランツ・クラス
BBC合唱団
クレンペラー指揮ニュー・フィルハーモニア管
EMI(国内盤 TOCE-3288-89)

 ミサ曲ロ短調。クレンペラーもこの演奏には満足していたらしい。それはそうだ。ここまで精神的に浄化され、高みに登った演奏は常人には出来ないだろうし、クレンペラーとてもそう何回も実現は出来なかっただろう。確かに演奏スタイルは「現代的」ではない。古楽器による演奏を現代の規範とするならば、このような演奏スタイルをとることがそれだけでも耐え難いことになる。だが、この極限まで高められた精神性を前に、一体その規範がどんな意味を持つというのだろうか? バッハの音楽が再現される際に、上辺だけをあげつらい、水面下に凝縮された精神性を無視するのであれば、それはもうバッハではない。クレンペラーが現代に生きていれば、楽器の違いを口にして難癖をつける輩を「くそったれめが!」と言って罵倒するであろう。

 論より証拠。まずキリエだけでも聴いてみよう。このキリエにはクレンペラーのバッハに対する尋常ならざる思いが込められているように感じる。壮大な演奏だ。1967年の録音であるからクレンペラーは既に82才になっている。この演奏はクレンペラーが長く培ってきた至高の芸術の総決算であると私は考える。もちろんこれも必聴盤。これを聴かずにこの曲を語れないと言っても過言ではない。

 
CDジャケット

バッハ
管弦楽組曲(全曲)BWV.1066〜1069
録音:1969年9月〜11月
クレンペラー指揮ニュー・フィルハーモニア管
EMI(国内盤 TOCE-3296-97)

 極めて大時代的・浪漫的演奏。現代ならこのようなスタイルで演奏をしようとすれば、楽員が指揮者を馬鹿にし、席を立って帰ってしまうかもしれない。もっとも、クレンペラーなら「お前の方がわかっとらん。大馬鹿者めが!」と怒鳴ってしまうだろう。古楽器によるきびきびとしたテンポによる演奏に慣れた聴き手にとっては、この演奏はちょっとつらいかもしれない。まず異常なほどのスローテンポ。あまりの遅さにびっくりする。冗談でもこんなテンポは今ではとれないだろう。そして濃厚でロマンチックな表情。バッハがこんなにロマンチックでいいのだろうかと私まで一瞬感じるほどだ。口の悪い評論家ならそれこそ「耐用年数が過ぎた演奏」と酷評しそうだ。実際に私もこの演奏は古めかしいスタイルだと思う。だが、古めかしいことのどこがいけないのだろうか? 古くて結構。古いものがこんなにいいのならみんなどんどん古い時代に回帰すべきだ!古いもの万歳。これほど圧倒的な存在感があるバッハを前にしてはどんな聴き手も頭を垂れてしまうのではないか? この演奏がだめなら、どんな演奏がいいというのだろう。至高のバッハがここにあり、音楽的に極めて高い表現力で聴き手を幸福にする。これを楽しめないのなら音楽はいったい何のためにあるというのだろう。有名な第2番、第3番の演奏が見事な管弦楽曲になっていることは言うまでもない。さらに第1番、第4番も極めつけの名曲に聞こえる。これも必聴盤。

 なお、管弦楽組曲第3番はORFEOからも出ている。こちらも聴き逃せない。

 

 

CDジャケット

バッハ
ブランデンブルク協奏曲(全曲)BWV.1046〜1051
録音:1960年10月
クレンペラー指揮フィルハーモニア管
EMI(国内盤 TOCE-3298-99)

 現代楽器によるクレンペラーのブランデンブルク協奏曲がみずみずしいステレオ録音で残されたことに私は感謝したい。この録音の鮮度は現代のデジタル録音と比べても遜色がない。また最近のEMIの異様に乾いた冴えない録音とは比べようもない。

 もちろん録音を云々するのは演奏がすばらしいからだ。クレンペラーはゆったりとしたテンポをとってはいるものの、音楽の自然な流れが損なわれることがない。いわゆる老人指揮者のぼけて緩んだスローテンポではない。このテンポは音楽がしっかりと味わい深く再現される最大の要因になっているだけではない。そのテンポのおかげで各楽器がつむぎ出す表情の変化が心憎いまでによく聴き取れる。顕著な例は第4番第1楽章である。この楽章でのブロックフレーテの表情は名状しがたい。美しいといえばそれっきりだが、こんなに楽しく、魅惑的な音楽はそう聴けるものではない。他の協奏曲のどんな楽章においても同じことが言える。指揮者と各楽器演奏者間の息がぴったり合っているのが手に取るようにわかるのだ。腕が達者なフィルハーモニア管のメンバーがあっての演奏だとは思うが、指揮者と演奏者の音楽的な信頼関係がよほど強くなければここまで自由闊達でしかも濃密な味わいのある演奏にはなりえない。全くどこを聴いてもすばらしい。まさにこの協奏曲を聴く醍醐味が詰まった希有の演奏である。バッハの名曲の愉悦を具現した名演中の名演と私は断言したい。しつこいがこれも必聴盤である。

 

An die MusikクラシックCD試聴記、1998年掲載