クレンペラーの生涯
■ Otto Klemperer
波瀾万丈のクレンペラーの人生。音楽を聴く前にびっくりしてしまいます。
1885年
ドイツ領ブレスラウで生まれる。
1905年
ベルリンで「天国と地獄」を振ってデビュー。
1907年
マーラーの推薦でプラハのドイツ歌劇場の指揮者となる。
1910年
マーラーの推薦でハンブルク国立歌劇場の指揮者となる。
1914年 ストラスブール歌劇場指揮者に就任。
1917年
ケルン歌劇場の指揮者となる。現代音楽の指揮者として名声を築き始める。
1924年
ヴィースバーデン歌劇場の指揮者となる。
1927年
ベルリン・クロール劇場の総監督となる。斬新な演目・演出で不評を買う。4シーズンで劇場は閉鎖される。
1931年 ベルリン国立歌劇場の指揮者となる。
1933年 ナチス政権による「公務員雇用法」により、国立歌劇場を解雇される。
ライプツィヒ・ゲヴァントハウスでのリハーサルの最中、指揮台から転落。頭部を強打して人事不省に陥る。
ナチスに追われスイスに亡命。その後渡米。ロサンゼルスフィルの常任指揮者となる。
1935年 カリフォルニアに移住。
1940年
脳腫瘍にかかり、闘病生活を送る。ほとんど世間から忘れ去られる。金を使い果たし、娘が工場で働いたお金で生計を立てる。
1947年
米国から戻り、ブダペスト国立歌劇場の音楽監督となる。斬新な演目を主張し、歌劇場と衝突。
1951年
フィルハーモニア管弦楽団に客演して圧倒的成功を収める。
モントリオール空港で氷で滑って転倒し、腰骨を複雑骨折。8ヶ月入院するも、立ったままの指揮ができなくなる。
1954年
チューリッヒに定住。
1955年
フィルハーモニア管弦楽団の首席常任指揮者となる。
1958年
ベッドで吸ったたばこの火が原因で大やけどを負う。重体が伝えられる。
1959年
フィルハーモニア管弦楽団の終身指揮者となる。
1960年頃
下半身不随となる。
1964年
フィルハーモニア管弦楽団の解散騒動。ウォルター・レッグと決裂。フィルハーモニア管がニュー・フィルハーモニア管弦楽団となる際、会長に推戴される。
1972年
演奏会活動から引退。
1973年
チューリヒで死去。88歳。
An die MusikクラシックCD試聴記、1998年掲載