クレンペラーのマーラー
交響曲第7−9番及び歌曲■

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CDジャケット

マーラー
交響曲第7番 ホ短調
録音:1968年9月18-21、24-28日
クレンペラー指揮ニュー・フィルハーモニア管
五つの歌
ソプラノ:クリスタ・ルートヴィッヒ
クレンペラー指揮フィルハーモニア管
録音:1962年2月17,18日
EMI(国内盤 TOCE-3233)

 マーラーの7番はおそらくマーラーをよほど好きな人でないと聴かないだろう。長いし、つかみ所がないように見える。よもや意図的にそうしたのではないと思うのだが、ただ長くつかみ所がないように演奏したお笑いCDも私の棚にはあるから、指揮者には難物なのだろう。難物で指揮者が理解できないなら演奏しなければいいのに、CDメーカーとの契約があるとやむを得ないのだろう、駄演ばかりが量産される。困ったことだ。何もマーラーが売れるからって7番を含めた出来の悪い全集ばかり作ってどうするのだろうか?

 クレンペラーはいくらお師匠様の曲でも1番や5番は演奏しなかったというし、現代まで生きていてもマーラー全集は作らなかっただろう。もっともこの鉄の意志を持った指揮者を変心させることなど恐くて誰もしたがらないだろうが。そして、今生きていれば、凡庸な演奏をしているマーラー指揮者は恐くてクレンペラーの前には出られないだろう。

 この7番のCDはクレンペラーのマーラーの中でも特筆すべきものだ。異常に遅いテンポにより他の指揮者にもまして長時間の演奏をしているのに、長さを感じさせないばかりか、マーラーの遊ぶ黄泉の国に連れて行かれたような気になる。しかもそこは黄泉の国なのに、何とメルヘンの世界でもあるのだ。クレンペラーがこのような異常な世界を描けたのは、よほどこの曲を深く理解し、愛していたからだろう。そうでもなければあり得ない演奏だ。

 なお、国内盤には余白に「五つの歌」が入っている。「五つの歌」というタイトルの曲はマーラーにはないので説明すると、これは「リュッケルトの詩による5つの歌曲」から3曲、「少年の魔法の角笛」から2曲抜粋したものだ。実はこの「五つの歌」は単なるフィルアップ用とはとても思えない充実したものなので、簡単に紹介したい。

 収録曲は以下のとおり。順番はクレンペラーが決めたのか、あるいはウォルター・レッグが決めたのか分からない。が、わざわざこの5曲だけを録音したのだから、深い考えがあったに違いない。全曲盤から切り張りしたわけではないのでご注意。

  • 私はこの世に忘れられて(リュッケルト〜第3曲)
  • 真夜中に(リュッケルト〜第4曲)
  • 浮き世の暮らし(角笛〜第5曲)
  • ほのかな香りを(リュッケルト〜第2曲)
  • 美しいトランペットの鳴り渡るところ(角笛〜第9曲)

 マーラーの歌曲は暗くて、聴いていると陰々滅々になるのだが、困ったことにはまりやすい。この曲集も例外ではない。一時私はこの曲集にのめり込み、毎日聴き続けた。他のCDも買って聴いてみた。しかし、このクレンペラー&ルートヴィッヒ盤に及ぶ演奏はまだ出会っていない。特に「真夜中に」が感動的。

 

 

CDジャケット

マーラー
「大地の歌」
メゾ・ソプラノ:クリスタ・ルートヴィッヒ
テノール:フリッツ・ヴンダーリッヒ
クレンペラー指揮フィルハーモニア管、ニュー・フィルハーモニア管

録音:1964年2月19-22日(キングスウェイ・ホール)、1966年7月6-9日(アビー・ロード・スタジオ)
EMI(国内盤 CC30-9061)

 「大地の歌」の決定的名盤。クレンペラー最高の録音の一つでもある。

 1964年の録音でありながら、オケの音が実に生々しい。クレンペラーのCDの中でも最高の音質だと思う。オケがフィルハーモニア管からニュー・フィルハーモニア管へと名称が変わる移行時期に録音されただけにバランス・エンジニアもDouglas LarterとRobert Goochの両名がクレジットされているが、音質上の引継も上手になされたのか、違和感が全くない。しかも、最近artというリマスタリング方式でさらに音がよくなったという。

 もちろん録音がいいだけでこの演奏が有名なわけではない。肺腑を抉られるような恐るべき名演奏なのである。誇張抜きに言ってもこれほどの「大地の歌」は録音後30年たっても現れていない。この演奏を知っている人は「そのとおりだ」と思うはずだ。

 マーラー直門としてのクレンペラーは、なかなかいい演奏に恵まれない「大地の歌」を理想的な形で残したいと思ったのではないだろうか。「大地の歌」は名曲といわれながらも名演奏は極めて少ない曲なのだ。最近も大量にCDが作られているが、クレンペラーのように音楽に肉薄し、マーラーの持つ苦悩、憧れ、厭世観、などを克明に表現し得た指揮者は数えるほどしかいない。どんなに優れた歌手を配置したところで、いい演奏になるわけではないのだ。指揮者が音楽に溺れてしまってもだめだし、楽譜をなぞっているだけでも勿論だめだ。その間のバランスが非常に難しい。クレンペラーの演奏は音楽に溺れるどころか、そういったスタイルからはかなり距離を置いているように見える。ところが、演奏自体は楽譜の一つ一つの音符の意味が明確に表現されているように思える。それはこの曲の音符がすべて自分の血となり肉となっていたからこそ可能だったと思われる。そうだからこそ、類い希なほど音楽に肉薄できたのである。クレンペラーは決して耽溺すればオケやソリストがついてきていい音楽ができるとは考えてなかったのだろう。

 最後に、ソリストについてはもはや説明の必要もないが、オケが最高の音色を聴かせているので注目したい。第6楽章、フルート(ガレス・モリスか?)やオーボエ(ジョック・サトクリフ?)の音色は一度聴いたら忘れられなくなる。

 

 

CDジャケット

マーラー
「大地の歌」
メゾ・ソプラノ:エルザ・カヴェルティ
テノール:アントン・デルモータ
クレンペラー指揮ウィーン響
録音:1951年
PLATZ(国内盤 PLCC-705)

 VOX原盤。

 評価が難しい録音である。クレンペラーが一体どのような気持ちでこの録音に望んだのか、私はよく分からない。実は、この録音では大曲「大地の歌」が何と52分で終わってしまう。これは数ある「大地の歌」でもかなり短い方ではなかろうか? その原因は第6楽章にある。全曲で最も長大で、極めて重要な位置を占める「告別」が22分で終わってしまう。適当に聴いていると、いきなり"Ewig.... ewig.... "とメゾ・ソプラノが歌い終わってしまうので非常に狼狽する。

 ちなみに演奏時間を計算してみると、第1楽章から第4楽章までで26分、第5楽章と第6楽章を足すとこれまた26分になる。妙なことだが、これはLPの片面に入る収録時間ぴったりだ。実は同じことがVOX盤のブルックナーの「ロマンティック」でもあった。ちょっとくさい。これはあくまでも私の推測の域を出ないが、VOX社はクレンペラーに演奏時間をある程度指定したのではなかろうか? そうでなければここまで奇妙な符合が生じることはないと思われる。録音当時のクレンペラーは決して経済的に恵まれた状態ではない。大物プロデューサー、ウォルター・レッグに拾われてフィルハーモニア管を意のままに指揮できるようになるのはもう少し先の1954年である。クレンペラー自身、困窮していたらしいから、レコード会社の意向を拒み切れなかったのかもしれない。実際、レッグも、EMIとの契約を進める際にクレンペラーがVOX社に恩義を感じていることを見抜いている。

 もし、私の上記「仮説」が正しいなら、この演奏をもってクレンペラーの「大地の歌」を語ることは難しい。特に第6楽章についてはそうだ。

 しかし、すくなくとも大筋においてはクレンペラーらしい優れたマーラーだと思う。どこかでこの演奏を評してドライ極まりないと書いていた人があったが、私は賛成しない。演奏にしっかり耳を傾けると、紛れもないマーラーの世界が広がっているからだ。ドライなのは録音だけである。この録音は51年録音だから、勿論モノラルだが、ソリストの声がやたらとオン・マイクでとられ、楽器の音は非常に乾いた感じになっている。したがって、録音がドライだとはすぐ思うのだが、演奏までドライだとは言えないと思う。第5楽章までの演奏はクレンペラーらしく大変彫りの深いもので、おそらく、EMIの究極のステレオ録音がなければ、今でも十分名演として通用するはずだ。これを適当に聴いて簡単に捨てる気にはとてもならない。

 ソリストも力演している。EMI盤のようにこれ以上の組み合わせが考えられないほどのソリストではないにせよ、まずまずだろう。メゾ・ソプラノにはやや不満がないでもないが、余りに多くのことを求めても仕方がない。クレンペラーは与えられた条件の中でこれだけのことを成し遂げたわけだから、私はそれに敬意を払いたい。

 しかし、第6楽章はどうも急ぎすぎのように思える。"O Schoenheit! O ewigen Liebens-Lebens-trunk'ne Welt!"の後に続く音楽がどうにも駆け足すぎて情感に欠ける。クレンペラーはもともと情感に訴えるような演奏はしない指揮者だが、私の「仮説」が正しいとすれば、クレンペラーだってやるせない想いでこんな指揮をしたに違いない。マーラー直門でありながらこんな演奏をせざるを得なかったクレンペラーの心中を慮ると、かえってこちらが切なくなるというものだ。

 

 

CDジャケット

マーラー
交響曲第9番ニ長調
クレンペラー指揮ニュー・フィルハーモニア管
録音:1967年2月15-18,21-24日
EMI(国内盤 TOCE-3235-36)

 クレンペラーらしいマーラーだ。バーンスタインのマーラーを聴いた後ではやや乾いた印象を持つかもしれない。感情移入型では決してない。泣き叫んだり、馬鹿騒ぎしたりするわけでもない。かなり淡々と演奏している。クレンペラーは大見得を切るような指揮をしなくても、作品が優れていれば、その真価を性格に伝達できると考えていたのだろう。全く落ち着いた大人の演奏である。面白いのは第2楽章、第3楽章。遅めのテンポでじっくり演奏している。その効果は絶大で、無機的な表情が作品の狂気を抉りだしているように感じる。こんな効果があるとはクレンペラーは計算尽くだったのだろうか?

 第4楽章でもカラリとしている。しかし、その割にはなんだか冷たい空気が周囲に流れ込んでくるような趣がある。聴き手が感涙にむせぶような演奏だってできた人なのだろうけど、そうしなかったのがこの大指揮者の見識だろう。音楽に埋没するのではなく、音楽自体に語らせたかったのではないか。それがこの名作にはふさわしい演奏形態の一つなのかもしれない。

 クレンペラーがEMIに入れたマーラーにはずれは一つもないが、第9番も後世にまで語り継がれるであろう名盤である。マーラーの書いた音符の一つ一つがその存在感を誇示している。こんな演奏はなかなか聴けない。

 録音もいい。過度にどぎついところもないし、臨場感があり、大変聴きやすい。こうした最高の状態で録音が残されたことに本当に感謝したい。

 

 

CDジャケット

マーラー
交響曲第9番ニ長調
クレンペラー指揮ニュー・フィルハーモニア管
録音:1968年
交響曲第4番ト長調
ソプラノ:エルフリーデ・トレッチェル
クレンペラー指揮ベルリンRIAS響
録音:1956年2月18日
ARKADIA(輸入盤 CDHP 563.2)

 アプローチ方法が全く違うふたつの演奏のカップリング。

 第9番:1968年、エジンバラのアッシャー・ホールでのライブ。上記スタジオ録音(1967年)とは解釈に殆ど変化はない。スタジオ録音同様、「概ね」厳しいまでに無表情な演奏である。少なくとも突然激しい壮絶ライブになるなどということはない。ライブの方がやや演奏時間が長いとはいえ、テンポもほぼ同じ。はて、こうなると「違いは何だ?」と考えてしまう。もちろん違いはある。以下楽章毎にご紹介したい。

 第1楽章:頑なさを感じるほど無表情。この曲を指揮してクレンペラーほど冷徹な指揮者は他に考えられない。まるで前衛的な現代音楽を指揮しているような趣だ。激しい人間のドラマ、内面の葛藤などは全く期待してはいけない。その代わりに聴き手は、冷たい氷の世界に投げ出されたような気分になる。周囲の空気がたちまち氷点下に変わったのではないかと錯覚するほどの寒さだ。

 第2楽章:クレンペラーは失速寸前のテンポで演奏しているため、レントラーも静止画面をスライドで見せられているような感じになっている。その結果、聴き手は言いようのない虚無感、あるいは寂寥感に襲われる。

 第3楽章:スタジオ録音でもそうだったが、遅いテンポが作り出す重量感のため、聴き手はマーラーの音楽に押しつぶされそうになる。それはすさまじい迫力だ。これはクレンペラーらしい狂気の表現方法だと思う。

 第4楽章:この楽章の演奏はスタジオ録音とは全く違う。クレンペラー渾身のマーラー。老巨匠の胸に一体何が去来したのだろうか。クレンペラーには珍しく、完全に音楽に没入しているように思える。冷静に演奏しているのだろうか? 感情移入が見られるわけではない。テンポの揺れや、強弱が激しいわけでもない。それにもかかわらず、マーラーの音楽が怒濤のように押し寄せてくるのである。冷徹なアプローチを貫いたまま、ここまで高次元の演奏をできるのはクレンペラーをおいて他にいないだろう。あくまでも冷たい響きのまま、弦楽器は大波が打ち寄せるようにうねり、金管楽器が咆哮する。氷のように冷たい静謐な空間の中で、音楽が生成し、消滅していく。冷たく青白い炎を発しながら燃焼する音楽。これは迫真のマーラーだ。これだけの演奏はさすがに手兵でなければできないだろう。おそらくは徹底的なリハーサルがあったのではないだろうか。そういえばクレンペラーは上記スタジオ録音にも異例の8日をかけていた。

 第4番:こちらは1956年のライブ。演奏時期は12年も違う。オケはベルリンRIAS響。技術的にはやや問題があるオケだが、この録音では大きな破綻はない。演奏はそれこそ「幸せいっぱい」。聴き手は最高の幸福感に包まれるだろう。

 第1楽章:天国的に暖かい演奏。テンポは遅からず、速からず。音楽の表情も自然で、極端なアクセントなどが見られない。音楽をあるがままに演奏したという感じである。こうした演奏にクレンペラーの熟達した手腕を見る。

 第2楽章:怪奇さと田園的な気分が両立。第1楽章でもそうだったが、旋律線がうっとりするほど美しく歌われている。

 第3楽章:心温まるすばらしいアダージョ。歌と愛情に満ちている。クレンペラーもこの楽章の出来には満足したのではないだろうか。さまざまな楽器が織りなす響きも最高に美しい。クレンペラーも感極まったのか、何カ所かで盛大にうなり声をあげている。

 第4楽章:情感たっぷりの演奏。ソプラノのトレッチェルは44歳を前に他界した歌手で、今となっては無名なのだが、大変優れた歌を聴かせる。天国的な気分を上手に表現していると思う。これはいい。クレンペラーもまた気持ちがよくなってしまったらしく、うなり声をあげているのが微笑ましい。

 

 

CDジャケット

マーラー
亡き子をしのぶ歌
バリトン:ジョージ・ロンドン
クレンペラー指揮ケルン放送響
録音:1955年
MYTO(輸入盤 2 NCD 971.153)

 面妖なCDジャケットに驚く人もいるかもしれない。これはメインがチャイコフスキーのオペラ「エウゲニ・オネーギン」で、マーラーの「亡き子をしのぶ歌」は付録である。共通点は何かというと、バリトンのジョージ・ロンドン。彼がオペラのタイトルロールを歌っているのである。

 「亡き子をしのぶ歌」というと、ひとつ思い出すことがある。昔女房が英語学校に通っていた頃、面白い先生が来たという。曰く、「私ハ、マーラーノ<亡キ子ヲシノブ歌>ガ好キデス。日本ノ暑クテ、ムシムシスル夏ノ日ニ、冷房ヲ止メテ、部屋ヲ閉メ切リ、コノ曲ヲ聴クノガ好キデス」。

 その話を聞き、最初は随分変なことをいう先生もいたものだと思ったのだが、その後にこの先生はこの曲の正しい聴き方をしているのではないかと考えるようになった。例えば、クレンペラーのこのCDは、録音がモノラルだし、ラジカセかなんかでこの先生がしたようにして聴くと、すごくいいのではないかと思う。

 さて、この演奏。ジョージ・ロンドンはこれ見よがしの表情を作ることなく、マーラーの名曲を歌い上げている。どの曲もいい出来だと思う。クレンペラーの指揮はどうか。この曲はリートであるとはいえ、管弦楽は非常に重要な役割を果たす。単なる伴奏ではあり得ないのである。クレンペラーの指揮がよく味わえるのは第2曲と第5曲だろう。第2曲では各楽器がポリフォニックに(体位法的に)入ってくるあたり、実に面白い演奏になっているし、第5曲ではやや速めのテンポで焦燥感を作り出しており、その切迫感がすばらしい。オケの各楽器の旋律線がくっきり浮かび上がるところはクレンペラーの面目躍如というところだろう。第5曲は歌手も、指揮も最も聴き応えがある楽章である。

 音質はモノラルだが、大変聴きやすい。ノイズが完全にカットされているが、それで音の厚みなどが特に犠牲になっているようにも感じられない。放送用録音として上手に収録されたようだ。

 なお、メインの「エウゲニ・オネーギン」であるが、こちらはRichard Kraus指揮バイエルン放送響の演奏である(録音は1954年)。バイエルン放送響がピットに入ったというのは聞いたことがないから、これは放送用あるいはコンサート形式で行った上演の録音であると思われる。音質はモノラルながら最高。バイエルン放送局の優れた録音技術を窺い知るのに十分である。

 

An die MusikクラシックCD試聴記、1998年掲載