クレンペラーのブルックナー
■交響曲第4番〜第6番■
ブルックナー
交響曲第4番変ホ長調「ロマンティック」
クレンペラー指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管
録音:1947年11月3,4日
TAHRA(輸入盤 TAH 328)コンセルトヘボウ管は戦後いち早くクレンペラーを指揮台に迎えていた。それは戦前からの強い絆があったためらしい。CDの解説によれば、両者の最初の出会いは1929年1月20日、最後のステージは1964年7月11日だという。その間クレンペラーはコンセルトヘボウ管の指揮台に127回登ったらしい。
解説書にはクレンペラーがコンセルトヘボウ管と演奏した全曲目がリストアップされていて、大変興味深い。それを見ると、ベートーヴェンの演奏回数が最多の124回であったのに対し、ブルックナーはわずか9回しか演奏されていない。その9回のひとつがこの「ロマンティック」である。
さて、曲名こそ「ロマンティック」なのだが、これは全くロマンティックではない「ロマンティック」だ。我々リスナーが期待する、いわゆるドイツ的な森の響きをここで期待することはとてもできない。おそらくクレンペラーという希代の天の邪鬼は、妙に表題的に捉えられがちな「ロマンティック」という通称を嫌っていたのではないだろうか。そうとでも考えなければ、ここまで徹底した「森の響きの排除」はできないと思う。テンポも猛烈に速く、全曲で54分しかかかっていない。VOXBOXに収録した「ロマンティック」(下記参照)は51分29秒というとてつもない記録を示すが、これもそれに並ぶ快挙なのである。では、この時期、クレンペラーは単に即物的な指揮を目指していたのだろうか。
おそらくそうではないだろう。この演奏を聴くと、「即物的」という言葉からはほど遠い激しい燃焼を感じ取れるからである。ライブであることも手伝って、クレンペラーはダイナミックにオケを鳴らしまくる。力感は抜群である。超快速テンポで演奏され、しかも森の響きが排除されているにもかかわらず、会場は興奮の坩堝だったと思う。甘っちょろい感傷的なスタイルに完全に背を向け、硬派に演奏した結果、熱く鍛えた鋼のようなブルックナーができあがったのである。
演奏しているのは戦後メンゲルベルクの呪縛から解放され、近代的な超高機能オケに変身していたコンセルトヘボウ管である。オケはクレンペラーの激しい息づかいをそっくりそのまま受け止め、クレンペラーが意図する、贅肉を削ぎ落とした古典派的な風貌を持つ交響曲を生み出すことに成功したのである。この「ロマンティック」は、まるでベートーヴェンの交響曲のように響く。だから、もし、いわゆる「ドイツの森」を期待してこの曲を聴くのでなければ、大変面白く聴ける。
私は様々な演奏を聴いてきて、ある考えを持っている。名演奏家は、それまでと違ったアプローチをして、聴き慣れた曲の全く別の一面を教えてくれるのもだと。その意味でこのクレンペラーの演奏は名演奏の名に十分値する。私は何度も聴き、何度も感心した。こんなに自己主張をし、聴き手を楽しませてくれる演奏はやはりすばらしい。
音質は1947年の録音であるにもかかわらず非常に聴きやすい。強奏時に音が団子になったり、一部テープのヒス・ノイズが入るが、ダイナミックな演奏に気にしている間もないであろう。
なお、CDジャケットには原盤所有者(放送局らしい)の報告にしたがって1948年録音と記載がある。が、解説を見ると、48年にクレンペラーはオランダで演奏をしていない。正しくは1947年ということらしい。
ブルックナー
交響曲第4番変ホ長調「ロマンティック」
クレンペラー指揮ウィーン響
録音:1951年
VOXBOX(輸入盤 CDX2 5520)速い。すごく速い。こんなブルックナーは聴いたことがない。EMI盤も速かったがその比ではない。演奏時間合計はわずか51分。ハース版を使ったとギュンター・ヴァント盤(ベルリンフィル)の68分とは比べようもない。なんだか、わざわざLPの収録時間にでも併せて演奏したような演奏だ。第11楽章13.5分、第2楽章12分、第3楽章9.5分、第4楽章16.5分だからA面、B面ともにおおよそ26分になる計算だ。まさか片面26分になるように演奏したなんてことはないだろうが、ないとは言い切れないから恐い。
演奏はそれこそ評論家達に「即物的」とレッテルを貼られそうだ。第1楽章から猛烈に速いから、聴き手はいつものようにホルンの朗々たる響きに浸りながら森の中をゆっくり散策している暇などない。山間部の有料自動車道をターボ付きの車で駆け抜けていくような感じだ。
しかし、誤解してはいけない。悪い演奏では決してない。これは紛れもないブルックナーだ。こんなブルックナーは聴きたくないと言う人もいるだろうが、「ロマンティック」という表題(?)を知らずに、さらには、「森のイメージが、云々」という先入観がなければ、この演奏を聴いてこの曲を好きになる人だって多いはずだ。クレンペラーは音楽を情緒的に捉える人ではないからこのような演奏が可能なのだ。むしろ、だらだら長いだけの情緒的「ロマンティック」がはびこる中でこのようなすっきりとした演奏は新鮮だと思う。おそらく発売元のVOXBOXも今はロスバウトのマーラーとカップリングしているくらいだから、好事家向けに売っているのだとは思うが、単に好事家向けのCDと言うだけでなく、多くの音楽ファンが耳を傾けてもいい演奏だ。
オケも大変力演している。おそらくかなりの時間をかけたセッションだったのだろう。クレンペラーの棒に見事に対応している。筋肉質のブルックナーだ。
- クレンペラーの「ロマンティック」には1954年ケルン放送響とのライブもある。
ブルックナー
交響曲第4番変ホ長調「ロマンティック」
録音:1963年9月
クレンペラー指揮フィルハーモニア管
EMI(国内盤 TOCE-1570)なぜか話題にならないが大変面白い演奏。クレンペラーの爆演と言ってしまってもいい。一部のブルックナーファンには「やりすぎ」と思われる可能性も否定できないが。
演奏は金管楽器を全開にし、どの楽章においても非常に壮麗さが際立っている。オケの音色は硬質で分厚く、力強い。オルガン的な響きも十分。しかも、重要なことだが、無機的な演奏では決してない。この曲は第1楽章の旋律が印象的で、聴いているといつもうっとりしてしまうのだが、私は第2楽章以降で退屈することが多い。ところがクレンペラーの指揮で聴くと、全く長さを感じさせない。テンポはちょっとだけ速めな程度だが、クレンペラーが作り出す音楽の密度が極めて高く、凝縮されたエネルギーが爆発しまくっているので、聴いていて全くだれるところがないのである。第4楽章は特に激しい演奏だ。その激しさは悪魔的で、緊迫感が高まる。この楽章はライブ並みのノリが感じられて仕方がない。録音もいいし、こんなブルックナーなら、楽しくてたまらない。
もっとも、反論もあるかもしれない。例えば第2楽章はいくら何でも激しすぎるかもしれない。しみじみとした情感が吹き飛ばされているのだ(第2楽章にこの曲らしい「しみじみとした味わい」を求めるなら、下記ライブ盤を聴くべし)。金管楽器が全楽章でギンギンに鳴りまくっていることについても顔をしかめる人もいるかもしれない。だが、それでも総合的に見れば傑出したブルックナー演奏だと思う。
オケも好調で非常にいい音を出しているのだが、1箇所問題がある。第1楽章の第1主題が途中で回帰してくるところ。ホルンとフルートが微妙にずれている。本当に微妙なのだが、こんな演奏がどうして世の中に出てしまったのだろう? クレンペラーがプレイ・バックを聴かなかったのか、あるいはアンサンブルなんて必ず「ずれる」ものだと考えていたからなのか? ウォルター・レッグによればクレンペラーはパッチワークを許可しなかったらしいから、楽章を通して演奏した中でこれが最良のテイクだったに違いない。実際そのわずかなキズがあっても、面白い演奏であることには変わりはないのだから、余り気にすることもないかもしれない。
なお、この演奏はノヴァーク版を使用。
ブルックナー
交響曲第4番変ホ長調「ロマンティック」
クレンペラー指揮バイエルン放送響
録音:1966年4月1日、ミュンヘン
EMI(輸入盤 7243 5-66866 2 5)バイエルン放送響とのライブ録音。同じ日のプログラムにはシューベルトの「未完成」があり、それもEMIから発売されている。
この「ロマンティック」、上記スタジオ録音盤と基本的解釈に変化はない。違いはオケがドイツの腕利きバイエルン放送響であることと、ライブであることである。
バイエルン放送響はさすがにうまい。ドイツのオケだけにブルックナー演奏に慣れていることもあるだろうが、ヨッフム時代からクーベリック時代になって5年を経たこのオケの技術はやはり非常に優れている。もともといいプレーヤーがいたのだろうが、二代にわたる名指揮者のもとで研鑽を積んだのだろう。すばらしい音を出す。特にこの曲で重要な役割を果たすホルンの音色はフィルハーモニア管と全く違う。本当にドイツの森を連想させる。これだけでも聴き応えがあるというものだ。しかもオケ全体の響きがまろやかで、各楽器の音色が全体の中でよく溶け合い、調和している。もっとも、これは録音技術にも左右されるから、これだけでフィルハーモニア管との差を云々することはできないだろう。
この録音はライブであることもあって、どの楽章も音楽の高揚ぶりがすばらしい。特に第4楽章は強烈なほどだ。目の前で展開される壮麗なブルックナー。バイエルンの聴衆は息をのんでこの演奏を聴き入ったに違いない。
なお、レコ芸で宇野功芳氏がこの演奏を即物的だとケチョンケチョンにけなしていたが、私は納得できない。この曲は「ロマンティック」なんて名前が付いているからというわけでもないのだろうが、骨のない腐った演奏をする指揮者がいるのだが、クレンペラーの演奏はきりりと引き締まって一瞬もダレていない。現代の指揮者の駄演に比べれば月とすっぽんのはずだ。
ブルックナー
交響曲第5番変ロ長調
録音:1967年3月
クレンペラー指揮ニュー・フィルハーモニア管
EMI(輸入盤 CDM 7 63612 2)ブルックナーの神髄に迫る究極のブルックナー演奏。クレンペラーの確信に満ちた演奏が聴き手を圧倒する。ドイツ・オーストリア系音楽において最高の演奏を行い続けたクレンペラーが最晩年に達した高みを我々はこのCDによって窺い知ることができる。ただし、適当には聴いてはいられない。聴き手には正座を要求するからご注意。
第1楽章:冒頭の音はなかなか聴き取れないほどのピアニッシモだ。ウォルター・レッグによれば、クレンペラーはほとんど弱音を要求しなかったらしいが、ここではかなりの弱音で開始される。もちろんその後に来る強奏との対比が見事になるという効果を考えているのかもしれない。しかし、この部分は大変重要な場所で、一旦全楽器による壮麗な響きに満たされると、聴き手はそこから完全にブルックナーの世界に引きずり込まれる。テンポは遅い。それ故か、スケールはすこぶる雄大。オルガン的な響きの表出はもちろん、訥々としたブルックナーの言葉が非常に深淵に感じられもする。そうした演奏をしているクレンペラーはまるでこの曲を通して「神」との対話をしているようだ。聴き手は身が打ち震えるような体験をすることになる。
第2楽章:神秘の世界。だんだんオカルト的な表現になってきて恐縮だが、他に言葉がない。この楽章の演奏は驚くほど丁寧で、弱音も美しく、細かなフレーズのひとつひとつに神の魂が宿っていくような気配すらある。聴いていると心が勝手に高揚してくる。おそらくクレンペラーはこの楽章の録音に際しては念入りなリハーサルを課したと考えられるが、それだけではとてもここまでの演奏はできない。プラス・アルファがある。それが何か私には全く分からないが、クレンペラーの神業的な偉業としかいえない。この楽章を聴いて滂沱の涙を流す人もいるだろう。
第3楽章:スケルツォとしては遅めのテンポ。荒々しさは余りない。むしろ丹念に演奏した感じがするが、不思議と神々しい演奏になっている。のどかなトリオとの交代も実に自然で、第3楽章全体の有機的な統一感が最高度に高められている。
第4楽章:巨人の歩みを思わせる雄大な演奏。ご存知のとおり、冒頭、第1・2楽章の主題が回想された後、弦楽器によって第4楽章第1主題が提示されると、すぐさまフガートで音楽が進行する。その開始部分が極めて印象的で、神々の世界の入り口に踏み込んだような気になってくる。そのテンポも実にゆっくりしたもので、非常な重量感を伴う。そして、そのテンポが最後まで揺るぎなく維持されるのである。その様はまさにこの世のものとも思えない雰囲気だ。ゆっくりゆっくり壮麗なコーダに向かい、圧倒的な迫力で聴き手を押しつぶす。
余談だが、朝比奈隆はクレンペラーの指揮するブルックナーを理想としているらしい。彼が規範としているのはおそらくこうした演奏なのではないだろうか。
ブルックナー
交響曲第5番変ロ長調
クレンペラー指揮ウィーンフィル
録音:1968年6月2日
SEVEN SEAS(国内盤 KICC 2078)クレンペラーが最晩年の1968年にウィーン芸術週間でウイーンフィルに客演した一連の演奏のひとつ。ライブであることも幸いして、この曲の代表的名盤として語り継がれている。
ただし、当然といえば当然なのだが、演奏スタイルは上記スタジオ録音と全く違う。スタジオ録音盤が楷書によるブルックナーであるとすれば、こちらは行書体。スタジオ録音盤が筋肉質で圧倒的なパワーを感じさせるものであるのに対し、こちらは肩の力を完全に抜いた自然体の演奏といえる。比喩的に言えば、墨絵のようなブルックナーである。ゆったりとしたテンポこそ同じでありながら、とても両者が同じ指揮者によるものだとは考えられない。
なぜこんな差が出てしまったのか。理由はライブであるかどうかだけではないだろう。おそらくライブ盤のオケがウィーンフィルであるからだ。完全にブルックナー表現を身につけているウィーンフィルにしてみれば、どんな指揮者が現れようと自らの流儀で演奏してしまうものなのかもしれない。それはそれで恐るべきことで、他のオケではまず考えられないことだ。実際、全曲を通して聴いてみると、まろやかな音色には本当に驚かされる。金管楽器群自体がまず鋭角的でない、非常にまろやかな音であるし、弦楽器の音色はビロードを連想させる。もっと驚くのは強奏の時には全楽器の音が完全にブレンドされてしまうことだ。その結果、ブルックナーのオルガン的な響きが完全に生まれてくる。迫力も申し分ない。
ただし、私個人はいまだにこの演奏はさほど好きにはなれない。このCDがクレンペラーを聴くというよりも、ウィーンフィルを聴くといった趣が強いためかもしれない。
ブラームス
ハイドンの主題による変奏曲 作品56a
録音:1957年2月7日
ブルックナー
交響曲第6番イ長調
アムステルダム・コンセルトヘボウ管
録音:1961年6月22日
MUSIC & ARTS(輸入盤 CD-247)いずれもアムステルダムにおけるライブ録音(ハイドンの主題に基づく変奏曲はこちらと同じ演奏。音質はMUSIC & ARTS盤の方が良い)。
MUSIC & ARTSはどこでどうやってこんな音源を見つけてきたのだろうか。モノラルのライブ録音なのに、音質は極めて鮮明で、鑑賞に全く不足しない。よほどマイクの設定が良くなければ、このような音質は得られないはずだ。ということは、コンセルトヘボウ当局からテープを得ているのだろうか? 当局にはテープが存在するのか? だとすれば、クレンペラーはコンセルトヘボウにかなり客演しているから、今後ライブ録音がもっと出てくるに違いない。その場合、EMIなりORFEOなり、TAHRAなり、どこのレーベルでも構わないのだが、リマスタリングをきちんと施してCD化してほしい。このMUSIC & ARTS盤を聴く限り、マスターはかなり上質のはずだ。
クレンペラーは3年後にブルックナーの交響曲第6番をEMIに録音している。基本的解釈は両者とも同じである。演奏時間も楽章毎に少しずつ差があるが、おおよそ同じ。クレンペラーのスタイルは1950年代後半に大きな変化を見せ、巨匠的重厚さを見せるのだが、もしそれ以前のブルックナーの6番が残っていれば、全く違う解釈で演奏を聴けたかもしれない。
しかし、指揮者の演奏スタイルが一緒でも、オケの違いというのは歴然と現れている。ここで聴くコンセルトヘボウの音はドイツの森を連想させることは残念ながらあまりない。が、非常に整ったアンサンブルの中で、爆発的なパワーによってブルックナーの息吹を感じさせる。金管楽器も木管楽器も実に艶やかな音を出していて、輝くばかりのブルックナーとなっている。第1楽章ではそれが顕著で、クレンペラーもオケのきらびやかな音色を楽しみながら指揮したのではないかと思われる。重厚さよりも輝かしさに秀でた演奏である。第2楽章では木管楽器が弦楽器とともに寂寥の歌を歌い始めるが、コンセルトヘボウの妙技が光るすばらしい演奏である。第3,第4楽章においても「これがライブか?」と疑うほど完璧な技巧を見せつける。これはコンセルトヘボウというオケの美質が非常によく表された演奏だと思う。
なお、「クレンペラーはブルックナーに愛着を感じていないのではないか」という文章を見かけることがある。私はそうではないと思う。この演奏を聴くと、ブルックナーが輝かしく、明快に鳴り響いている。演奏に緩みなどなく、堅牢なフォルムが創り出されている。ブルックナーの演奏スタイルとしてはひとつの理想と言えるのではないか。そんな演奏はブルックナーへの愛着なしには行えないと私は思う。
ブルックナー
交響曲第6番イ長調(ハース版)
録音:1964年9月
クレンペラー指揮ニュー・フィルハーモニア管
EMI(輸入盤 CDM 7 63351 2)名曲、名演、名録音の典型。この曲が好きになれない人にこそ聴いてもらいたい名演奏。第6番はブルックナーの交響曲の中でも地味で、人気もあまり高いとはいえないが、これは別格にして良いだろう。ブルックナーの壮麗な音響の世界と豊かな情感に溢れるダイナミズムがクレンペラーとニュー・フィルハーモニア管によって余すところなく表現されている。異論はあるかもしれないが、この曲の理想的な演奏のひとつと言える。
クレンペラーは最晩年のスタイルに近づいてはいるが決して遅いテンポではない。終始厳しいまでの緊張感を維持しており、大理石でできたヘラクレスのような、きりりと引き締まった逞しさを見せる。オケはきびきびとした動きの中で輝かしい響きを出している。特に金管楽器が骨太な迫力ある音色で吹きまくっていて、それが見事に録音されていて嬉しい。重厚さも満点。おそらくこの演奏で問題になるのは、「重厚に過ぎる」ということだろう。
第1楽章。爆発的な瞬発力を持つ名曲だが、クレンペラーは極めて硬質で逞しい演奏をしている。さらにやや硬質な音作りの録音がその印象を強めている。
第2楽章。ただならぬ寂寥感を湛えた名曲としてブルックナーファンの人気を集めるアダージョ。この楽章の演奏は評価が分かれるかもしれない。クレンペラーはオケの分厚い響きで押しまくっており、情緒的な寂寥感を表現するということは眼中になかったようだ。クレンペラーは聴衆の持つ先入観など全く無視した演奏をするから、こんな演奏ができあがってしまうのである。私はこうしたすさまじいまでに重厚な演奏の仕方もアプローチとしては存在していいと思うし、非常に聴き応えがあるから、ぜひ推薦したい。クレンペラーにとってみれば、これが第6交響曲の唯一無二の演奏スタイルなのだと思う。
第3楽章も力で押したような印象があるが、トリオでは非常におどけた、演奏自体を楽しんでいるような風情も見られる。
第4楽章。このフィナーレについては、私は従来あまり高く評価していなかった。他の曲のフィナーレと比べると、どうも出来は今ひとつと思う。しかし、クレンペラーの指揮で聴くと、輝かしく、力強く、壮大な名曲に聞こえてくる。ちょっと不自然に感じられるほどのブルックナー休止でさえ、ここでは自然に感じられる。オケも大変な力演だ。演奏したオケもクレンペラーの不思議な暗示にかかってしまったのかもしれない。
An die MusikクラシックCD試聴記、1998年掲載