クーベリックを中心に「ドヴォルザーク交響曲第3番」をまとめて聴く

文:松本武巳さん

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ドヴォルザーク:交響曲第3番変ホ長調作品10

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1.ラファエル・クーベリック指揮
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1971年
DG(ジャケット写真上は輸入盤初出全集CD、下は国内盤CD UCCG-3942)

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2.ヴァーツラフ・スメターチェク指揮
プラハ交響楽団
録音:1959年
SUPRAPHON(ジャケット写真上はチェコ初出LP、下は輸入盤CD SU 3968-2)

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3.ヴァーツラフ・ノイマン指揮
チェコ・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1973年
SUPRAPHON(国内盤COCQ-83697-703)

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4.ヴァーツラフ・ノイマン指揮
チェコ・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1985年
SUPRAPHON(ジャケット写真は初出時の分売CD、全集CD COCQ-83919)

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5.ズデニェク・マーツァル指揮
ミルウォーキー交響楽団
録音:1989年頃
KOSS CLASSICS(輸入盤B000004ANQ)

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6.ズデニェク・マーツァル指揮
チェコ・フィルハーモニー管弦楽団
録音:2004年
EXTON(国内盤OVCL-00197)

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7.イシュトヴァーン・ケルテス指揮
ロンドン交響楽団
録音:1966年
DECCA(ジャケット写真上は輸入盤LP全集、下は輸入盤CD 430 046-2)

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8.オトマール・スウィトナー指揮
シュターツカペレ・ベルリン
録音:1979年
BERLIN CLASSICS(輸入盤BC0281)

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9.ネーメ・ヤルヴィ指揮
ロイヤル・スコティッシュ・ナショナル管弦楽団
録音:1987年
CHANDOS(輸入盤CHAN8575)

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10.チョン・ミュンフン指揮
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1995年
DG(国内盤UCCG4126)

 

■ 今回の執筆動機 

 

 もう随分と前になりましたが、ゆきのじょうさんが2006年10月2日に「ドヴォルザークの交響曲第3番を聴く」を書かれたことが契機となっております。長い間、いろいろと考え続けた結果、今回の執筆に至りました。まずは、きっかけを作ってくださったゆきのじょうさんに感謝申し上げます。

 

■ 紹介するディスクについて 

 

 最初は所有している全ディスクについて、寸評しようかとも思いましたが、あまりにも長文になると考え、その形態での執筆を諦めました。しかし、所有しているディスクのうち、結果的に割愛したのは、9種類のディスクに過ぎませんので、結果として所有する19種類のうち約半数の10のディスクについて、比較視聴することになりましたことを、まずは予めお断りさせていただきます。

 

■ 厳選した10枚の包括的なコメント 

 

 チェコ人指揮者4名による6枚のディスクと、チェコと縁もゆかりも直接は無いと思われる、4名の指揮者によるディスクを比較することにしました。なお、チェコ人の4名の指揮者は全員がスメタナの「わが祖国」の録音も残しておりますが、チェコ人以外の4名の指揮者は、ネーメ・ヤルヴィを除いて、「わが祖国」の録音はありません(モルダウのみの録音は除きます)。

 

■ 圧倒的評価を誇るスメターチェク盤 

 

 スメターチェクがプラハ交響楽団と1959年9月に録音した当該曲は、圧倒的な評価を今も維持し続けております。少々長くなりますが、ゆきのじょうさんの評論をここで再確認してみたいと思います。彼もまた、スメターチェクを強く推される評論を書かれています。

『スメターチェク盤以外には、ノイマン/チェコPO、ケルテス/LPO(引用者註:LSOと思われます)、クーベリック/BPO、スウィトナー/SKBなどをLPで聴き、CDになってからはチョン・ミュンフン/ウィーンPOを聴きました。スメターチェク盤は今となっては、他の演奏に比べて音質面では相当に聴き劣りがします。今回取り上げた CDでもリマスタリングは成功しているとは言い難いのですが、それでも名演であることには変わらないと思います。多くの演奏が、第3番が持つ美しい旋律を「歌」として生かそうとしてテンポを揺らしたり、響きに磨きをかけたりしているように感じます。しかしスメターチェクはどちらかというときびきびとアンサンブルを整え(リハーサルはかなり念入りだったと思います)、インテンポで演奏しており、とても堅牢な印象を受けます。そして、その中から滲み出てくるようなドヴォルザークらしい歌心が逆に魅力になっているように感じます。さらに、1959年という年代ではプラハ響も偉大なローカルオケであったからなのか、スメターチェク盤から聴こえてくるのは明らかに現代の国際化で失われつつある響きだと感じます。ちょっとした小節の利かせ方にも譜面にない彩りがあります。』

 

■ ノイマンとマーツァルの、それぞれ2枚のディスクについて 

 

 新旧のチェコフィルのシェフは、ともに2回の録音を残しております。チェコ人が考え、求めているドヴォルザーク像に従った録音で、聴き手を裏切るようなことは決してありませんが、ノイマンの方がより主情的な視点から演奏し、マーツァルの方は、主知的な側面を比較的重視しているように思えます。ともに、大きな不満を持つことはありませんが、心からの感動も受けにくいと思うのです。なぜでしょうか?

 それは、両者ともに、チェコ人の偉大な作曲家ドヴォルザークの交響曲演奏であることを、良く言えば誇りとして演奏し、悪く言えば根幹部分には立ち入っていない演奏であるからだと、そんな風に言えるでしょう。この根幹に関する部分は、チェコ人同士ですと特に何らの説明も不要だと思いますが、異国人にとってみると、内輪でまとまった美しい演奏に終始しており、煮え切らないものを感じるのも事実です。その証拠に、マーツァルの旧録音はアメリカのオケを指揮しておりますが、却ってこちらの方が、我々の耳には説得力をもって音楽が迫ってくるのを感じます。音楽を演奏する難しさの一端が垣間見られる思いがします。

 

■ ケルテスについて 

 

 ケルテスの演奏は、スメターチェクと同じ方向性を有しているように思えます。非常に激しいドヴォルザークを描いているように思えます。しかし、そこに通ずるのは、ドイツ古典からロマンに至る、ドイツ音楽本流に組み込もうとした演奏方法であるとも感じます。ブラームスや、ワーグナーに通ずる立派な音楽と考えるのか、ボヘミアの香りが大事な音楽と考えるのかで、ケルテスの残した録音は評価が分かれるように思えます。

 

■ スウィトナーについて 

 

 この演奏は、私にはとても面白く、興味が尽きません。それは、ドヴォルザークの交響曲が持っているドイツ音楽からの影響のうち、ブラームスとの共通項はとても強調しているにも関わらず、ワーグナーやブルックナーの影は、スウィトナーの指揮からは微塵も感じさせないのです。つまりボヘミアの音楽性というべき側面を重視していない点では、ケルテスと通じる方向性ですが、さりとてドイツ音楽に組み込んだような視点も感じられない指揮振りとなっており、非常に独自性の高い録音となっているように思います。

 

■ ヤルヴィについて 

 

 とにかく、そっけなく、最後まで進んでしまっているように思え、1回だけ聴いた時点では、最悪の評価でした。しかし、何度か聴きなおすうちに、考え方が大きく変化してきました。これほどまでに、スコアに忠実で、まさに「何も足さず、何も引かず」な録音なのです。ドヴォルザークが何を考えて、この交響曲を作曲したのか、何を考えて楽器の配置をしたのか、さらには何を考えて3楽章の交響曲に仕立て上げたのか、このような作曲家の作曲時の経緯や思考が、透かしのはいった紙のように見えてくる演奏であることに気づいたとき、ヤルヴィの本質と、実力が透けて見えてくる思いがし、深く感動しました。したがって、聴き流すディスクとしては不向きですが、これをきっかけとして考察しようと考えたときには、スコア以上に勉強させてくれるディスクとなっています。

 

■ チョンについて 

 

 彼は、以前、BISにドヴォルザークの7番と8番を残しています。これらは知る人ぞ知る名演であったと思います。それらとは方向性が大きく異なっているように思えます。もちろん、ウィーン・フィルを振っていることが、影響の一部分を占めていることは確かだと思いますが、あまりにも美しい交響曲に仕上げられたディスクを聴くと、理屈抜きに期待した方向性のうち、他の部分(人によってそれぞれ異なると思いますが、ボヘミアの民俗や大地の香りであるとか、力強く躍動する交響曲の本質であるとか、です)への配慮が、美しさの犠牲となったか、あるいは隠れてしまったと考えるのではないでしょうか? 仕上がりの精巧さに関しては、このディスクを超えるディスクは考えにくいにも関わらず、感動を呼ばないディスクでもあるように思います。

 

■ クーベリックについて 

 

 クーベリックは、ベルリンでの他流試合であるためか、この交響曲のいろいろな側面のうち、ボヘミアの美しい旋律の側面を、前面に押し出そうとしているように思います。ただし、不自然なテンポの揺れは一切見せておらず、あくまでも自然の中でボヘミア的側面を出そうとしているように思います。この姿勢は、クーベリックの基本姿勢でもあり、この交響曲を前にして、特別なことは行っておりません。

 この面を、他流試合であるベルリンで、上手く表現しつくしているか否か、この点が評価の分岐点だと思われます。この盤の基本姿勢への批判はほとんど見かけませんが、ベルリン・フィルとの相性や、カラヤン全盛時の影響などから、いろいろな評価が出てきていると思います。ただ、付言しますと、カラヤンはこの交響曲を一度も指揮しておりませんので、ベルリン・フィルへの影響力は、楽曲の解釈には特に及んでいないと思われます。奏法等への影響力に終始しているものと思います。

 

■ 一般的なドヴォルザーク像とチェコの印象 

 

 ドヴォルザークらしい民族的趣向が開花していないとも言われていますが、第1楽章こそいい意味でドイツ的シンフォニーの伝統的雰囲気に彩られていますが、葬送行進曲風の第2楽章はワーグナーの音楽に強く影響されながらも田舎の垢抜けない騎士、といった風情でドヴォルザークの素朴さを全身で感じることができます。ワーグナーのようには深刻になりきれなくて、どこか憎めないところがドヴォルザークらしいでしょう。

 そして民族色が爆発しているのが終楽章の第3楽章で、ボヘミアの祝祭的音楽なのですが、どちらかというと町内盆踊りみたいで恥ずかしくなってくるようなところがあります。さらに合いの手まで入ってきて、思わず顔が赤らんでくること間違いないでしょう。しかし、これこそがドヴォルザークです。そして聴き込むうちにその田舎っぽいダサさがだんだん癖になってきてしまいます。作曲されたのは30代前半で、ブラームスとの邂逅以前の初期の傑作といっていいでしょう。作風としては前述のとおりワーグナーの強い影響を受けており、第2楽章では「タンホイザー」のような音楽も聴こえてきます。当時はワーグナーを引用するのが流行だったとはいえ、ワーグナーの影響を受けながらドヴォルザークの個性があふれた作品です。第2楽章でも後の第7番や第8番で聴かれる哀切極まりない雰囲気をすでに味わえます。

 

■ 再び、スメターチェクについて 

 

 音は古いですが、推進力はすごい、スメターチェクらしい剛毅な演奏です。第1楽章の勇猛さはもちろんスメターチェクにはおあつらえ向きですし(なにせ盛り上げてくれます)、第2楽章のちょっともたもたしたところも、重量級の悲劇的シンフォニーとして凄まじい迫力を持って蘇ってきます。そして終楽章の「町の盆踊り」も、やはりスメターチェクだと血沸き肉踊る民族舞踏となります。そのいかめしさとトンガリ方がドヴォルザークの本来の意図と合っているかどうかはともかく、これだけの真剣勝負演奏をされたら作曲家も満足でしょう。ひょっとしたら異色の1枚で、おそらく楽譜にも手が加えられていることでしょう。これを聴いたらほかの演奏が聴けなくなる、という類いの1枚です。

 ドヴォルザークの交響曲第3番はあまり有名ではありませんが、スメターチェクのはつらつとした演奏だと、非常な盛り上がりや緊張感を見せて、なかなか面白く聞けます。打楽器とか大きめの音量でドンドンなるので、聞いていてびっくりするというか、大迫力です。通常は習作扱いをされる3楽章形式の小交響曲ですが、若さ溢れる一大交響曲に変身しています。スメターチェクという人は、どんな曲でも名曲、大曲に仕立て上げてしまう魔法のタクトを持っているのではないかとさえ思ってしまうほど、とにかくメリハリの付け方が素晴らしく、人間離れしています。アレグロの第1、第3楽章の壮大なスケール感と、アダージョの第2楽章の静寂感の対比など、とにかく音楽史上、価値ある演奏として、是非とも聞いてほしい一枚です。

(以上の2つの小項目は、CDショップ経営者で、著作もある松本大輔氏の文章を生かして、論旨を『一般論』として紹介したものです。元の文章は下記リンク先をご覧ください。)

http://www.aria-cd.com/arianew/shopping.php?pg=meiban/dvo001

 

■ スメターチェクの録音当時 

 

 1959年の秋、チェコ・フィルは世界ツアーに初めて出かけました。ニュージーランド、オーストラリア、日本、中国、インド、ソ連を周回して、チェコに戻る大旅行でした。ちょうど、チェコ・フィルが不在のときに、当該録音セッションが組まれたようです。チェコ・フィルは、アンチェルとスロヴァークの2名の指揮者で来日し、折しも伊勢湾台風の直後であったため、被災者への義捐金のためにテレビ出演し、ドヴォルザークの交響曲第8番や、スメタナの売られた花嫁から序曲などを演奏しました。その結果として、被災者に対し、当時としては大金である100万円の義捐金がチェコ・フィルから手渡されたのです。

 加えて、全く同時に、カラヤン率いるウィーン・フィルもたまたま来日中で、アンチェルが日本での音楽雑誌やマスコミの取材を受けた際の、カラヤンを非常に意識したインタビューなども残されています。そんな折のスメターチェクの録音でもあったのです。プラハの留守を預かったプラハ交響楽団とスメターチェクの、ドヴォルザークの交響曲3番の収録は、このような事情で、チェコ・フィルが不在の際の録音でもあったのです。

 この1959年のチェコ・フィル初来日で、アンチェルの指揮により、R.シュトラウスの「ティル・オイレンシュピーゲルの悪戯」が演奏されていますが、もしかしたらカラヤンを意識した選曲であったのかも知れませんね。蛇足ですが、当該曲はテレビドラマ「のだめ」の指揮者コンクール・シーンで、プラハのオケをエキストラに使って演奏した曲目でもありましたね。

 

■ 私の考えるドヴォルザークの第3交響曲 

 

 一般的に、当時の交響曲とは、そもそもドイツの影響無しには存在しなかったと言えるだろうと思います。そんな中で、楽曲構成から考えると、第1楽章は勇猛に盛り上げると言うよりも、むしろシューマンの作風を思わせるような、そんな意味でのリズムの特質があるように思えます。

 第2楽章は、確かにブラームスを思わせるところがあるかも知れませんが、むしろブラームスの陰鬱な部分、特に晩年のピアノ曲集に見られるような、渋さが必要だと考えます。しかし、同時に第2楽章は、進行するにつれて、初演の指揮を振ったスメタナの交響詩を思わせる楽曲に至ります。私は、ここの部分の理解度こそが、この交響曲の全体を支配すると考えています。

 第3楽章は、第2楽章後半から引き続き、ワーグナー的な部分があるとは思いますが、このモチーフ等が、非常に明るい曲想の中で用いられていることも考慮すると、ワーグナーの影響と言うよりも、当時の流行に配慮したドヴォルザークの作曲技法の進歩であるとも考えられます。

 要するに、この交響曲第3番は、ドイツ的な影響を受けた作風と捉えるよりも、ドヴォルザークが独自のボヘミア風の雰囲気を、田舎臭くなく、垢抜けた書法で示すことに重きを置き、結果としてコンクールに入ることも、同時に叶ったのではないのでしょうか。すなわち、ドヴォルザークの本意は、ドイツ風の構成力を持った、あくまでもボヘミアの叙情的交響曲を作曲したかったのだと思うのです。これが、国際的に通用する、民俗的作風の作曲家、ドヴォルザークを生んだきっかけとなった交響曲であったように思えてなりません。

 

■ 再び、クーベリックについて 

 

 クーベリックにとって、ドヴォルザークの交響曲全集が、他の楽曲と異なり、ベルリン・フィルであったことは、私には正解であったと考えられます。特に、ドヴォルザークの初期の交響曲に於いて、少なくともチェコ人であったクーベリックにとって見れば、ある意味での他流試合であることこそ、初期の交響曲の名演を生み出すために、好都合であったと思われます。

 ましてや、ベルリン・フィルとの他流試合は、このようなドヴォルザークの初期の交響曲の成り立ちや特質も合わせ考えるとき、カラヤンの強い影響下にあったベルリン・フィルとの録音は、クーベリックにとっても悪い話では無かったと思うのです。もちろん、7番以後の交響曲ですと、本拠バイエルンのオケで録音をしたかったと思われますが、全集を作成する目的を勘案しますと、少なくとも第1番から第6番は、クーベリックとベルリン・フィルのコンビで録音された、ドイツ・グラモフォンへの全集を超える全集は、総合的に判断すると、未だにどこにも存在していないと考えています。なお、第6番から第9番までは、オルフェオから、バイエルンとの演奏もCDで出されており、なおさら初期の交響曲における、クーベリックとベルリン・フィルの録音の貴重さが、高まると考えています。

 

■ さいごに 

 

 私は、クーベリックを愛しています。しかし、音楽は、非常に幅の広い芸術でもあります。クーベリックの演奏があれば、他は不要であるなどと考えたことは、かつて一度もありません。しかし、クーベリックの演奏が残されていて良かったと思うことは、本当に始終あります。このことは、ドヴォルザークの初期の交響曲でも基本的に何ら変わりません。

 交響曲第3番の演奏は、初期の交響曲だけに、名演となる範囲や条件が狭められていると思われます。そんな初期の交響曲でありながら、かなり異質な複数の演奏が、名演であると評価されること自体が、この交響曲にとってどんなに幸せなことか分かりません。そして、そのような多くの名演を享受できるわれわれリスナーもまた、とても幸せな境遇にあると思います。

 ドヴォルザークの初期の傑作である交響曲第3番は、そんな意味でたいへん幸せな楽曲だと思います。その意味を考える上で、スメターチェクの演奏は、本当に意義のある録音であると思いますし、永遠に語り継がれる演奏であるとも思います。そして、私自身の評価は異なりますが、その評価は、スメターチェクの録音が不要であることを決して意味しておりません。まさに一期一会の録音であると理解しています。ただ単に、私の理解するこの曲の構成とは、若干異なったところに位置しているだけなのです。そして、そのことはスメターチェクの名誉にも、残した演奏の評価にも何ら影響を与えるものではありません。なぜなら、私にとって、もっともトレイに載せるディスクは、自身の評価や分析とは異なり、やはりスメターチェクであるからです。理屈を超えた名演とは、このようなディスクを指すのだと思います。

 

(2009年10月9日記す)

 

An die MusikクラシックCD試聴記 2009年10月13日掲載