ヤナーチェク「狂詩曲《タラス・ブーリバ》」を聴く
文:松本武巳さん
ブジェチスラフ・バカラ指揮ブルノ放送交響楽団
録音:1952年
チェコPANTON(輸入盤 81 1105-2)ラファエル・クーベリック指揮バイエルン放送交響楽団
録音:1970年
DG(国内盤 POCG-91029)ラドミル・エリシュカ指揮札幌交響楽団
録音:2008年4月
Pastier(国内盤 DQC-100)■ 今回のきっかけとなった、NHK交響楽団定期演奏会の「わが祖国」全曲
先日、NHK交響楽団の定期演奏会で、チェコの重鎮ラドミル・エリシュカの指揮でスメタナの「わが祖国」全曲が演奏されたが、その内容がきわめて充実した演奏であったことをご記憶の方も多いであろうと思う。今回は、このコンサートをきっかけとして、エリシュカ指揮のCDにおけるヤナーチェクの「タラス・ブーリバ」と、定評あるクーベリックの演奏による同曲と、さらにエリシュカの師匠であり、かつヤナーチェクの弟子でもあったバカラの指揮した同曲のCDも存在することから、3者を比較する形で、この文章を書こうと思い立ったものである。つまり、クーベリックのコーナーへの文章でありながら、きっかけがクーベリック以外であった訳である。
■ まずはエリシュカ氏の講演会(2004年11月23日)から
「先ず初めにこのたび皆さんのおかげで来日し、コンサートを指揮することができ、また演奏をお褒め頂き、心より感謝しております。そして今、何よりも日本に「ヤナーチェク友の会(筆者注:当友の会のリンクページにAn die Musikが掲載されています)」が存在する、ということに驚き、そのことに対して高く評価したいと思います。初めてその存在を聞いたときには自分の耳を疑いました。
私はブルノのヤナーチェク・アカデミーで学びました。この音楽大学は、チェコ国内でも、最もレヴェルの高い音楽教育を施しています。初めの1年は、チェコ・フィルの第二指揮者として、長い間ヴァーツラフ・タリフとともに活躍していたフランチシェク・ストゥプカに師事しました。けれども高齢のためすぐに引退されたので、その後アカデミーに就任されたブジェチスラフ・バカラに師事しました。ここに、ヤナーチェクに関する資料があります。この中に若い時のバカラがヤナーチェクの他の弟子たちと一緒に写っている写真があります。バカラは大変有望な指揮者でした。絶対音感を持つ、素晴らしいピアニストで、オルガン奏者でもありました。確か2年間アメリカのフィラデルフィアでも活躍したと思います。とても美しい白髪で、背が高い方でした。今思うと、彼は私たちにとっては優し過ぎましたね。私たちがバカラの持っている多くのことを学ぶためには、彼はもう少し厳しかった方が良かったと思います。
バカラとヤナーチェクはとても親しい間柄でした。例えば、バカラには子供が3人いましたが、3人とも洗礼を受けたときの名付け親がヤナーチェクだったのです。男の子が2人、女の子がひとりでしたがね。
ヤナーチェクは、ドヴォジャークをとても敬愛していました。ドヴォジャークは彼にとって唯一の手本と言って良いと思います。私はチェコのアントニーン・ドヴォジャーク協会の会長をしていますが、2004年9月に私たちの協会でドヴォジャークが3年間オルガニストとして勤めていたプラハの聖ヴォイチェフ教会でコンサートを催し、記念のプレートをかけました。ドヴォジャークは1841年に生まれ、ヤナーチェクは1854年生まれでドヴォジャークより13歳の年下です。まだ若いドヴォジャークは生活費を稼ぐためにそこでオルガンを弾いていたのですが、ちょうどその頃ヤナーチェクはプラハのオルガン学校の学生でした。彼らはその頃知り合ったのです。」
(ヤナーチェク友の会HPから一部分を引用させて頂きました)
http://www.janacek-jp.org/■ 狂詩曲「タラス・ブーリバ」について
狂詩曲「タラス・ブーリバ」はゴーゴリ原作による、17世紀初頭のコサック族長の物語で、ヤナーチェクはこれをもとに1915年夏から作品を書き始めた。その後推敲を重ねて、第1次世界大戦の終結する1918年春に完成した。初演は1921年10月9日、F・ノイマン指揮ブルノ国民劇場オーケストラにより行なわれた。タラスの不屈の精神を表わすトロンボーン主題が、各部に変形しつつ頻繁に現われ、全曲の基軸となっている。なお、ヤナーチェクの弟子で指揮者でもあったバカラにより、4手用ピアノ曲に編曲されている。
第1部「アンドリイの死」
第2部「オスタップの死」
第3部「タラス・ブーリバの予言と死」■ ロシア映画「タラス・ブーリバ」の、ロシア国内での評判
タラス・ブーリバ
観ました、観ました。金曜の夜ということもあってかカッサはすごい人で、長い列を前に「タラスは売り切れました」のアナウンス。仕方ないので別の映画館へ移動しましたがこちらも売り切れ寸前、なんとか買えました。ちょっと話がそれますが、今年はゴーゴリ生誕200周年なので、ロシアではさまざまなイベントをしており、ゴーゴリ博物館ができたり、記念切手を発売したりなどという事も。いま、ロシアとウクライナの間では、ゴーゴリはどちらの国の作家なのかという論争が起きています。ゴーゴリは当時ロシア帝国だったウクライナの生まれですが、ペテルブルグへ移り、執筆もロシア語です。しかし作品にはウクライナの伝承をモチーフにしたものも多く、確かにウクライナ人のアイデンティティを持っていた事も間違いない、そこでウクライナ政府はゴーゴリを『ウクライナの作家』として定着させるよう躍起になっているんですね。具体的にはゴーゴリの全作品をウクライナ語で翻訳出版する計画などを提案しています。
さて、映画に戻りましょうか。国営放送テレカナル・ロシアがスポンサーで作った、ロシア民族主義のプロパガンダと盛んに言われており、その通りだとは思いますが映画自体は悪くなかったですよ。コサックの素朴で粗野、信仰深く愛情深く、好戦的で愛国的なところを愛情と皮肉を持って描いている歴史ロマン。原作にかなり忠実なようです。
しかしこれほど人気があるのは別の理由。タラス・ブーリバは長い間シュコーラの教科書に載っており、ロシア人は映画では冒頭にタラスがとうとうと述べる同志への言葉を必ず暗記させられた経験があります。タラスが息子を射殺する時にいう、『私はお前をこの世に生み出しそして殺す』という言葉を知らない人はおらず、タラスとその2人の息子について意見を発表させられた・・・そういう中学生頃の記憶が、タラス・ブーリバをどういう映画にしているんだろう? 何がそんなに面白かったっけ? と、映画館に足を運ばせているのです。
(「ウラジオストク日本人会」から引用(2009年4月13日付け))
(ちなみに国営放送がスポンサーとなったロシア映画《タラス・ブーリバ》のサイトは以下のURLです)
http://tarasbulbafilm.com/■ ほんの蛇足レヴェルの聴き比べ
エリシュカ氏の講演にあるとおり、ヤナーチェクの愛弟子であるバカラの指揮と、そのまた愛弟子であるエリシュカ氏の指揮振りは、似ていると言えば似ている。しかし、録音された時代において、ちょうど間に挟まっているクーベリックの録音と両者を聴き比べてみると、多少面白いことに気づく。
それは、最も古い録音であるバカラが、最も先鋭な指揮に徹しており、クーベリックの録音は、それよりもかなり穏健であり、エリシュカの録音は更に聴きやすいものとなっていることである。一体このことをどのように捉えれば良いのだろうか? 私は、これには当時のチェコや、地方都市ブルノが置かれていた時代背景が絡んでいるのであって、ヤナーチェクの音楽そのものの理解度の差では無いと理解したい。3名の指揮そのものは、いずれも熟練した手腕を見せた優れたものである。上記の内容は、単に3者を比較した場合の話である。これを、冒頭のエリシュカ氏の講演から再度引用することで、結論へと結び付けたい。
「最後に一つお話ししたいことがあります。ヤナーチェクの音楽は彼が亡くなると長い間演奏されませんでした。もちろん、ヤナーチェクの葬儀はブルノで盛大に行われましたし、皆ヤナーチェクの名前は知っていましたが、例えばドヴォジャークやスメタナのように演奏されることは彼の死の後はしばらくありませんでした。今の時代は驚くべきことに、世界中で演奏されるチェコの音楽の中で、ドヴォジャークの作品の次にすぐにヤナーチェクのものが続きます。」
バカラはヤナーチェクの時代に生きた指揮者である。そして、クーベリックはヤナーチェクが忘れられていた時代に活躍した指揮者だと言えるだろう。しかし、エリシュカは、今を生きる指揮者である。エリシュカにとって、ヤナーチェクの音楽を演奏することは、人気曲を演奏することでもある。このような立場で演奏することは、バカラもクーベリックも終生無かったと言えるだろう。音楽を伝道する務めを負いながら音楽を演奏することは、これほどまでに大変なことだと痛感させられたのが、今回の聴き比べであった。バカラは直接の弟子として、終生苦労したものと考えられる。また、クーベリックはヤナーチェクのオペラの校訂まで担当した経緯から、本当はもっとヤナーチェクを取り上げたかったに違いないと信じる。
東側に70歳を過ぎるまで留まっていたエリシュカこそが、最も自由に活動できるそんな場がチェコにはあったのだと割り切るのも、この「タラス・ブーリバ」聴き比べの穏当な締め方かも知れない。なぜなら、彼には、まだ将来の活動が残されているからである。
(2009年5月13日記す)
An die MusikクラシックCD試聴記 2009年5月17日掲載