マーラーを聴く 第5回 ■交響曲第2番「復活」

文:松本武巳さん

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マーラー作曲
交響曲第2番ハ短調「復活」

CDジャケット

ラファエル・クーベリック指揮
バイエルン放送交響楽団
マティス(ソプラノ)、プロクター(アルト)
1969年2月〜3月、ヘルクレスザール、ミュンヘン
DG(国内盤 UCCG-3947)

CDジャケット

ラファエル・クーベリック指揮
バイエルン放送交響楽団
マティス(ソプラノ)、ファスベンダー(アルト)
1982年10月8日、レジデンツ、ミュンヘン
Audite(輸入盤 audite 23.402)

 

参考
ラファエル・クーベリック指揮
バイエルン放送交響楽団
マティス(ソプラノ)、不明(アルトあるいはメッゾ・ソプラノ)
1978年頃のNHK−FMからのエア・チェック音源

 

■ 復活はそんなにも劇的なドラマなのか?

 

  私はこの曲に対しての本質的な捉え方と、聴き手のキリスト教受容度の間に、ある種の相関関係があるように思えてならない。少なくとも聴き手の嗜好はその点から捉えた方が分かりやすいように感じる。曲の内容をあまり大げさに捉えることは避けるべきだと思う反面、明確な標題をもったこの交響曲の場合は、そのような切り口から捉えてみても、特に問題が無いとも思う。ただ、キリスト教比率の低い日本では、私の書こうとしているスタンスは、かなり少数派であるのかも知れない。一方で、私は単にクーベリックの演奏が、この曲の優れた一つの方向性として捉えたということを書きたいのであって、私の意見に対する賛否が、キリスト教受容とパラレルであるなどと言うことは、当然ではあるが絶対に無いように話を進めたいと思う。

 

■ エア・チェック音源を外せない理由

 

 クーベリックの解釈の変遷を語りたいのが、今回の執筆動機であり、先に結論だけを書くと、非常に音楽的な、あるいは宗教的な荘厳さを持った音楽を構成しきった1969年盤と、その方向性を維持していると見て差し支えないであろう1982年盤に挟まれた1977年か78年頃のライヴ録音は、あまりにも二つのディスクとは異なった、むしろ近時の流行であり、主流になりつつある、聴き手を楽しませ、そして熱狂させる音楽作りを目指した指揮振りとなっているからである。クーベリックはこの3つの音源から判断する限りにおいて、非常に落ち着いた音楽づくりを一旦この曲では止めて、現代の他の指揮者と似た方向性である、きわめて激しく熱しやすい音楽に解釈を変更し、そして結果的に再度非常に落ち着いた音楽に舞い戻ってきたことになる。

 当然のこととして、両録音に挟まれた時期に当たるエア・チェックテープのデータの信憑性を疑問に思われる方もいらっしゃるであろうが、当時私はエア・チェックをする際に、演奏者データをアナウンサーが読み上げている部分を録音していたので、演奏者がクーベリックであることはほぼ間違いないと思うが、とても残念なことに録音データを読み上げたであろう部分を録音していなかったのである。これは当時の私の性癖で、今思うと大変残念な性癖であったと言える。さらに付言すると、3つの録音はすべてエディット・マティスがソプラノソロを担当しているという幸運にも恵まれているのである。

 

■ クーベリックが声楽作品に長けていた証明

 

 クーベリックは声楽を含む大規模な楽曲が好みであったようで、70年代の初頭にはその件でオーケストラの事務局と諍いを起こしたほどであるが、その声楽パートの扱いが際立っていることがまさしく確認できるのが、この「復活」であると思う。スタジオ録音での最初は控えめな中から、徐々に浮き上がってくるような、深い感動に支配される合唱部分、そしてその声楽パートは80年代にはオーケストラを遥かに上回る上質なアンサンブルにまで昇華されている。70年代後半のエア・チェックでは、オーケストラがやや力んで爆演型になりかかっているためか、技巧的にも若干苦しくなったり乱れたりするオケをもっとも支えているのが、まさに終楽章の合唱であろうと思われる。合唱団がソリストと一体化して、やや暴走気味なオケを引き締めているように思えてならない。そして、クーベリックはどんなに熱くなっても声楽パート(独唱も合唱もともに)への冷静かつ真摯な指示は完全に維持されている。まるで満腹でも好きなものはさらに食べることができるのと同じように、クーベリックが同時に2人いるように感じられる側面すら感じ取れるのだ。

 

■ もうこれ以上書くことはありません

 

 クーベリックの復活は、最後に声楽が入ってくるからこそ成し遂げた演奏だと思う。しかし、演奏を聴き終わってから何時間も経過して深い感動に襲われる、そんな復活はそう多くは決して存在しないと思う。これは第2楽章あたりで聴くのを止めたとしたら感じ取れない感動であるとともに、クーベリックは、少なくともこの交響曲に関しては、全楽章を通して聴いて欲しいと念願しているのだと信じたい。この部分においてのみ、クーベリックがこの音楽に込めた唯一の宗教性を求める部分であろうと思う。だから、結果としてこの曲の演奏と宗教を切り離してもなお、クーベリックが目指した楽曲作りは、とても明確に見えてくると思う。そしてそのためには、正規録音があるに違いない1978年頃のNHK−FMからのエア・チェック音源まで引っぱり出したのである。聴き比べをしにくい形での試聴記となってしまい大変申し訳なく思うが、この復活でこそ、クーベリックの声楽へのこだわりがもっとも見えてくることを主張するための方策として、私がクーベリックと同じようにこだわった結果として、こんな風に書きたかったのだと言うことで、何卒ご容赦くださればと思う次第である。

(2007年7月27日記す)

audite盤についての伊東の試聴記はこちらです。

 

An die MusikクラシックCD試聴記 2007年7月28日掲載